コラム

桂林の雨~真のサポートとは~

船戸崇史
風光明媚な中国の桂林。その幻想的な美しさは古来、多くの人々を魅了してきました。最も水墨画の風情をかもし出すのが雨の中の桂林の山々です。その為「雨の桂林」と詠われてきました。
今年の中国気功ツアーは、ここ桂林と決まっていました。「雨の桂林」ですが、この所2ヶ月は雨が降っていませんでした。でも、今日の弔いの後に俄かに小雨が降り始め、数分後には止んで行きました。恰もKさんの弔いに天が涙したようでした。

Kさん

Kさん、65歳。平成16年5月中旬より右背部痛が出現するようになりました。総合病院を受診し、精査の結果、進行したすい臓がんであることが判明したのです。肝内胆管は拡張し、今後明らかな黄疸が出現することは明白でした。そこで、胆汁を体外へ誘導するチューブを肝臓に挿入する手術(外ろう術PTCD)が行われたのですが、本人へははっきりと病名は告知されませんでした。同病院からご家族に、「手術をすれば5年、しなければ1年」と話されていたのですが、寿命まで規定されては到底病名を伝える勇気はなかったのでしょう。加えてKさんは、生来気性がまっすぐで自らの意思をはっきり表明される反面、面倒見が良くいつも集会では知らぬ間に人の輪が周囲に出来るほどに慕われる存在だったようです。7月15日、ご家族は「本人の気性から言えば病名を告げれば当然予後についても言及せずにはおられず一体どうしたら良いのか」という相談に来院されたのでした。私は、いつもの様に、生来の気性が正直で隠し事の嫌いな方ならば、病名は告知するべきであると伝えさせて頂きました。告知するか否かよりも、その後のKさんの人生を正面から受け止めて、嘘をつかず同じ視線で生きるためには、告知が必要であると感じたのです。しかし、ご家族は極力穏便に進めたいとの事で、ご本人には病名は伏せての診察を行うことになりました。8月20日、ご本人は来院されました。屈託のない笑顔は本人の素直さを感じさせていただきました。本人からははっきりと病名についてのお伺いがありました。「癌なら癌だと言ってほしい・・私は何も怖くないから・・」と申されましたが、ご家族の意向上、「・・・今のところまだ私も聞いていません」としか言えませんでした。しかし、その日、限界を感じた娘さんが、病名を母親に告知されたのでした。同時に手術と抗癌剤の治療についても可能性をご本人へ伝えられたのです。Kさんは動揺することなく、前向きに選択される中でこれら治療方法は拒否されました。そして、外ろうのチューブが入っていては生活も不便だからと、チューブを外すと同時に内ろう術(癌で狭搾した胆管に胃カメラを使ってチューブを通し内腔を確保する方法)を施行され退院されたのでした。
実際腫瘍は進展しており、その後痛みは徐々に強くなり、伴って食欲は低下してゆかれました。このころから麻薬が開始され点滴も通院ではありましたが開始しました。時間がたつほどに体調も悪くなってゆかれるにも拘らず、不思議とKさんはますますまっすぐになってゆかれました。折りしも、当院で毎年行われている「生命力を引き出すための中国気功ツアー」の時期が重なり、私は思い切ってKさんを誘ってみました。このツアーは、主に癌で現在闘病中の人に、前向きに生きて頂くためのプログラムです。勿論、現在治療中の方もおられますが、すでに体のあちこちに転移して西洋医学では「見込みなし」と言われた方まで参加されます。現状ではもう旅行なんて無理だと思っておられる方々に、前向きに人生を取り組むことにより生きがいと同時に生命力が惹起されることを期待して当院では4年前から毎年行ってきました。


中国気功ツアー

当院では月に1回、中国の医師(中医)である、ショウ先生から気功を学び、同時に年一回は気功の本場である中国へも出向いて、気功三昧のツアーを行っています。朝早くから、北京の抗癌楽団というがん患者の気功の会と一緒に気功をしたり、ショウ先生の母校である北京中医薬大学の気功科教授、劉天君先生から直接外気功の治療も受け、一緒に万里の長城の上での気功指導を受けたりします。同時に漢方の専門医から漢方診断や処方も受けます。夜は遅くまで寝食を忘れてともに語らいお互いの闘病や人生を共有します。時には大いに酒を飲んでともに肩を組み生きている喜びを語り、そして大いに笑い歌います。どう見ても、本来なら病院のベッドで神妙にしておられる状況の方々が、一体どこにこんな力が眠っていたのかと言うほどにその生命力には驚いてきました。2年前の気功ツアーでは、車椅子で3名のがん患者さんが参加されましたが、帰りは3名ともが車椅子を押して帰ってこられました。この様に気功ツアーとは、生きがいを呼び出し、「生きる」意欲を育むプログラムです。このツアーによってその人が癒される時、私はきっとその向こうに癌が癒され消えてゆく効果があると信じています。
今年の気功ツアーの参加者はKさん含め45名。其の内がん患者さんは15名。医療者は医師5名。看護師3名。患者さん家族などサポーターは22名という大所帯でした。


