コラム

本当の自由

船戸崇史
現在のイラク情勢は心痛むものがあります。自由は暴力や戦争から決して勝ち取れるものではありません。過日、外来の患者さんで、本当に自由を手にされた方が見えました。年の始まりに、重い話で恐縮ですが、皆さんの人生の本当に自由を、そして、世界の本当の自由を今年の初めのお祈りとして、その方の人生を紹介したいと思います。

Mさんの御主人
Mさん、44歳、細面の美しい女性です。その風貌とは似つかわしくないほどに、この方の人生は、本当にお聞きするだけでも、ただただ痛ましいとしか言いようのないものでした。最も悲惨なのは、御主人の態度でした。いわゆるドメスティック・バイオレンスです。
当然ながら、今までに既にMさんはあらゆる手を尽くしておられました。夫婦といえども暴力事件は傷害事件ですが、問題は事態が起こってからでないと警察が動かないことです。多くの場合、力弱いのもが被害者になりますから、手遅れになりがちです。
普通なら、Mさんは親族に助けを求めるでしょうが、Mさんは小さい時に御両親を病気で亡くされ、しかも兄弟姉妹もいません。Mさんの理解者は、もはや親身になってくれる友人しかいないのですが、周囲が動けば「告げ口」をしたと、新たな暴力行為の種になりかねません。
どう考えても、この話の中からは夫婦である必然は見受けられません。当然ながら、離婚を考えられたのですが、Mさんには離婚ができない2つの理由ありました。
1つ目は、今までにも何度か家出を試みたのだそうですが、その都度引き戻されるのでした。仮に離婚の手続きを法的に完了したとしても、離婚後に完全に安全な場所が提供されない限り、意味はないということです。かといって、昔にあったよぷな駆け込み寺はありません。
それと2つ目は、Mさん夫婦には3人の子供がおられます。Mさん自身が望んだタイミングで子供が授かったわけではなかったのですが、自らの両親の死別体験から、Mさん自身は子供の片親でもいない経験を味合わせたくないという願いがありました。Mさんが、離婚という道を選択できない一番の理由は、子供への愛でした。

Mさんの子供たち
そして、その後もMさんには様々な事件が起こります。
子供への愛ゆえ、かろうじて続けられた夫婦生活でしたが、大きくなると別の問題が生じてきたのです。
なんと、Mさんの想いとは別に、3人の子供は不登校となるのです。
考えてみれば、家庭内不和の状況が原因になっていったのでしょうか。小学校低学年は親の為に、高学年になれば両親の関係の気づいていきます。Mさんの願いとは別に、御主人の無軌道で強引なやり方と言う手法を学んでいったのです。
同時に、母親からは、逆に耐えるための方策を学ぶのでしょうが、いずれにしても荒い波動の中で多感な時期、性格を形成してゆかねばなりません。その結果、愛する子供の反逆とも言えるような事件が起こってくるのは仕方ないことなのでしょうか。これは、Mさんにとって大変な打撃となりました。

現在当院のNone病外来には、癌だけでなく、自閉症や精神発育遅滞、登校拒否や家庭内暴力などの相談においでになられる方もみえますが、所謂問題児は一人で充分大変です。
Mさんにしてみれば、3人とも登校拒否という現実は余りに厳しすぎるものでした。しかし、Mさんは諦めずよく耐えてみえました。そして、どうしてこの出来事が起こってくるのかを、見つめ続けられました。

自分と他の境界線
Mさんの自問はここから始まりました。
「一体私は何を大切にしたいんだろう」「一体私は何を怖がっているんだろう」。そうした苦悶の日は連日続きました。そしてついにある日ふっと、一つの気付きが訪れたのです。
「彼は彼なんだから、学校に行かないなら行かないでいいじゃん」と、本心から思えた。親が自立した瞬間でした。つまり、自分と子供との間の境界線が認識できたのです。自分は自分、あなたはあなたということです。
この境界線は当然のように聞こえるかもしれませんが、私たちの苦悩の一つがまさに相手との境界線をまたいで入りすぎることによって起きます。越境行為です。これは、特に近い人同士の関係で犯しやすい間違った行為です。
例えは、親が子供に対して、子供の意向を聞かずに意見を言ったり手だしをする事を言います、良かれと思ってしてしまう行為ですし、現実に赤子の時にはそうして育ててきたわけですから、親は「愛」の表現だと思っています。しかし、子供も成長し個人の意思が形成されるべき時にも親が気がつかず、親の意向が過ぎれば子供への強制や干渉ということになりかねません。しかし、所謂問題児となると、それゆえに親も心情的についつい子供に介入したくなります。また、学校からはそれを要求される場合もあります。

