コラム

また逢おう

船戸崇史
大往生というのは年齢に関係があるのでしょうか?若くして亡くなる(死ななければならない)方は人生の使命を果たしたとは言えないでしょうか?
往生とは、使命とは一体何なんでしょうか?

過日、陽炎の漂う暑い日に、桜の花が散るように美しい一人の少女が旅立ちました。
少女と言うのにふさわしい風貌と、人形のような愛くるしさを、死化粧は一際引き立たせていました。うっすらと開いた口元が静かに微笑んでいるようで、これまでの苦しかった闘病生活が嘘のようです。しかし、この微笑みこそが、彼女の人生の象徴でもあったと確信しています。
今では、痛みからも解放されて、ひょっとしたら、彼女が一番ほっとしているかも知れません。ユミちゃん

ユミちゃん。
享年28歳。仲の良い女ばかりの3人姉妹の長女でした。
まじめで几帳面、情熱家のお父さんと面倒見の良い優しいお母さんの5人家族でした。
ユミちゃんは生来朗らかで明るく、何も話さなくとも、周りの人を楽しませるという天性の徳が賦与されていたようです。そんな彼女に異変が襲ったのは平成14年9月の検診でした。
少し肝臓のデータが悪いから、と近くの開業医に出向いたところ、腹部超音波検査の結果すぐ県病院へ行くようにと勧められたのです。
若いから、悪い病気じゃないよと思いながらも、ふっとよぎった悪い予感は的中し、S状結腸癌と診断されました。しかも、大きな肝臓転移も発見され、病気は一気に4期。所請手遅れの段階だったのです。
病院の担当医からは「もう治る可能性はない・・・」と両親に告知されましたが、本人や娘たちは若いゆえ告知されませんでした。父親は主治医に聞きました。
「千に一つも可能性はないのですか?」
担当医は
「・・・・はい」
と返事されました。

その後、担当医からは治療方法としての手術や抗癌剤の説明がされましたが、いずれも延命の為でした。この時点で既にご両親は県立病院からの撤退を決意しておられました。余りに若い娘に「万が一つでもいい、治る可能性を模索したい」と願われたからでした。
結果が、本当に駄目でも、完全に治る可能性を否定された所に居たくはなかった。せめて、「治らない」ではなく「わからない」と言ってほしかった。これからの自分たちが生きてゆく時間を、仮に本当に短くても「治らない」の言葉では支えてくれないからでした。

告知
藁をもすがる思いでご家族は色々な病院を当たったといいます。そして、ご両親が当院の門をくぐられたのが、平成14年10月29日の事でした。ご両親からは、ここに至るまでの過程が詳しく述べられました。
正直に申し上げて、私もかなり状況は深刻であると感じました。そして、余り時間はないとも思いました。
しかし、何時も感じることは、人は諦めた時が「死んだ」時です。たとえ息をしていようとです。大切な事は、今は本人は「生きている」と言うことなのです。生きていればこそ、あらゆる可能性が開けます。
しかし、問題が2つありました。1つ目は、肝心の本人ユミちゃん自身はこの事実が知らされていないということでした。ですから、お話をお伺いしながら、一番大切なことは、まずユミちゃん自身に告知すべきであると思いました。しかし、「決して治らない」と言われた状況でそれをどうやって告知するのか?とご両親は戸惑われましたが、癌だからこそ、手遅れと言われたからこそ、若いからこそ告知すべきであると、お話させていただきました。現状が判らなくては闘病のし様がないからです。
私の経験から、現状を乗り越えるコツは、まず同じ視座に全員が立つことから始まります。土俵が違っては、勝負にならないと言うことです。ただ問題は、告知のタイミングと言葉であると伝えさせてもらいました。加えて、私の経験から、「その病気がその人に今訪れたのは、その人なら乗り越えられるからですよ」と伝えさせていただきました。

その日、ご両親から娘へ告知されました。
ユミちゃんは、「痛みの原因がわかってすっとした」と言われたといいます。きっと、既に判っていた悪い予感の中で、にじんでいた焦点が絞られる様に本当に向かうべき方向が本人にははっきり見えたのだと思います。それともう一つ、とても大切な事は、告知とは、事実を伝えるという事以上に、伝える側がその責任を同時に持つという事。だから、告知という行為自体が、御両親の「あなたと共に歩む」「同伴者」の決意表明だったのです。
そこには、「死なば諸共」の決意が伺われます。ユミちゃんの「すっとした」と言う表現の中には、ユミちゃんの許容量の賜物だけでなく、御両親のこの真な態度が、ユミちゃんの病気の重さの如何程かを代わりに支えてくれたからだと思うのです。