ツアーのメンバー

ツアーの行程は10月8日から11日の3泊4日。ここ船戸クリニックへ集合し、バスで関西空港へ、そこから広州経由で桂林へ入ると言う予定をたてました。私は、まず今回のツアーを行うにあたってお互いが自己紹介し、少しでも顔見知りになる必要を感じていました。がん患者さんと言うとどうしても自分の病気は隠したいものです。しかし、今回のツアーの目的が生命力を引き出す、言うなればがん患者さんのためのプログラムである以上、ツアーの参加者はお互いが同じ目的に向かってともに歩む同胞です。それならば、お互いが何も病気を隠す必要などありません。そこで、ツアー2週間前にツアー最終説明会と銘打って事前の自己紹介を行ったのです。冒頭、私は、皆さんにお伝えいたしました。「今日、ご参加いただいた皆さんは、実は皆さん癌の患者さんとそのご家族、そして医療者です。勿論、今日始めてお互いが顔みせする方ばかりだと思います。そこで、これから自己紹介を行いますが、言いたくない人は病気を伏せて頂いて結構ですが、私がいつも申しますように、何もおじける必要はありません。癌になったことは仕方ありません。大事なことはその病気に今回、私たちは勇気を持ってアタックするチャレンジャーなのですから、何も遠慮は要りません。癌の為の、あなたの為のツアーですから、どうかお気持ちを率直に申してこの旅への期待をお話しください。宜しいですか?」この呼びかけに、どなたも真剣な眼差しでした。

最初に白羽の矢が立ったのがYさんでした。昨年、この方も気功ツアーの直前においでになって私が急遽お誘いした方でした。病名は肺癌。両側肺野に数個の転移巣もあり、全く生きる意欲をなくして外来に来られたのがつい昨日の様に思い出されますが、この方は気功ツアーに参加され、同じく癌でかくも元気に生きている患者さん方に励まされ、現在全くお元気にお過ごしの方です。何ら根回しもなかったにも拘らず、Yさんは、堂々と自分の肺癌のこと、その後の経過のことなどを率直に述べられました。この挨拶で勢いがつきました。次々に御自分の病名や転移、再発、あと*ヶ月という話まで出てきました。素晴らしいことに、どなたからも「病気に負けず、自分らしく生きる」という決意を表明していただけました。そんな中、Kさんの言葉もまた印象的でした。「私はすい臓がんです。もう手術も出来ないと言われたし、残された抗癌剤の治療もお断りました。私は、生きたいんじゃないです。生きるんです。だって私の人生ですもの・・・よろしくお願いします。」生きたいのではなく生きるんだ・・この表現からKさんは希望や期待ではなく、決意を表明されていると感じました。如何にもお母さんらしいと、後に娘さんは吐露されていました。

この日、自己紹介の最後に私はこのツアーを通して皆さんと一緒に真言を唱えることを提案いたしました。真言といいましても自らの信念を強める言葉ですが、これまでの気功ツアーはこの言葉によってツアーがまとまり、皆が一つになって繋がりが実感でき、それに伴って元気が回復してゆかれることを体験していたからです。
真言とは難しいマントラではありません。沖縄在住の精神科医越智啓子先生の提唱する言葉です。日本語で「全てはうまく行っている!」と大きく声を出して唱えるだけです。この時に振り付けがあります。両手でカニの様にピースサインをして右横に2歩、左横に2歩動きます。最後に声高らかに、「エイエイオー!」と右手でコブシを大きく振りかざしジャンプするのです。

自己紹介が終わって、皆の顔には、「何だ皆同じじゃないか・・・皆癌で悩んで、苦しんで、でも決して負けないと勇気を持って集まったメンバーなんだ」という連帯感と安心感が広がっていました。その後、Kさんは娘さんに連れられて毎日クリニックへ点滴に通われました。痛み止めとしての麻薬は吐き気のため中止され今は座薬で痛みのコントロールがされていました。


