コラム

世界遺産旅行記

船戸崇史

先ほど、日本の裏(地球の裏)ペルーから帰りました。片道に延々23時間と言う飛行機の旅でしたが、考えてみれば1519年にマゼランが世界一周を果たすべく要した3年間という日数からすれば、考えられないほど安全に短時間の旅と言えるのでしょうね。でも、やはり遠かった・・。昨年は、中国万里の長城とチベットポタラ宮殿。今年のGWは屋久島と、今回のペルー、マチュピチュという図らずも世界遺産を旅することになりました。世界遺産とは、世界自然遺産と文化遺産、それとこの両方の性格を持つ複合遺産の3種類に分けれるのだそうですが、今回は、これらがなぜ世界の遺産と言われるに至り、確かに今でも多くの人々の魅力を掻き立てるのか、そしてそれは一体私たちに何を語りかけているのかを何時もながらの私の独断と偏見で綴って見たく思います。予め御了承くださいね。

世界文化遺産の巻

まず、世界文化遺産の万里の長城は、1987年世界遺産に登録されました。長さは延々2700km以上と言う、唯一月から見える人造物として有名ですね。秦の始皇帝はじめ多くの皇帝が夥しい数の人と時を要して北の恐怖,モンゴルから漢民族を守るために建造されたと言われています。実際、この長城の上に立ってみて、驚く事はそのスケール故の迫力ですね。「ここまでするのか?」と言う思いと同時に、「必要なら」(正確には必要と思うなら)やってしまう人間の「意志」の力の凄さを感じずにはおられません。如何に北方遊牧民族への「恐怖」がその原動力であるとは言え、「意思」×「継続時間」は、実際の「万里の長城」という形となって、後の世の人への強力な勇気づけとなりますね。「成せばなる!」という「現実」をです。世界遺産の中でも文化遺産を見るとき、何に感動しているのか?たった、一つの「万里の長城」から包括するのは危険かもしれませんが、私は「自分と同じ人間が理由は何であれ、ここまでの事をしてしまった!」という「激励」であり、そこに「勇気」というエネルギーを求めているのかもしれないと思っています。

しかし、私は文化遺産には光と影の部分を感じずにはおられません。世界史の中で一声を風靡しても盛者必衰の理の如くいつかその文明文化は崩壊してゆきます。そして多くの場合、そこに血塗られた歴史が展開されてきました。建造物が創造されてゆく過程は「光」で、建造物が崩壊してゆく過程が「影」であると簡単に二分化できませんね。なぜなら、多くの文明の崩壊は、新しい文明の勃興による破壊であることも多く、光と影は常に混在してきたのでしょう。しかし、この文化遺産が「光と影」の血塗られた歴史の表れであっても、それ自体が人類全体への大きな遺産、「滅亡への反省」と「未来への挑戦」を奮い起たせる遺産となっていると感じます。

特に、チベットの「ポタラ宮殿」からは、「大いなる悲しみ」を感じました。主なき宮殿は、ダライラマ法王を辛抱強く待っているとさえ感じました。しかし、同時に屈託ない笑顔のチベットの子供や大人すら、彼らの深みにチベット仏教を感じる事が出来ました。すでにチベット仏教が、ダライラマが沁み込んでいるのです。そこには、「未来への挑戦」が胎動を初め、今インキュベートされていると感じました。