サポーターとしての心がけ
そして、2つめの問題とは、御両親が余りに力みすぎているということでした。
娘であり、若いゆえに当然といえば当然ですが、この点は気をつけなければなりません。闘病に当たって、サポーターが余りに意気込みすぎると返って本人が辛くなる事があるという事です。たとえ人情として当然であっても、「絶対に治す・・」「絶対に治してみせる」という思いは「絶対・・」という思いが強ければ強いほど「それほど重症な病気であり、本当には治るはずがないから・・・」という前置きが本当の信念の言葉になるのです。
その根本には気づきにくいのですが、一つの本能的感情があるようです。つまり、「絶対治す」とは、「絶対死んでほしくない」であり、「死への恐怖」ゆえに湧き出た信念と言えます。
一見当然そうに見える「願い」である「死んでほしくない」は、よく見ると、場合によっては、「親の恐怖ゆえの親の為の願い」にすり替わってしまっていることがあるということです。感覚の鋭敏になった患者はこの点を見逃しません。親の望みとは裏腹に飄々としている場合があり、実は当事者である子供のほうが意外と事態を客観的に冷静に受けとめている場合があるからです。その場合、必ず親は患者によってたしなめられます。
ユミちゃんの御家族は最初の係わりの頃は親が当然のように陥るこの罠に陥った状況も若干見受けられましたが、この御両親の素晴らしいところは、この状況を早々に看破され、子供の言い分に尊敬の念を持って傾聴されたということです。なかなかできる事ではありません。でも、これを可能にしたのが、カールサイモントンの講演会がきっかけだったようです。

ホリステックな診療
平成14年11月9日。当院で開催したサイモントンと特別講演でサイモントンはこう投げかけられたのです。
「あなたが生きるために『どうすべき』を考えるのではなく、『どうしたいか』を感じること。haveto ではなくwant to であるということ。大切な事は、死を見据えてどう生きるか。生き生きとわくわくと生きる人生こそが、本当の人生の目的ではないか。」
この講演会には、御家族で参加され、熱心に聞き入っておられました。
その後、当院でも所謂ホリスティックと呼ばれる全人的な診療が開始されました。ドイツのシュタイナー医学のオイリュトミーが日課となり、医食同源からマクロビオテックの食事も開始されました。
ただ、食事についてはなかなか理論通りにはいかない面もあったようです。しかし、最終的には、「旨い、まずい」は本人の好みゆえ、「食べるべき食事」から「食べたい食事」へと転換し、頭の理論から自らの舌の感覚を信じた方向へと進んでゆかれました。これもまたサイモントンの影響かもしれません。
しかし、同時に私たち人間とは理論どおりの存在でなく、人間存在から理論が導かれることを学ばせてもらいました。
日々は順調に過ぎているように見えました。しかし、ユミちゃんの体の中では肝臓への転移は間違いなく、大きくなりつつありました。

ユミちゃんの在宅療養
平成15年6月10日。とうとう通院困難となられました。
近くの在宅医療を行ってくれる医療機関を紹介しようとしたのですが、ユミちゃんと家族の断っての依頼により、当院で在宅ケアをさせていただく事になりました。毎日医師か看護師が、片道1時間の道のりを高速道路を使っておじゃましました。考えてみれば、同じ道のりをだるい体を引きずってよく通院してくださった、と頭の下がる重いでした。この長距離の在宅ケアは、当院のスタッフにとって大変な楽しみへと代って行きました。どのスタッフもユミちゃんのお宅では何時も1時間以上にわたってあがり込むようになりました。歩くのもふらつくほどに体力も消耗しつつあったユミちゃんなのに、何時も伺った時は本当に素晴らしい笑顔で迎えてくれました。聞き上手で、われわれの方が癒される思いでした。
ユミちゃんとの間では心を割って話すことができました。

ある日、私の父親が交通事故で亡くなった話から、話題は一気に死んだらどうなるんだろう、という話に進みました。「死」という言葉には、殊の他敏感なユミちゃんと御家族でしたが、不思議にもこの時は話の出来る雰囲気がありました。
「死は終わりではない。寧ろ、肉体という牢獄からの開放だそうだ。ぼくの父親は死んでも見えないだけで、存在していると思うし、何時も見守っていてくれていると思っている。そんな父親や、癌で亡くなった母親に胸を張って会うために、自分も生きている限り、できる範囲で頑張るよ」と話しました。
彼女は、こくんとうなづきました。
「あなたもいつの時代かで会っていたんだろうね。縁があったから会えたけれど、一番あなたが会いたかったのは誰か判るかい?それはね、あなたの両親と姉妹、それとあなたのライバルと親友、そして私たちだよ。どう?思い出した?」
私はこうしたことを話しました。

