コラム

幸せのコツ

船戸崇史

在宅医療を経験するなかで、本当に色々なケースを経験させていただきます。
過日,この通信で「本当の幸せ」という随筆を投稿したことがありますが、あれは癌末期のAさんにお伺いした「幸せの定義」を載せさせてもらいました。この方は、「普通のことが普通にできること」これが幸せと言われました。兎角日常、普通のことを普通にしている私達にしてみたら、今が幸せか?といわれてもピンとはきませんよね。Aさんは「幸せは遠くにあって求めるものではなく,近くにあって気が付くことである」ことを教えてくれたのでした。仮に私達が、今の生活の中でAさんの境地を持ちながら生きることが出来たとしたら、きっと世界の見え方が変わり人生が変わるでしょうね。しかし、私達の生活は(殊に私は)実際は,何と「不平・不満」の多いことでしょうか?一体どうやったら,この不平不満な心を少しでも幸せに近づけることができるのでしょうか?
そんな中,過日往診中に経験したあるご老人の言葉から、幸せになるコツ?のようなものを教えてもらえたので,今日はそれを紹介したいと思います。

「人生の受け止め方 」
現在,往診依頼をされお伺いする方は、圧倒的に70歳以上のご老人が多いですね。70歳以上といえば、明治,大正に生まれ人生の青春期を戦争に奪われ,自分の人生の殆どをひたすら仕事だけに打ち込んでこられたという勤勉実直奉仕型の方が多いですよね。そんな時代背景から、「働かざる者喰うべからず」という教訓は当然の知恵だったと思います。しかし、同時に是は、いったん自らが高齢となり,況や病気でもしたら、働きたくとも働けなくなり自らを無価値な人間として「生きる価値」を否定せずにはおられません。
これは辛いことです。
しかし、在宅医療の経験からはそのような状況の受け止め方が2つのに大別されることに気が付きました。
一つは,その様な状況だからこそ、自らの価値が見出せず、このまま死んでしまいたいと申される人々(厭世派)と、もう一方はこんな状況ですら,微笑を絶やさず、ただ「ありがとう」「おかげさま」と言われる人たち(感謝派)です。一見,この両者の心境は両極端に見えますが、よくよく聞かせていただくと、いずれの場合も,実は同じ心境が去来していることが判りました。つまり,厭世派も感謝派も、「もう死にたい」と言う気持ちと「ありがとう」と言う気持ちの両方共を感じて見えるのです。一人の心の中に両方の気持ちが混在しているということです。しかも面白いことには,いずれの場合もその根拠までが同じなのです。「もう死にたい」という根拠と「ありがたい」という根拠が同じだということです。つまり、「なぜそう思うか?」と問うと、いずれの場合も、「当然」「普通」「あたりまえ」という言葉を使われるのです。では一体何が違うのでしょうか?
以下に私なりその違いを検証してみました。


「厭世派と感謝派」
まず感謝派は、老化した体で思うに任せぬ体を「なんとか体が動くでなも」「なんとか目が見えるでなも」と認めておられますね。「でも大変ですよね」と、聞けば「歳やで仕方ない(当然)あたりまえやわな・・」と根底には「あきらめ」がありますよね。しかもこの諦めも、前回号で紹介したように「投げやり」ではない。本当に受け入れておられるんですよね。そして感謝派の考えは、いつも「皆の幸せ」があり、中心にある言葉は「ありがとう」「おかげさま」です。家族内での人間関係も円満で、しかも笑顔つきですね。

一方厭世派は、老化した体が思うに任せぬ故「体が動かんでな」「目が見えんでな」と、最もなお言葉です。「そりゃ大変ですね」というと、どうも肉体的不調以外の「不満」が一杯出てきます。それを整理してみますと、不満の原因の多くは、家族内の人間関係だったりするんですね。時には,長年の不満に根が生えて恨みや憎しみまで変化していることもありますね。ですから、話を進めさせていただくと、体のことから、人間関係へと深まってきます。「家族が話を聞いてくれん」「家族が大事にしてくれん」・・・また、時には「家族が、強引に○○してくる」という表現もありますが、是も根底には「○○しないのが当然なのに、そんなことも分かってくれない」という同じ構図が見て取れました。つまり、不満の根底にある言葉は「・・してくれない」であり、これは「判ってくれない」「認めてくれない」=「存在価値がない」=「死んだほうがいい」という構図になる。この場合は、「家族は話を聞いてくれて当然、面当も見てくれて当然、判ってくれて当然、あたりまえ、普通」だからなんですね。しかも眉間のしわつきです。

