本当の癒し船戸崇史
以前、何かの本で「私たちは一つになりたい、という本能がある。」というのを読んだことがあります。私自身は、ピンとは来ませんでしたが、意味ありげな言葉だなと、記憶に残っていました。しかし、過日まさに「本能」として「ある」ことを実感しました。まさに「治す」を中心に現代医療が席巻する中で、だからこそ明らかなコントラストを呈して「癒し」が求められる現在、私は、この「一つになりたいという本能」こそが、私たちを「癒し」に導き同時に最高の「恩寵」としてあるのではないのかとさえ思えるようになりました。 今日はそのお話をしましょうね。 「治し」と「癒し」 そもそも「癒し」と「治し」の違いは何でしょうか?私は、「治し」は「健常と思われる方向へ導く行為」であることに対して「癒し」とは「本来の道=安らかな境涯に気がつくこと」ではないかと思っています。ですから、「治し」の目的は「死なせない」「生」である事に対して「癒し」の目的は「安らかな境涯」ひいては「死すら受納」であると思っています。本来「死」とは「生」の対極に位置するのではなく延長線上に位置する筈ですから、そもそも「死なせない」のは不自然なのですが、現実には「死にたくない」ので、多くの人が「治す病院」で「死」なざるを得ないのが現状だといえます。その結果、スパゲッテイー症候群と言われるように、亡くなる瞬間まで、管やコードが身体にまとわりつきぐるぐる巻きにされた状況で亡くなって行くのです。その反省に立って、ホスピスや緩和ケア病棟が増えてきていると言えますね。「癒し」を求めながら「治し」の方法しか選択できない人間とは、何と辛いことかと思ってきました。 「同じになる本能」 ところが在宅医療をさせていただくと、実際にはそのような状況の中ですら人間とは本当にすばらしい適応力を示してると感じるようになりました。殊に徐々に死期を感じておられる患者さんは、自らの宿命を心底受け入れておられる様なのです。そこには宗教が関与しているとも思えない、投げやりな「あきらめ」だけとも取れない境地を感じてきました。それが何か、私にはしばらく判りませんでしたが、ある日、それがまさに「一つになる本能」ではないかと思えるようになったのです。 どのご老人も言ってこられました。「そりゃ死ぬのは怖いわな、でもいつかは逝かなあかんでな・・・」「おじいさんも、親戚もたくさん逝かしたでなも、次は私やわな・・・」「死にたあはないけど、私の母より長生きしたでなあ、まあそろそろやと思っとるわな・・」いつもいつも在宅で末期を看取らせていただくにあたりこの言葉をどれほど聞かせて頂いたことでしょうか?しかし、考えてみたら、この言葉はかつて私が病院勤務時代にも何度となく聞かせて頂いた言葉でした。いままで「生に対するあきらめの言葉」としか思っていなかったのですが、最近そうではない、この「あきらめの境地」こそは実は「同じになりたい」「一つになりたい」という本能があるからこそではないかと思う様になったのです。 両親も親類も兄弟も死んだ・・・皆、死んで行く・・・・私もその時がきている・・・・私も同じになる・・・・皆同じ・・・・これが定め・・・これでいいんだ・・・・私も皆と同じなんだから・・・ 「死への恐怖」は当然ある。しかし、「同じである安心」も同時にある。自分の身近な人の「死」と言う苦しい体験は、辛ければ辛いほど自らの「死」が余儀なくされた時に突然に「安心」に変わり「恐怖」はなりを潜める。「同じであること」に癒しを感じているからではないでしょうか? これを「本能」と言えるのかは判りませんが、余りにどの患者さんも最期を自覚されたときに言われる言葉や顔が同じであると言うことが、私には不思議でした。そして一つの思いに至ったのです。 「私たちはかつては一つであった。その記憶のベールが自らの最期を自覚した時に開かれ『同じであった』『一つであった』ことをただ思い出すだけなのかもしれない・・・」と。そうであるとすれば、それこそ「本来にもっていた記憶」であり「本能」と言えるのではないでしょうか。 「本当の癒し」 こうして考えてゆくと、日常の生活の中でも「同じである癒し」というのはいっぱい経験しています。例えば「離婚」に悩み苦しみを背負っている人への最高の癒しの言葉は「私も離婚したよ」。「手術が怖い」と言う人へ「私も受けたよ」。「最愛の人が交通事故で突然死」の最悪の状況ですら「私の主人もそうだった・・」という事実と言葉。同じ境涯を生きてきた人がいると言う事実にどれほどの人が癒されていることでしょうか?そして、最も皆がいやだと思っている事態、それこそが「自分の死」、その事態すら皆さんの親戚や友達がそして時には最愛の人が先立っているという事実こそが、その「死」をもってあなたの「死」を最高に「癒しめている」のではないかと言うこと。 ですから、今苦しみをもって、それでも生きなければならない人たちは、その人の存在こそが「同じ境涯」を今後も生きなければならない人たちへの最高の励みとして輝いているはずです。今、深い苦しみを背負って死に向かっておいでの人も、あなた亡き後ですら、その輝きは失うことはありません。これほどの深い「癒し」があるでしょうか。私たちが「同じでありたい」「一つになりたい」と願うのが本当に「本能」であるとすれば、この「本能」こそがまさに「本当の癒し」であり「神からの恩寵そのもの」であると言えると思うのです。 「メッセージ」 昔から「苦しみは買ってでもせよ」と言われたのは、一言でも多く「私も同じよ」と人の苦しみを支えることが出来るようにと先人が考え出した知恵だったのですね。今、あなたが一つでも多くの失敗を経験してきたとするなら、誰よりも多くの苦難を経験してきたとするなら、肉体的に苦痛を感じ先天的に不具を生じているとすれば、それこそが「最高の癒し」であり、それを引き受けて今まさに生きているあなた自身が「最高の癒し手」であると言うことです。あなたはただ一言「私も同じです」と言える唯一の魂なのですから。 |