金親医師は、アメリカのケーシーマッサージを彼女にされました。
これは、言葉を超えて交流のできる素晴らしいコミュニケーションツールです。殊に体力の消耗しているユミちゃんのようなケースに極めて有効です。家族、ことに姉妹は思いをマッサージオイルに載せて、姉の体をゆっくりさわり、ほぐしてゆきます。殆どの場合、気持ちよさの余り、眠ってしまうと言います。
認め許し愛するという想いが言葉以上に伝わるのが、患者さんに触れるということ。その微妙なタッチの中に、沢山のメッセージが伝わることに彼女も驚いていました。

博子先生は、女性としてのきめの細かな思いやりと、時にはダイナミックな提案を得意とします。殆ど寝たきりで動きの取れないユミちゃんが「食」に関心があると見るや、けしかけたのが「グルメ療法」。まずは横浜の中華街。医食同源の食について指導もする博子先生からは予想もつかない提案でした。それを聞き、妹と一緒に新幹線に乗ってグルメの旅に出かれる思い切りのよさがユミちゃんにはありました。
その一ヵ月後には、腫瘍熱と思える38℃を超える発熱があるなか、点滴と注射で熱を抑え、今度は飛騨高山の美味しいうどん屋さんへ出かけました。ここでお腹一杯食べて、帰りにはかなりの痛みに襲われたとか。
こんな事を笑顔の中で話せるのがユミちゃんでした。

また、当院の看護師は年齢も近いだけあって、接し辛さがあったと思います。しかし、よく全身状況を確認しながらも若い女性ならではの話に花が咲いたようです。
間違いなく、我々医療者が彼女によって癒されていたと思わずにはいられません。勿論、この影では圧倒的な時間と、圧倒的な愛情をかけていた親と姉妹による癒しの心地よい時間が流れていた事は間違いありません。

人生のフィナーレ
その後も腫瘍は勢いを落とさず、既にお腹は妊婦さんのように膨れあがっていました。
同じ年の友達が、実にこの姿である事が普通である年齢なのに、病気でこの姿になるとは何とも辛い事だったんだろうと思います。しかし、そんな中でも時にユミちゃんは、痛みの為、眉をしかめ涙を浮かべながらも「ふ」と息を吐いて「これさえなちゃな!まったく・・・」と言ってニコッと微笑むのでした。信じられないほどの精神力を感じざるを得ませんでした。
しかし、病魔は音もなく進行し、ついに8月20日、夏の暑い日に意識がなくなり、静かに家族が見守る中を永眠されました。
家族から聞かせていただい言葉。
「死ぬとは思わなかった・・・」
この言葉に本当に最後の最後まで諦めずに希望を持って接してこられた家族の気持ちが伺われます。そして、そう家族に語らしめるほどに前向きに生きて行き切ったユミちゃんの生き方をこそ思うのです。
だからこそ、死化粧の彼女の最後の笑顔が、彼女の人生のフィナーレであり、彼女の人生の集約であると確信しています。

何かの偉業を成さねば、天寿を全うしたとはいえないのでしょうか?ならば、たった一人で、死ぬほどの痛みとここまでの対峙できること以上の偉業があるでしょうか。
これを大往生といわずして一体何を言うのでしょうか?
ユミちゃんの人生をかけて発信されたもの。それは、一言では言い表せるものではないと思います。そして、その全てが、きっとユミちゃんがこの世に誕生した使命ではなかったかと感じております。

哀悼
ここに、しめやかにユミちゃんにお別れを告げると供に、いつかまた必ずどこかの時代、どこかの世界で逢えることを祈念しています。
不思議に私は、往診から帰る車の中で何時もこだまして聞こえるメロディーがありました。
森山直太郎氏の『さくら』です。最後に、想いをこの歌に乗せて哀悼の意を表したいと思います。



さくら森山直太郎作詞/作曲

僕らはきっと待っている、君とまた会える日を
桜並木の道の上で手を振り叫ぶよ
どんなに苦しい時も君は笑ってるから
挫けそうになりかけても頑張れる気がしたよ
霞み行く景色の中にあの日の歌が聞こえる
さくらさくら今咲き誇る刹那に散り行く運命と知って
さらば友よ旅立ちの刻変わらないその想いを今
今なら言えるだろうか偽りのない言葉
輝ける未来を願う本当の言葉
移り行く街はまるで僕らを急かすように
さくらさくらただ舞い落ちるいつか生まれ変わる瞬間を信じて
泣くな友よ今惜別の時飾らないあの笑顔でさあ
さくらさくらいざ舞い上がれ永遠にさんざめく光を浴びて
さらば友よまたこの場所で会おう
桜舞い散る道の桜舞い散る道の上で