越境行為の原因
ではなぜ越境行為が起こるのでしょうか?
それは、根本的には「未完成感」が原因であるといえます。けれど、未完成であるという感覚が、「期待感」と「不安感」という形で表現されると解らなくなってしまいます。今のままでは駄目でも、もっとこうしたらよくなるに違いない。というのが期待感です。
一方、今のままでは駄目で、このままだったらもっと悪くなるのに違いない。というのが不安感です。ですから、期待も不安も「現在のままでは駄目・・・」が、根底にありますから何とか自分が手助けをしなくてはと思うのです。そして、この期待と不安の感情は、「相手や事態を完全に信じていない」つまり「不安感」から生じます。この回路は瞬時に動きますから気がつきにくいものですが、越境行為の根本的な原因はこの「未完成感」と「不信感」であると言えるのです。

信頼ととん信と自由
Mさん自身も我が子供ゆえ、子供の行為に自分が責任を持とうと考えていたのですが、実は子供自身はそれをどう感じたかというと、まさに親の越境行為と感じていたのです。
つまり、親の思いやりに見える行為は、子供の側からは、「今のままではあなたが駄目だ」という親の不信感ゆえの行為にしか見えず、それに対する実力行使が「登校拒否」だったんですね。
そして、Mさんはそれに気づかれたんです。「あなたはあなたでいいんだ。あなたの人生なんだから」という、一見無責任にも見えるこの心境は、深みから見れば「何があっても、あなたを信頼しているよ」という深い信頼から出た言葉だったんですね。3人の子供の登校拒否という事実が、子供の「自分を信じてほしい」という「自立」を表現した行為であったと解った時、Mさんは彼らにしがみついていたのは、自分のほうであった事に気がついてゆかれました。
そして、彼らに対し、親として大切な事は、しがみつく事(監視して管理すること)ではなく、まさに手放すことだったんだと気がついてゆかれたのでした。そして、彼らのことを「信頼ととん信」の内に手放す事が出来たときにMさんは楽になれました。
不思議な事に、この信頼ととん信の境地は、あの御主人にすら向けられる事になりました。気がつけば御主人へ知らないうちにMさんは要求をしていたのでした。「夫ならせめて・・・して欲しい」「男ならこれぐらいは・・・して欲しい」と。
考えてみれば誰でもが持つこれらの思いが、実は夫への期待となり、根本的には「不信感」が自分の心の中にあることに気がついてゆかれたのでした。子供の登校拒否の様に、夫は暴力と言う手段を使って「俺を認めろ」と、実力行使をしてきたと言えます。
勿論暴力を容認しているのではありませんが、子供の「登校拒否」と同じ心のエネルギーが流れているのでした。今までの数々の暴挙は容認するには余りに厳しすぎる現実でしたが、図らずも子供によってもたらされた「境界線の認識」「信頼ととん信」「自立」へのMさんの気づき(納得)は、御主人の行為すら「それでいいじゃん。あの人はあの人なんだから。」と思えるようになったのです。

本当の自由へのコツ
皆さん、如何でしょうか。19年間夫婦生活を営み、このことに気がついて2週間。この2週間のうちに、Mさんは本当の「自由」を手にされた喜びを噛み締めておられます。この19年間、耐え抜いた人生でしたが、そんなことが嘘の様に、屈託のない笑顔で「毎日が楽しくてしょうがないんです!」と話されるMさんの生き生きとしたお顔が本当に印象的でした。

本当の自由
それは自分がしがらみから開放されたときに得られるものではないでしょうか。しかし、本当の原因にはなかなか気がつけないものです。原因が外にあると信じているからです。しかし、しがらみの原因が内にあると気がつけた時に、自由は半ば獲得されたと言っても良いのかも知れません。
そして、しがらみにがんじがらめにされているのではなく、本当はしがらみをしっかり握り続け離さないのは自分自身であることに気が付いた時に、初めてしがらみを手放す準備ができるのです。
そして、しがらみを手放した時に、本当の自由を手に入れることができるんですね。

そして、Mさんのかかわりが変わった分、子供が変わり、そして御主人が変わるはずです。その結果、19年の苦難の果てに、いや、この19年間、苦難であったからこそ手に入れられた自由によって、本当の御家族が顕現してゆかれる事でしょう。
年の初めにMさんとその家族へ、皆さん一緒に心からのエールを送ろうではありませんか。

追伸
イラクとアメリカの情勢はますます混迷を深めています。悪の原因が相手(外)であるという認識を持っている以上、いつまでも暴力の応酬は続き、無限の多くの命が奪われてゆきます。まことに痛ましい限りです。彼らと言わず、私たちも、こうした諍いの種はまず自分自身の心の中にあり、それに気がつき、それを抑制する力を勇気を持って現してゆくことが問われているように思えて成りません。宮沢賢二の「雨にも負けず」のくだりの「北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろといい・・・」ですね。まさに妙を得た言葉だと思います。