桂林へ出発

10月7日。いよいよ明日に出発を控え、Kさんはやや気分は高揚しておられました。やるぞという意気込みを感じました。
出発当日、朝にもう一度だけ点滴を行って、バスにて一路関西国際空港へと向かったのです。バスは概ね順調に走行し12時45分くらいには関空に到着しました。ほぼ目的時間どおりでした。しかし、Kさんは車酔いもあってか少々気分が悪そうなお顔です。少し休憩したら楽になられると判断しました。広州への出発は14時50分。まだ2時間近くありますから出来るだけ早く搭乗手続きを済ませ、どこかで横になって休憩することを考えました。
ところが、搭乗手続きに予想以上の時間がかかり横になっての休憩が全く出来ないまま広州へと出発したのです。これが、Kさんには思いのほか大きなストレスだったようです。飛行機が飛び立って1時間ほどした頃でしょか、Kさんの娘さんが「母がちょっとしんどいようです」と伝えに来られたのです。早々ショウ先生と一緒に伺いましたが、少々呼吸はあえぎ呼吸で、脈は速く脈圧は弱く、顔色が悪く抹消循環も不良と判断しました。伴って、右の背中の痛みを訴え、時間から考えても座薬の効果が切れ始めていると判断し鎮痛剤と鎮静剤の注射を使い少し休んでいただくことにいたしました。効果はてき面で、注射後10分くらいで、Kさんはその後約1時間30分近く良く休まれました。
広州へ到着前30分くらいで、今一度様子を見に伺いましたが、この時、丁度目を覚まされました。多くの場合、これだけ休まれるとかなり気分は楽になられます。私は期待をこめて「気分は如何ですか?」とお聞きしました。Kさんは焦点の合わない目つきで「ええ、まだ少ししんどいです。フラフラした感じです。」と途切れ途切れに申されました。この段階で私は始めて普通ではない状況を認識しました。同時に広州の空港でもう一度点滴をして休養をとる必要を感じました。
その後、広州に無事着陸し、機内からは、自力で歩行され機外の車椅子まで移動されました。そこからは車椅子での移動でしたが、今月から開港したという新空港は、関空の何倍もの面積とボリュームを持つ巨大な建物で移動に時間がかかりました。この巨大さに比例して私は焦りました。Kさんの衰弱が思いのほか進んでいたからです。私は、少しでも早く横になるスペースを求めました。しかし、ベンチは全てスチール製の手すりが一脚ずつ取り付けられ、横になって休める場所がありません。旅行会社の添乗員の陳さんに何とかお願いして、空港の職員のスタッフルームを空けて頂き、そこのベンチでKさんは始めて横になることが出来ました。

「皆と一緒に行く」


養老を出てから実に8時間を経過していました。倒れこむように横になられたKさんに、私は抹消循環を改善するような点滴を開始し、脈や呼吸状態、意識状態からこれ以上のツアーは困難であると判断し、広州で一泊する事を提案し、実質的なドクターストップをかけました。
ところが、時に運命の流れには逆らえないものです。点滴が終わる頃からKさんは俄かにお元気になられ、笑顔が見られるだけではなく、持ち前の冗談が言える様に成ったのです。しかし私は、広州に留まることを提案いたしました。
Kさんは、静かに力強く「皆と一緒に行く」と申されました。
Kさんの真っ直ぐな眼差しと、娘さんの「この人は言いかけたら聞きませんから」という言葉に、「じゃあ、桂林まであと45分だからがんばろうか」と、私も了解したのでした。乗り継ぎの2時間の休憩は終わり、国内線に乗り換えいよいよ桂林へ出発しました。
運よく座席もこの混雑の中、前の方は何席か空いており、横になって休むことができました。離陸後早々からKさんは落ち着かない様子で手を動かしておられましたが、「大丈夫ですか?」と伺うとこくんと頷かれるのですが、顔色は明らかに不良でした。

離陸後15分、まだ飛行機は上昇を続けている現地時間8時20分ごろより体を起こしてくれと言われます。シートベルトを外し体を起こし、すぐ横に娘さんが寄り添われ楽な体位を求めました。狭い座席ではなかなか楽に体を置くことが出来ないようでしたが、その数分後から何かを仕切りと言おうとされておられました。娘さんは、何度も確認しようとされておられましたが、飛行機の轟音に消され聞き取りにくいようでした。私には、その言葉が「ありがとう」であることが判りましたが、この状況での意味合いを考えると娘さんには伝えることが出来ませんでした。

