コラム

死に様2

船戸崇史
私の携帯がなり、当番のナースから「在宅で進行がんのOさんですが、呼吸状態が急変したそうです。」
という緊急連絡が入ったのは、ある日曜日のお昼少し前でした。早々Oさん宅へ電話しました。
出られたのは、仕事の為、日曜日にしかお休みが取れない息子のAさんでした。
「あの、いつもの様に、歯を磨こうとして洗面所までS(姉)と一緒に抱えて行って、口をゆすいでいるときに、急に水を飲み込み始めてんです。で、のどが渇いていたのかな?と思ったんですが、勢いが良いのでコップを外したら、そしたら、それから息がおかしくなって、今、虫の息なんです。」緊急の状況にもかかわらず、冷静に息子さんはお伝えいただけました。私はこのまま逝かれると思いました。
しかし、これまでの2ヶ月間、在宅医療で診せて頂く中で、ご本人の「家で死にたい」という意思を確認し、その為に今まで家族が協力してよくやっておられたので、この状況で「救急車を呼んで下さい」とは言えませんでした。
ただ、「すぐ行きます」とだけ言って、すぐOさん宅へ向かったのでした。

時間が何分経ったかは定かではありませんが、訪問したときにはすでに沈うつな雰囲気が漂っていました。
すでに、親戚の方が駆けつけておられました。ベッドの上にはOさんが行儀よく寝かせられ、呼吸は止まった状況でした。
「やはり、間に合わなかったか・・・」と思いながら、瞳孔と心拍の停止を確認し、今、昇天された事を宣言しました。

息子のAさんは自分が歯を磨かせたためだと自分を責め、娘のBさんも水の飲ませ方が悪くてこんなことになったと後悔しておられる様でした。集められた親戚の方々も、逝かれたのがあまりに急で死に目に会えなかったことを残念に思っておられる様に感じました。

でも、私はこれこそが大往生であると確信していました。

Oさん

Oさん、56歳。平成13年12月肺癌発症。すでに癌腫は脳にまで転移し、すでに手遅れの状況でした。
平成14年2月脳神経外科で脳の減圧術を施行。抗癌剤と放射線治療をされておられました。本人へは、肺癌であること。すでに脳に転移して根本的には治し切れない事。末期的な状況になりつつあることが伝えられていました。

痛み止めとして、麻薬はすでに開始され、食事は何とかお粥が食べられる程度でしたが、脳転移により左半身は麻痺し、食欲は低下し、意識も混濁傾向にありました。しかし、家族、本人の希望により、平成16年4月19日に退院され、よく20日より、当院による在宅が開始されました。

初めてお伺いした時は、Oさんは静かな人だという印象を持ちましたが、じきにそれは脳転移によるものであることが判明しました。かさねて、病状の進行によりほぼ寝たきりであり、仙骨部には巨大な褥創が形成され、膿を伴う多くの分泌物のため、毎日ヨードホルムガーゼの交換を余儀なくされました。自力では殆ど動けない為、尿はバルンチューブで取っており、意識が混濁している為、意思疎通が図りにくく、本人の意思確認に時間がかかりました。
最も驚いたには、右肺癌は、肋骨を突き破って右の脇に突出し、大人の握り拳ぐらいに盛り上がって表面はいつ破れてもおかしくない状況でした。
「こうした巨大腫瘍は時には表面が破れることがありますが、Oさんはしばらく大丈夫でしょう。」とお話した翌日に腫瘍は破れ、分泌物のため余分にガーゼを要しました。

Oさんの在宅医療

当初、ご家族は仕事上の問題で、このようなOさんを一人うちのおいておく時間帯があったのですが、何とか当院のヘルパーに入ってもらうことで、在宅医療の日程を調整しました。
お嫁さんと娘さんは出来る限り早く帰られ、よく面倒を見ておられました。娘さんも、床ずれのガーゼ交換を「痛そうだ」という理由でされませんでしたが、そのうちうまくガーゼを裁けるようになりました。
「何とかしてあげたい」と言う想いが知らぬ間に行動に出ていたのでしょう。

Oさんは、その後も「痛い」とか「しんどい」という事もなく、ただ中空を見上げるようなうつろな目つきで世界を眺めておられました。
Oさんの全身状態は、顔色を見るより床ずれの方が端的に現れていたので、直接コミュニケーションが取れなくともある程度予測できました。
床ずれの悪化は、言葉を超えてOさんの体調が不良であることを物語っていました。

5月8日。
相変わらず食欲は低下気味ながらも何とか少量のエンシュアと水を取っていただきました。表情はいつもと大きく変わらないようでしたが、床ずれは右の踵に広がり、命の時間がなくなりつつあるかは明白でした。

