コラム

在宅ホスピスの実践

船戸崇史

今日は在宅ホスピスケアということを全人的医療の実践という中からお話させて頂きます。皆さんは全人的医療という言葉を聞いたことがありますか?全人的医療とは、日本ではホリステック医療という言葉と同じに使われています。そもそもホリステイックとはギリシャ語の「ホロス」が語源ですが、「全体」「ひとつ」という意味の他に「健康」という意味もあります。つまりギリシャ時代は「全体とひとつである」ことと「健康である」ことは同意語だったんですね。

私は以前外科で勤務医をしていました。外科は西洋医学の最たるものです。卒後5年までは順調に経過しましたが、それから癌の手術に携わるようになると思うようには行かなくなりました。自分としては100%完璧な手術をしたと思っても戻ってこられるのです・・再発をして。問題はそれからでした。再発した場合、多くは外科の手からは離れます。放射線治療は放射線科、化学療法は内科など、その方が専門家なんだから患者さんにとってよりよい治療が受けられると言えばその通りですが、「一生懸命やりますよ」と、約束をした自分は嘘をついているような気分になりました。ある日、私は自分の持っているものが「メス」ではなく「ドス」に見えてきました。とっても人を「救っている」とは思えなかったからです。

「家で死にたい」と、患者さんは言いますが、現実的には病院で死ぬことが増えてきています。それは、病院は医者や看護婦さんなど医療者に取り囲まれていて、そこに「安心」があるからではないでしょうか。だから良くもなっていないのに「帰っていいですよ」と言われることは、もう見込みがないということ。これでは不安で帰れない。でも、本当は「最期は家で死にたい」が本心なのだから、せめて在宅で末期を見取らせていただこうと開業したのです。それまで、全幅の信頼を寄せて頂きながら応えることのできなかった人たちへのお詫びの気持ちもあって・・。

そもそも生まれるとか死ぬとか言うのは自然なことです。かつて、その自然な死ぬ姿を在宅では看取ることができた。それが自然だった。しかし、「もし・なったら・」という保障を求める気持ちが、よりよい保険を求めよりよい医療を求めるようになった。同じ頃からですね、大病院思考になったのも。しかし、病院は治す場所であって「死ぬ」場所ではない。「死」の間際には、患者と家族の間に機械が入り、医者や看護婦が入り一番会いたい家族は病室には入れない。患者さんが亡くなるときも、見ているのはモニタ-。一番大好きな人が亡くなるのに不思議な光景。在宅ホスピスとは、そうした反省にもたっている。

ホスピスとはHOSPICEと書きます。ホスピスの働きは7つあって柏木は以下のようにまとめています。

H:ホスピタリテ-=親切なもてなし。
O:オ-ガナイズドチ-ムケア=組織化されたチ-ムケア
S:シンプトムコントロ-ル=症状のコントロ-ル
P:サイコソマテイックケア=精神的なケア
I:インデイビジュアライズド・ケア=個人的な対応・ケア
C:コミュニケ-ション=対話
E:エデュケ-ション=教育(専門の施設スタッフの養成)

しかし見方によってはこれらは在宅ホスピスの方が条件が満たされていると言えます。そもそも、自宅というのはその人にとって一番自分らしい空間を作ってきたところです。最も癒される場所であり、一番会いたい人、つまり家族がそこに居るわけですから、これほどの良い所はないはずです。問題は症状のコントロ-ルですが、これもかなり在宅でカバ-出来るようになってきました。ただ教育の意味はやや違って、私は子供や孫への生命の大切さを教える事だと思っています。一番好きな人が亡くなって二度と会えないということ。是ほどの教育はないと思っています。ただ、在宅では現実としてやっかいな問題もあります。家族関係がすべていいとは限らないので、嫁姑の確執などねじれてしまうと、人間関係が急に変わるのは難しい。時には病気を機に関係修復できるときもあるが、どうしてもしんどいとなると本当に在宅がいいかどうかは分からない。在宅がいいか施設がいいかではなく、どちらでも良い。でも、在宅で関わる以上、折角家族になったのだから、何とか価値観が変わらないかなって思います。