この段階でKさんの体調は、脈は非常に微弱となり、顔色も白く、手指の爪や口唇も紫色となり状態は極めて不良でした。今一度娘さんの膝を枕に横になり、早々酸素を開始。しかし、その他にする手立てはなく、ただ体をさするしかありませんでした。私は娘さんに「厳しい」と伝えました。娘さんは、しばらく言葉に詰まってから「・・・命?」と聞かれました。私は首肯しました。

8時35分、意識なし。呼吸状態は下顎呼吸で殆ど有効換気はされておらず、脈は微弱で不整となり、心室細動が考えられました。

8時40分、心停止。呼吸停止。

静かな往生でした。

桂林まであと15分の所でした。

私は娘さんに「心臓が止まりました」と告げました。しばらくは押し潰されたように黙っていた娘さんの目からは一滴の涙がKさんの顔の上に落ちました。しばらくは沈黙の時が流れました。
ただ飛行機の轟音が通奏低音の様に低く唸っているだけです。この時間は長くかんじました。私はただKさんの体をひたすらさするしかありませんでした。ショウ先生や添乗員の李さん、スチュワーデスの皆さんも本当に良く尽くして下さいました。
周囲から見れば、静かになり楽になられたんだとしか映らなかったことでしょう。私は、娘さんの心のうちを量りかねていましたが、一言「・・本当に最後の最期までKさんはKさんらしかったね。世界広しといえども、行きたい所に向かって大空の中で逝く人はまずいない。愛する娘さんに抱かれて・・・、本当にKさんらしい逝き方だ・・・。」と告げました。真っ赤に腫らした目に大きな涙をたたえ娘さんは、こくんと頷かれました。

この死に方。この逝き方、この生き様。・・文字通り大空から天へのまさに昇天。

「自分の人生だから、私は私の道を生きて行きたい。」文字通り、その生き様を貫いたKさんの人生。そしてそのフィナーレ。

人は一度は死ななければなりません。しかし、死ぬために生きているのではありません。生きるために生きてゆきます。
生きる以上、自分らしい人生を生き切りたいと人は願いますが、多くの場合それが成就することは難しい。それは、患者さんやご家族の「死への恐怖」と「死への過程への不安」こそが、一番大きな原因でした。それは当然です。しかし、中には稀に我儘とさえ見えるほどに自らの希望を述べられ、家族や親族の制止を押し切るかのように一途に生きられる人も居られます。文字通り「命がけ」なのです。
しかし不思議とそういう人の人生は深い輝きを湛えておられます。まさにKさんもそういう稀有なる人だったのでしょう。

Kさんの生き様を前に、計らずもショウ先生と私は同じ言葉を口にしていました。

「かっこいい死に方だね。本当にかっこいい・・・。」

間もなく飛行機は桂林に着陸し、ショウ先生の計らいでそこには救急車が準備されていました。
救命救急士が心肺蘇生を施しましたが事は終わった後でした。心電図で心停止が確認されたのは9時10分。病院へ運ばれることなく、桂林郊外の霊園へ安置されることになり、空港で霊柩車を待ちました。
この間、日本へ連絡を取り状況を説明するとともに今後の方策を検討しました。このままKさんを日本へ連れて帰る事はほぼ不可能であることが分かると、次に桂林で火葬の準備をすることになりました。
そして桂林まで、親族の方に来ていただく方向になったのです。


Kさんの娘さん

こうした状況を、母親が今亡くなったという現実すら受け入れることが困難な状況の中で、娘さんは本当に良く辛抱し対応されました。霊園へ安置された後もそこに滞在することは許されず、ホテルに戻ることになりました。
ホテルに着いたのが何時だったか、部屋に入ると、主人のいない車椅子が部屋の片隅に置かれていました。Kさんが元気なら横になるはずのベッドも、そこにありました。娘さんは一気にまた現実に引き戻されます。涙があふれます。
明日からどうするのか。娘さんの気持ちからは、このままツアーに参加するのは、あまりに心情的にきついものがあると思われました。日本へ帰るにも、桂林に母親を一人残すことはあまりにしのびありません。