皆さん如何でしょうか。どうも「同じ根拠」と書きましたが、根拠の基準はまったく違っているようです。つまり、体が動かないのが当然なのか動くのが当然なのか?自分の事を判ってくれて当然なのか、自分のことだけではなく皆のことも考えるのが当然なのか?ということの様ですね。

「厭世派から感謝派へ」
厭世派か感謝派か、基本的には、これは冒頭にご紹介した、幸せの定義のごとく、結局は境地の問題だと思っています。当然の辛い状況「だから」不幸せなのか、「だけど」幸せなのか、ですね。
さて、ではこの厭世派がどうやったら感謝派に移行しうるのでしょうか?
私は,在宅の経験の中から、厭世派にも感謝派にも話し方に一つの傾向があることに気が付きました。つまり、感謝の出来事と不満の出来事の並べ方に傾向があるのです。厭世派は感謝の出来事を必ず最初に述べてから「だけど」と続けます。以下,延々と不満を並べ、最終的に「死にたい」という結論に行くのです。一方,感謝派は最初に「そりゃ」といって、不都合をまず述べます。その後「だけど」と続け、「仕方ない」と諦めの境地を披露され最終的に、「皆さんのおかげ」で成長できたと、感謝に結ぶのです。
この法則をうまく使えば、あなたも感謝派になれるという事ですよ。きっと。

「幸せのコツ(実践編)」
そこで私は考えてみました。名付けて「幸せのコツ実践法」。
まず、今立ち止まってください。さて、今のあなたの幸せと不幸せを誰に遠慮することもなく、一度全て書き出してみましょう。「幸せ」といっても、中には「手がある」「足がある」「息ができる」というレベルの人も居られるようですが、この際大事なことは現状で自分が本当に感じ思っていることを正直に書くことでしょうね。それを、「幸せ群」と「不幸せ群」にわけて、最初に「そりゃ」と言ってから,「不幸せ群」を読む。ここにはきっと「・・してくれない」と、不満に感情がこもって一杯出てくることでしょう。(実は,思ったより不満の項目は少なく、一杯なのは不満の感情であることが多いのですが)

さて次が大切です。次に「だけど」と言って、ここで一回大きく深呼吸をします。大きな溜息でもいいです。そして、「幸せ群」を読み上げるのです。始めの頃は棒読みで結構。そして、最期に、「ああ、ありがとう」を3回言って、「ニコ!」って微笑むのです。(3回というのはそんなに意味ないのですが,多すぎるとありがたさが減りそうなので??)「ありがたい」気持ちでなくとも、いや気持ちでないからこそ、あえて感謝派の形をなぞって見るのです。面白いことに、笑顔については、楽しくなくとも笑顔の表情を造るだけでNK活性(癌細胞を食べる免疫細胞活性)が上がることが分かっていますから、この方法は、最期に笑顔を作るだけでも癌を予防できることは医学的に証明されています。

しかし、現実的には私達は不満の思いは実に常時湧き出ています。「む!」「か!」とか、「冗談じゃない!」「ちょっと!」と言う時ですね。そんな時は、我慢せずに出し切ったほうがいい。ただし、当事者に向かって出すのは避けたほうがいい・・・喧嘩になりますからね?だから、ちょっと我慢して、場所を変えて、安全なところでぶつぶつ言う。それからが大事。「だけど」と言って,「深呼吸」して、感謝の句を言いたくなくとも言うのです。そして、最期に「ありがとう」「ニコ!」です。一番駄目なのは、ただ我慢,我慢・・だけの人。是は最初血圧が上がる,次に潰瘍ができる。それが続くと癌になりますからね。

さあ,如何でしょうか?一度お試しくださいね。

皆さんの実験結果をお待ちしています。・・・そして、幸せが広まりますように。