在宅ホスピスでケアさせて頂くにあたって大切なことは

(1)医療者がきちんとした死生観をもつ。
(2)思いやる心。
(3)傾聴の3つです。

まず、(1)の死生観ですが、人が死ぬとはどういうことか?については、エリザベス・キュ-ブラ-・ロス博士が「死に臨むの5段階説」というのを報告していますね。これは、人が、不治の病の告知を受けたときに生じる心(境地)の変化の段階です。

第1段階:ショックの段階です。
第2段階:怒りの段階で、どうして自分がそんな羽目になるのかと怒りが出ます。
第3段階:取引の段階、これは、病気を認識したうえで、ではどうやったら治るのかを、あの手この手で調べます。この時が一番アドバイスに適していると言えます。
第4段階:欝段階。結局、駄目でであることが分かると、外との交流を閉ざし、一人閉じこもりとなります。
第5段階:受納の段階。あきらめて、受け入れて行く段階です。

勿論、この段階を順番に進むわけではなく、行ったり来たり、時には飛んで進むこともあるといいます。でも大切なことは、医療者は告知をされた人が今どの段階かを把握しないと適切な対応が出来ないということです。つまり、ここに必要なのが(2)思いやり、と、(3)傾聴ですね。
そして、この5段階説に加えて、上智大学のアルフォンス・デ-ケン教授は第6段階というのを加えておられます。それは

第6段階:期待と希望の段階。「死後の永遠の生命を信じる人は受容の段階にとどまらず、死後に愛する人と再会することへの期待と永遠の未来に対する希望を抱きながら明るく能動的に死を待ち望む人が多い。」としています。
この第6段階目は、とても興味深いですね。永遠の生を信じる人は死を待ち望みさえする。死んだら終わりだと思うからこそ不安や恐怖がある。実際にあの世があるとかないとか言っているのではなくて、あると信じているか信じていないかの問題。でもこれは価値観論なので人がどうこう言える事ではない。私は、死ぬ過程というのは、恰も深い深い森の中を一人で歩いているようなものだと思います。その時に、この森の向こうに明るいパラダイスがあると信じたほうが、今歩きやすいか、先のことを考えるのは逃避であり、大切なことは、今目の前を歩くという事、森の先など関係ないと思った方が歩きやすいか、ただそれだけのことだと思っています。

実際、在宅ホスピスを実践していて一番難しいところがここだと思っています。患者さんや家族の「死そのもの」への不安と、「死への過程」への不安。しかし、このアルフォンス・デ-ケン教授の死への6段階説は私たち在宅医療者の死生観にとっても大切な価値観を教えてくれていると思います。在宅ホスピスを志す私たちの理想は、その人が自宅で「安らかな最期」を送れるように援助することです。その意味で、不安のない希望のある最期はもっとも理想的といえるでしょう。だから、在宅ホスピスに関わる私たち医療者はその人が「あの世はある」「ない」といういずれの考え(信念)にも対応できるような深まりが要求されると思っています。

最後に、とかく私たちは「良い」か「悪い」かで物事を判断するように教育されてきました。「人の死」も自らに照らして「避けたい」がために「悪い」ことに位置付けられましたが、本来「人の死」とは、悪いことではない。だから私たちの物事を判断する目安は「良い」か「悪い」かではなく「自然」か「不自然」かではないでしょうか。「人の死」は「自然」ですから、「死なせない」のが不自然ですね。でも、「死んでほしくない」し「死にたくない」から、医療者として関わりに必要な「思いやり」からすれば、「死なせない」ように力も入りがちになる。しかし、「死」が「自然」であることはちゃんと認識していなくてはいけない。だから、大切なことは「如何に死ぬか」ではなく、「如何に生きるか」であるという事。人の一生は一日にも例えられますね。夜になって寝るときが死ぬ時ですよ。「寝よう」「寝よう」と思っても中々寝られない。どうやったら簡単に入眠出来るかというと、如何に昼に元気に生きるかです。昼間ピンピンなら、夜はコロッですよ。寝る工夫ではなくおきる工夫、昼間に元気でいる工夫が大切ということになる。ですから、如何に死ぬかは如何に生きるかと同じ事。その意味では、ホスピスは眠れないときに、暖かなミルクをそっと持ってくるような心配りのようなこと。本当に大切なことは、その人の生き方そのものなんですね。できたら自然に生き、死にたい。自分の家の方が、その環境が整っているから、出来ることなら「家で死にたい」を応援したい。これが、在宅ホスピスの根本だと思っています。