私はご家族に言いました。

「現在の状況は見た目には落ち着いているように見えるかもしれませんが、癌が胸壁から飛び出してこれほどまでに成長した状況を私は見たことがありません。癌は間違いなくお父さんの体の中で、ぐんぐん成長していると思います。でも、それって見方によっては、そこまで癌が大きくなっても、なお生き続ける事ができる力をお父さんは持っていることになりますよ。すぐい生命力なんだなって、思います。普通だったら既に亡くなっておられてもおかしくない状況ですよ。あまり考えたくないかもしれないけれどいつか人は逝く事を頭のどこかには置いてくださいね。急変はありうるということ。よろしいですか。」

その後も、Oさんは相変わらず何も話されず、熱もなく、けれどどんどん痩せてこられ、もはや骨と皮だけの状況にまでなっておられました。

亡くなられる1週間前の金親医師のカルテの記載から・・・

「頭皮、仙骨部、右踵部の褥創はより悪化している。胸部の癌は小児頭大。破裂部からの分泌多量。悪液質は進行している。しかし、顔貌はすっきりしており、気分良好の様子。病院入院中とは別人のようである。」

ご家族は出来るだけ介護を普通の生活の中で継続されました。きっといつもの生活リズムを続けたいということだったのだと思います。

いつまでも生きていてほしい・・・・。

朝は必ず洗面所まで体の両脇を支えられ、タオルで顔を拭いて、歯磨きも欠かされませんでした。その日はそうした日常の中でやってきたのです。
6月20日日曜日。この日、息子さんも仕事が休みなので2人の子供に両脇を支えられて、全くいつもの様に洗面所へ行かれたのでした。そしてその後に冒頭の出来事が起きたのでした。
ご家族にしてみれば、”末期的な状況ですよ”と言われても、「急にこんなことになって・・・」という思いは当然あったでしょうし、自らの行為を責められるのも、お父さんへの愛ゆえ避けられない感情であったかもしれません。

死に方は遺産

唖然と父親を見おろす息子さんと、いかにも残念そうにベッドサイドで首をうなだれる奥さんに対して、私は自分の思いを伝えました。

「お父さんは、今亡くなられました。11時42分。・・・

人はいつか死ぬとお話し致しましたよね。誰でもですが、どおこかでそれは分かっています。だから、誰しも、最後になれば、死なないのではなく、楽に死ねることを希望されます。一番楽な死に方ってご存知ですか?それはね、”窒息”ですよ。のどが詰まる状況です。
お父さんは、口をゆすいだ水を飲み込んだんじゃなくて、吸い込んだんだと思います。これが、窒息です。一番楽な死に方ですよ。AさんもBさんも、自分達が悪かったんじゃないかって自分を責めているかもしれない。でもね、考えてみてよ。誰でも気管に水が入れば咳をするよ。だからね、お父さんはね、咳も出来ないほどに体力が落ちていたんだよ。今日、大丈夫でもきっと明日は窒息するかもしれない状況だったんだよ。

だけど、お父さんは、今日を自分で選んだんだと思う。
なぜかって、なかなか会えない息子さんが今日ならいるからだ。お父さんにしてみたら、一番傍にいてほしいのは、子供さんじゃないのかな?その子供さんに両脇を支えられ抱かれて、一番楽な窒息でこの世を旅立たれたんだよ。しかも、日曜日。仕事がないから、親戚の人も一番迷惑がかからないじゃない。これほど、思いやりのある死に方はないよ。私は、これこそ大往生だと思いますよ。本当にご苦労様でした。」

その後奥さんの嬉しそうな涙を私は忘れません。
「そうだね・・・、本当に思いやりのあるお父さんらしい死に方じゃない。11時24分。イイシニ方だよ。語呂までイイ。これもお父さんらしいじゃない。

本当にお父さん、よくがんばった。ありがというね、ありがとうね。・・・」

と言われ、Oさんをいつまでもさすっておられました。


「あと、1時間くらいしましたら、船戸クリニックのスタッフが体を清拭に来ます。皆さん、十分ありがとうのお別れをしてくださいね。お葬儀が始まるとあわただしいですよ。ばたばたして、次にお父さんとゆっくり会える時はお位牌になってからです。肉の身があるのはここ暫くですから・・・」と言い、その場を離れました。

大切なことは結局、死んでしまったという事実ではなく、Oさんの死によって、後にどういう心の遺産が残されたかであると思うのです。
その意味では、Oさんが残されたもの。それはOさんの諦めない生き方。Oさんの思いやりのある死に方。
これこそが、Oさんの命をかけたメッセージであり、遺産であると思うのです。