私は、娘さんに告げました。「こんな状況での選択は本当に辛いと思う。どうしたらいいか迷ったら、ここに母さんがいると思って決めようよ。どうすることが母さんが喜ぶかで・・・。」
母親が亡くなった直後にはあまりにきつい言葉かけかもしれません。でも、現実にこれからをどうするかが迫られている以上選択しなくてはならないのです。娘さんは決めかねていました。私は、こう告げました。
「行こう。皆と一緒に。それをお母さんは願ったじゃない。広州から飛行機で出発した時にお母さんが言われた一言だ。「皆と一緒に行く。」だから、一緒に行こう。そんな気になれないのは分かる。でも、それはKさんの意思ではないと思うよ。」きっと、娘さんは十分納得はしていないでしょう。でも、私はKさんが今ここに生きていれば、何も迷わぬ選択だと思いました。

しかし、43人のツアーメンバーに対してこの事態をどう説明するかという問題が控えていました。娘さん自身、自分が納得できていない状況を皆に説明など出来るはずがありません。しかし、私はこの事態を正直に参加者の皆さんに話すべきだと感じました。死は悪いことではない。それどころか、死を見つめて生きるその人らしい生き方をサポートすることこそ、真の医療者の勤めであると信じているからです。その稀有なる生き方をされたKさんの事を隠す必要などないと思ったからでした。

十分な睡眠はとれないまま翌朝を迎えました。
しかし不思議とあまり疲れは感じませんでした。


ツアーの継続

10月9日朝、ロビーに集合時、私はツアー参加者を前に昨日の経緯を説明しました。
Kさんは、自分の希望を求めた末、桂林の空で亡くなられた事。現在は桂林郊外の霊園にて安置されておられる事。しかし、私たちは、いつかはこの世を卒業する存在であること。大切なことは、如何に自分らしく生き切るかということ。Kさんはその夢を現実にした素晴らしい魂であったこと。そして今、私たちの役割は、そのKさんの遺志をついで、このツアーを最後まで遂行すること。私たちはたまたま集まった烏合の衆ではなく、Kさんを弔うために集まったメンバーでもあることなどなど、はっきり覚えていませんが皆さんに精一杯伝えさせて頂きました。
ここで、娘さんをお呼びして、皆さんへ一言伝えて頂きました。丁度、Kさんが日本を出発前に決意を表明されたごとく、今日からのツアーを一緒に同行するには、どうしても彼女の言葉が必要であると思ったからです。娘さんは、辛い心情を抑えて実にしっかりと自らの気持ちを吐露されました。最後に「よろしくお願いします」と今日からの出発を決意表明されました。
この表明によって、一気にツアーのメンバーが結束したことは明らかでした。

メンバーの皆は思えばどなたも自らが癌で同じく辛い選択をされてきた本人とその家族、それを看ている医療者ですからあまりにKさんと娘さんの気持ちが分かりすぎました。涙を流されておられる方も居られました。

皆で、通常の雰囲気の中、自然にツアーは進められました。近すぎず遠すぎず本当に良く気を使ってくれた素晴らしいメンバー達でした。裏では、ショウ先生と陳さん李さんの昼夜を問わずの働きも見過ごせません。日本のご遺族と連絡は当然ながら、日本領事館やパスポートのための交渉、航空機も満席状況の中を如何に日本の遺族に桂林へ来ていただくかのあらゆる可能性を視野に置いた段取りは流石としか言いようがありません。この紙面を借りて、心より感謝したく思います。



追悼

10月9日、璃江下りの後、中国の少数民族ヨウ族との交流、その日は陽朔(ようさく)に一泊し10月10日、桂林へ戻り桂林市内観光。

10日のツアーの行程に桂林郊外の霊園へ全員でKさんの御参りに行くことになりました。小さいながらも思いの詰まった花束を持って霊園へ向かいました。やはり霊園の柵の外からでしたが、今まさにKさんが眠る建物を臨みながら、私たちの前にあった一番大きな金木犀の根元に花束を供えさせてもらいました。金木犀を慰霊の塔として44名のツアーメンバー全員と添乗員の陳さん李さんも一緒に、それを正面に1分間の黙祷、続いて般若心経を一巻挙げさせて頂きました。

私は、その後を娘さんにと促しました。すると娘さんは、「母親は生前賑やかな事が好きだった。だから是非皆さんで、カニ踊りで弔いをしてあげてほしい」と提案されたのです。この状況を「全てはうまく行っている」と高らかに唱和するカニ踊りで弔いを希望されるのは勇気のある発言だと思いました。でも、確かにKさんには似つかわしい見送りの儀式であるとも感じました。そして、ツアーのメンバー全員で金木犀越しに見えるKさんをイメージして、霊園に向かってカニ踊りをしました。
「全てはうまく行っている!全てはうまく行っている!・・・」と繰り返し全員で唱和したのです。
そして最後に、Kさんへの畏敬の念と娘さんへのエール、そしてその姿に自らを重ねたメンバーは自分自身への励ましを込めて、涙とともに声高らかに「エイエイオー」と結んだのです。