世界自然遺産の巻

次に世界自然遺産の「屋久島」です。御存知のように1993年に日本で初めての世界自然遺産に登録されました。屋久杉、特に縄文杉は余りに有名ですよね。一説には樹齢7200年と言われ、事実だとすれば現存する世界第1位の生命体ということになります。屋久島が、それ程に長生きが出来る生育しやすい環境かと言うと実際はちょっと違うようです。屋久島は鹿児島から約70km南に下った直径30kmほどの島です。場所を考えてもらうだけで判りますよね。夏は台風の日本列島への進入経路にあたり、年に何回も暴風雨に晒される事になります。また冬も強い偏西風の影響から、屋久島では30m以上には木は育たないとされています。強風というバリカンを当てたようなものですよ。実際、屋久杉も30m以上は杉の樹皮が剥ぎ取られ白骨樹となって、痛ましい姿の老木が多いですよね。加えて、小さい島であるにも係らず、九州で一番の高山、宮之浦岳(1935m)を有し、地盤は表面の90%は花崗岩で日本最南端で積雪のある島です。つまり、海からとんがり帽子のように突き出た形をしているといえます。これらは全てが問題で雨が降れば、岩盤ゆえ保水力がありません。よって栄養価の高い表土を簡単に海へ流してしまうことになります。屋久島の土は思いのほか痩せているのが現状です。そして低緯度ゆえ夏は暑く虫が入り腐りやすく、高山ゆえ冬は雪や霜で枝葉や根を痛めます。それにも拘らず、一体なぜ杉が7200年と言う気の遠くなるような年月を生き続けているのか?1つには、年間10000mmを越える雨が延々と何千年も降り続けていると言う事。それが、たとえ少々の表土を押し流す事になれども、水は命ですから、水こそ一筋な「愛」の如く杉を育んできたと言うこと。2つ目に「島」であったからこそ人間が簡単に近寄れなかった事。

私はこの2つだと思っています。実際、私は屋久島を2度おとづれる事ができましたが、森の中に入ると、何ともいえない地面から燃え立つようなエネルギーを感じますね。杉とは、「直(スグ)」から来ていると言うだけあって、樹皮は真っ直ぐに地から天を目指しますが、1000年を超えて小杉から屋久杉へ格上げされるに従って、樹皮の表面は波打ちうねりが生じ、老木の気配を醸し出します。しかし、これは杉の「皺」ではなく、地面から立ち上っているエネルギーの形を現しているように思えてなりません。この中にいると、「人間よ入るな」というメッセージが聞こえてきそうです。

屋久島の自然遺産から私が「感動」したもの。それは、人間の力を遥かに凌駕した圧倒的な現実です。まさに大自然としか形容できない現実を前に比ぶるべきもない自分の余りに矮小な存在。でも、その大自然の一部として、帽針頭大でも確実に「私」は存在しているという事実。

私が屋久島と言う、世界自然遺産からもらったエネルギーとは、この人智を超えた「力」の実感と言いましょうか、圧倒的なエネルギーの中で、余りに小さい自分であるにも係らず、今ここに存在が許されているという事実であるように思っています。これこそがまさに感動です。

自然治癒力という言葉がありますね。その意味が、「自然に治る力」であるとずーと思ってきました。しかし、本当は「自然が癒す力」でもあったと言う事。屋久島からは、まさに大自然治癒力を感じずにはおられません。

世界複合遺産の巻

最後にマチュピチュの世界遺産についてお話ししたく思います。

結論から申せば、まさにマチュピチュは「文化遺産」であり「自然遺産」である、「複合遺産」を凌駕する魅力を湛えていました。

「世界遺産夢紀行」という本の表紙を飾るほどに魅力的なこのマチュピチュはきっと読者の中にも既に行かれた方もおいでになると思います。

南米ペルーの首都リマから国内線で1時間。「へそ」という意味を持つ高山都市クスコに降り立ちます。標高3400mのこの高山都市は、過去に栄えたインカ文明の中心都市でした。16世紀にピサロ率いるたった200名足らずのスペイン人によって、第13代皇帝アタワルパが処刑され、クスコの町並みはことごとく破壊され、この黄金文明は余りにも簡単に終演を迎えることになりました。私たちは、クスコに入るや否や中心部のサントドミンゴ教会で、かみそりの刃すら通らないと言う石組みに出会いました。これだけ見ても鉄などの金属器具を持たない彼らが一体どのようにしてこの石組みを築いたのかは未だになぞです。其れほどまでに発達した技術を持ちながら、遺跡から発掘される武器とは、日本の旧石器時代さながらの棒に石器をくくりつけただけのお粗末な品であることが、文明の興味の方向性を伺わせます。

クスコからマチュピチュまで114km。この間にインカの遺跡が名を連ね、インカ道といわれる石組みの道で繋がれます。まさに、クスコにスペイン人が入った頃にマチュピチュは全盛を誇った時期であると言われています。

