コラム

哀悼

船戸崇史
平成14年1月1日、父が永眠いたしました。享年69歳。
母は8年前に癌で他界しておりますので、今頃は雲の上で在りし日の思い出話に花が咲いていることでしょう。
今回は、憚りながら父親を追悼して、在りし日の父親からもらった遺産について思い巡らしたく思います。私ごとばかりで恐縮ですが、父の霊前に捧げます。

父は、昭和7年2月12日に武儀郡洞戸村に8人兄弟姉妹の次男として生まれました。祖父の父親は、この界隈でもまれに見る大山持ちでしたが、一代で身上を終い、祖父は破産の憂き目に会い今の実家に家を持ったとのことでした。
この時に、祖母のテルばあさんが口癖のように父親に話していたことが、「人に馬鹿にされたらあかん。人の上に立つ人間になって見返して欲しい」と、悔し涙を浮かべ、まだ小さい父親に話したといいます。この時に心象は強烈で、「必ず偉い人間になってみせる」と、誓ったといいます。
思えばこの時から、父親の人生は強烈な方向性を得て、持ち前のバイタリティーと、並はずれた忍耐力で、めきめきと頭角を現してゆきました。

小学校の頃から商売熱心で、少しでも家計を助けたいと願っていたようでした。それも、母親の喜ぶ顔見たさだったのだと思います。武儀高校時代は弁論部に入り、政治家のディベートの基礎を築きました。
卒業後は、実家の林業を助ける傍ら、祖父を村長に擁立するために奔走したといいます。「自分が実家を継ぐので、親爺を男にしてくれ」と、若干18歳の若者が選挙の先頭を切ったといいます。この間、着実に財をなし、とうとう35歳で県議会議員に初立候補。そして、接戦の末、苦杯を舐めました。
しかし、この時の落選の経験が、その後の父をより大きくしてくれたのだと後に語っていました。

落選時は選挙違反をとがめられ、選挙参謀と一緒にモーテルに逃げ、つけたテレビに「選挙違反」と自分の顔が大きく出て、「こら逃げれん」と悟ったこと。
1日留置されて、この間に考えに考え抜いて、出所後3台のパトカーを警察に寄付したこと。
その後、スピード違反で捕まったときのパトカーが、自分が贈ったパトカーであったこと。

選挙に落選した原因が、神仏祖先を味方につけていなかった事を反省した父は、その後、この時の選挙後援者とともに、伊勢神宮、出雲大社、平安神宮など神楽を上げに行脚したとか。
この頃に父親の神仏崇拝の根幹が作られたと思います。
39歳で2度目の県政挑戦で、初当選を果たして以来、連続8期当選。内6回は無投票という結果を頂けました。いつまでも、祝当選の「万歳!万歳!」の声と、本当に嬉しそうな父親の顔が脳裏に浮かびます。

思い起こせば、父親からは多くの助言、言葉を聞いています。特に選挙期間中は、「政治家はな、選挙のときだけが選挙やない。毎日が選挙や。人のためになることを毎日心がければ、人は必ず分かってくれるし、感謝してくれる。」と言っていました。

私が記憶している父親の言葉
「人間は誠実やなきゃあかん」「人に喜ばれる人間にならなあかん」「耐えろや、ええか耐えろや」「お金と人はな、追うほどに逃げる。でもな、本当を求めるとな、人と金は集まってくる」「変な奴が多いのはな、有難いぞ。普通のことが普通に見えんでな」「結果は全てよしや。問題はこれからどうするかや」「窮して変じ、変じて通ずや」「底なしつるべで水を汲む(妙心逸外老師曰く)」「講演の時はな、口に持って行ったタバコに火がつけれんような話をせなあかん」「人はよーく見とるぞよ」「俺は選挙に負けるはずがない。先祖が応援してくれとるでな」「全ては神仏、祖先があってのことや・・・忘れたらあかん」「幸せか?そうやな、ある程度のお金はいるな」「人生万事塞翁が馬や」「一番欲しいものを人には上げなあかん」「不可能?やってまえば可能という」「本とーの信念」「神社・仏閣に寄付することは先祖に寄付することや。それはな、子孫へ必ずかえるでな。貯金みたいなもんや」「年喰ったらな、俺は味噌でも喰って暮らすわな」・・・・

ついに私は一度も父と母に叱られたことはありませんでした。
一つには、悪いことを見つからなかったことと、私以上に兄が目立ったということでしょう。しかし、同時に多くの苦労の中で、「子は宝」を両親とも実感していたのだと思います。現在、私自身が3人の子供を持つ親となって、如何に「叱らない」ことが偉業なのかを身にしみて感じています。
父の面影は、本当にニコニコ笑いながら「やあやあ・・・」といって手を振り、「ええよ」という姿だけでした。勿論この陰には長らく二人三脚で辛苦を共にしてきたお袋の存在も忘れられません。しかし、お袋の口癖も、「あんたがええ様にしんさいよ」でしたから、本当に認められて認められて育てられたと感謝しています。

父親の生き方は、一言で言えば「忍耐と感謝」の人でした。
まさにそれを毎日の目的にして、ただひたすら人のために東奔西走し、毎日を「一日一生」のごとく生き、生き切って逝きました。それは、父の最期の死に様にも端的に現れています。事の始まりを大切にし、行事やセレモニーをけじめとして大切にした、父親の選んだ日が今年の元旦でした。
始まりの日に身を終う。この世を終い、あの世を始める。しかも真っ直ぐ、車ごと用水路にダイビングして行きました。路面にはスリップの跡もブレーキの跡もありません。そして、同乗者や事故に相手がいるわけでない、まったくの単独自損事故でした。しかも、この用水には父親の力を入れていた「高賀の森水」が流れる板取川の水で、父が命がけで力を入れていた名水を飲むだけ飲んで逝きました。
死因は水死。何の後腐れもありません。

突然の事故死は何の遺言も残りません。遺言はただ在りし日の父親の生き方のみです。しかし、こうした余りに見事な散り方に、ただただ父親の生き方を重ねて私は納得していました。「死に方」と「生き方」は同じ。「父親は事故でなくなったのではなく、本当に天寿を全うし、ニコニコしながら、元旦の初めの日にあの世へ旅立つことになっていた。そうだ、予定通り天に召されたのだ」と確信しました。「お前たちはそれ程に成長した。もう、私は必要ないはず。後は自分で考え行動し、やってゆきんさい。道は示した。心構えも判ったね。歩むのはあなたたちだ。いいね。後は任せたよ」という言葉が聞こえてきそうでした。

まだ、振り返れば父親と共に思い出が涙となってあふれます。自分のふがいなさに胸が痛みます。後悔と感謝が交じり合った涙。父親が亡くなった時の取って置きの涙が今日もこぼれます。重いでは涙と共に溶けて流れますが、決意は涙とともに固まります。父親の生き方を自分のものとして、これからを生きてゆきたいと願っています。母の元へ、きっと胸を張って帰っていった親父のように、私も胸を張って帰りたいから。そして、父のようにニコニコ笑いながら「やあ、ただいま」と言って両親と邂逅できる、自分になりたいと願っています。

ここに、本当に心より尊敬し好きだった親父に深く感謝し、言い尽くせないほどの「ありがとう」を涙とともにお供えいたします。

来世も必ず、縁ある家族として生まれますように。
お父さん、ありがとう。

また、この書面を借りまして、親父にご縁のありました方々には心より感謝申し上げます。