すると、俄かに雨が降り始めました。私には、皆の思いが天に届き、Kさんが、そして天が涙したように感じました。
2ヶ月ぶりの桂林の雨でした。Kさんの弔いはこうして行われたのでした。



真のサポートとは


私は、Kさんの死から、ず~と自問してきました。「これで本当にいいのか?」「自己満足ではないか?」「本当のサポートをしたと言えるのか?」というものでした。
最後に皆さんと一緒にサポートについて考えてみたく思います。

「真のサポート」とはどういう事なんでしょうか?

もし、死を遠ざける忌むべき拒絶するべき不幸と捕らえれば、見方によっては「なぜそんなに状態の悪い人を旅行へしかも外国などへ連れてゆくのか?」と映るでしょう。サポータにあるまじき行動だと思います。きっとそれも一つの見方でしょうし、その価値観で生きておられる方が居られる以上、その考え方も間違いではないと思います。
しかし、医者になって20数年間、沢山の末期を取らせていただく中で、どれだけ拒み続けても必ず訪れるのが「死」であることも現実でした。ならば、死なないのではなく、如何にその人らしく死ねるか、その為に私達に何ができるか?が私にとって重要になってきたのです。しかし、多くの場合、本人とご家族では意見に相違があります。
本人の場合、「自分が病気なら病名を告知してほしいし、自分の人生だからどうしたいかは自分で決めたい」と願いながらも、家族の場合では、最も愛する人が同じ状況になった時に、その最愛の方には極力事実は告げず、ついつい自分自身の見解を述べ頑張れを強要したくなります。愛する故に死んで欲しくないからです。生きていて欲しいのです。いつまでも。やはり死を拒絶したいのです。人情として当然でも、この思いが一番の障害となることが多いと感じてきました。
つまり、この思いは「誰のためか?」というシンプルな問題に行き着きます。誰の為に生きる必要があるのか?医療者は、この両者の思いを如何に聞いて行くかが問われます。意向の異なる患者さんとご家族の両方の意見を平等に聞くのは可能ですが、医療者としての行為は一つです。

私は、大切にすべき序列があると思っています。
まずは、「誰のためか?」と問われれば、当然、その病気を背負い、今まさにどういう生き方をしたいと願うかを問われている患者さん自身の為です。これが一番優先されるべきであると思っています。
次に、患者さんのためにどうしたいかを願う家族の為です。
そして、最後に患者さんとご家族の両方をサポートする自分自身のためです。これが私の序列です。
サポーターの為に患者さん自身が遠慮するのは本末転倒であるということです。医療者は、自分の都合を優先するあまり、患者さんやご家族に医療者の意見を強要してはならないと言うことです。つまり、患者さん本人が右といえば、たとえ常識や社会通念が左であっても、サポーターは右を向かなければならない時があるのではないでしょうか。

ガン末期とは本人は命がけであるということ。本人が決意として表明されたことは聞いて差し上げたい。私はそれこそが真のサポートであると思うのです。

Kさんの生き様。それを考えたとき、私がサポートしたかったのは「桂林へ行く」ではありませんでした。Kさんの「皆と一緒に行く」という決意だったように思います。Kさんはその意味では志半ばで昇天されたのではなく、まさに志を成し遂げて昇天された、と感じております。

重ねて、ここに心よりのご冥福をお祈り申し上げます。

Kさん、生きる勇気をありがとう。



追記

今回の出来事を通して、私は事の全てを美化する心算は毛頭ありません。今回紹介させて頂いたのは一つの見方に過ぎません。今回のツアーを通して沢山の反省点があります。殊にいくらKさんらしく思いを成就したとはいえ、後に残されたご家族、特に日本にいて死に目に会えなかったご遺族の思いを考えたとき、その機会を奪った責任に対しては、謝って謝りきれるものではありません。心より深謝いたします。今後は十分な配慮が必要であると反省しています。
しかし、私自身、やはりこうした生きがいのツアーはこれからも必要がある限り継続したく思っています。それこそが、Kさんに対する私の恩返しでもあると思っているからです。