憧れのマチュピチュは、クスコからウルバンバ川を下り、両岸を急峻な山々の絶壁に囲まれる中、この絶壁の山頂にこそたたずんでいると案内されました。日頃私たちがポスターで見ていたマチュピチュの景色は、何と一山の頂上を丸ごと街に仕立た物だったのです。川べりから一気に九十九折の絶壁をバスが登ること500mで遺跡の入り口へ着きます。あいにくの雨模様。しかし、乾季の今は雨が降る事は少ないと言われていましたから、霧に煙るマチュピチュを見るには絶好のチャンスでした。ガイドさんが、折角ですから一番の眺めから見ましょうか?と、我々をさらに上へと案内してくれましたが、流石にクスコよりは低いとはいえ標高2400mでの登山は息が切れます。しかし、そこを登りきった時、一気に眼前に景色が開かれました。これこそ絶景。「深い美」と言う表現がぴったりの霧を纏うマチュピチュの遺跡が姿を現したのです。しかもその両側は、断崖絶壁、遥か眼下にウルバンバ川の流れが響き対岸はマチュピチュを中心とした外輪山のように高山群が取り囲みます。まさに空中都市そして巨大パラボラアンテナの中心地と言うにふさわしい構造です。

マチュピチュとは「老いた峰」と言う意味だそうです。一方、ポスターでよく見る遺跡の先のとんがった小山は、ワイナピチュ「若い峰」と言うのだそうです。この山にも登ってきました。この山頂に丁度人が1人立てるほどの小さな窪みがあり、ここに立ち上がったとき、思わず飛び立ちたい気持ちに駆られました。すーと、天に引き込まれる感覚です。

この感覚は以前にどこかで体験しました。そうです。チベットのカンパ峠(4800m)から、さらに山を登り標高5000mほどの山頂で味わった感覚に似ています。しかし、今回は、その時とは決定的に違うことがありました。ワイナピチュは小山ではなく、実は標高2700mの山頂だったのです。もし体のバランスを少しでも崩せば、どちらに転んでも、断崖絶壁ゆえ遥か眼下のウルバンバ川まで落下する事になります。一瞬、それでも良いか?とさえ思える程の高揚感を与える力が、ワイナピチュのエネルギーなのかもしれません。

ワイナピチュ頂上は、軍事的な拠点または、天文学的観測所と言われていますが感覚的にはもっとスピリチュアルな目的にも使われたのではないかとさえ思えるほど不思議な時空間でした。

今、日本に帰って懐かしく回想するなかで、マチュピチュと「天音の里」に一つの共通点を見出しました。「天音の里」設計士の小西さんは、『その土地にはその土地に必要な建物があるのです。建物は本来、その場を癒す力を持っているのです。その建物をピラミッドというのですよ』と、話してくれました。そうです。まさに、マチュピチュとは、『彼の地を癒さしめる街』であった。それゆえ、高山山頂に創られたのは、多くの敵から身を守るだけではなく、少しでも神に近づきたかったからではないか?と思うのです。

不思議な事は、多くの歴史ある文化遺産から感じられるような「血なまぐささ」はここマチュピチュの遺跡には感じられませんでした。スペイン人は入っていないのです。ではマチュピチュで生活していたといわれる1000人ほどのインカの人々は、一体なぜ、どこへ忽然と消えてしまったのでしょうか?

マチュピチュからは、自然遺産ゆえの余りに圧倒的な自然に抱かれる、余りに小さき自分をしっかりと自覚できるエネルギーに満ち溢れています。同時に、遺跡からは、良くぞこんな山頂の断崖絶壁の上に街が築けたものだという「勇気」に激励されます。そして、マチュピチュからは、世界自然文化遺産の複合だけではない、「大いなる夢」を感じます。

きっと、この夢に魅せられて、今日も沢山の観光客が彼の地を訪れている事でしょう。

現在、700を越える世界遺産が登録されているそうです。これからもこうした遺産に出会い、発見し、感動し、夢を見るような旅を続けてゆきたいなと思っています。

きっと、頭でっかちの日本人に見合うだけの心の豊かさを与えてくれるのではないかと期待するからです。

如何ですか?皆さんも,ご一緒しませんか?