コラム

一粒の涙

船戸崇史
今、こうして目を閉じて、在りし日のMさんのお顔を思い出すとき、本当に清楚な笑顔が浮かびます。何時お伺いしても、そのすがすがしい笑顔と、感謝の言葉によって、どれほど私たち医療者が励まされたことでしょうか?その病気が不治の病であれば尚更、沈うつにならざるを得ない状況ですら、Mさんはにこやかで暖かでした。そして、最後の入院となった313日の午後、時間がないと聞いてお見舞いに伺った私は、こぼれそうな大粒の涙を彼女の目に見たのです。この大粒の涙に込められたMさんの思い・・それを思う時、私も涙を禁じ得ません。

Mさんの病気

Mさん。41歳。平成9年(33歳当時)に左足底の痛みと痺れにて発症。痺れはその後も下肢から上肢へと広がり、伴って平成12年頃からは杖歩行となってゆかれました。近くの病院で精査してもはっきりとした原因もつかめず、対症療法のみで経過を見るしか方法がありませんでした。そして辛いことには、神経症状はすすみ尿失禁だけではなく便失禁へと進展し体重も5年間で6kg減少し39kgとなっていました。病状の進行により、つま先が上がらないなどの症状から、O病院から平成14829日にN大学病院神経内科へ紹介入院となりました。そして、ここで種々検査をされる中で、彼女の病気が非常にまれな神経の難病であることが判明してゆくのです。病名が明らかになる安心とは裏腹に、この神経の難病の結末は体中の末梢神経が障害され、不整脈から心不全、腎不全となって死に至ると言う恐ろしい病気だったのです。しかもこの病気の本体は、肝臓で作られる異常トランスサイレチンが、体中の神経組織に沈着することによって起こることが分かっているために治療法は現在の自分の肝臓を摘出し他から肝臓の提供を受けなければ生存できないと言う厳しい病気だったのです。そうでなくとも、思いやりの深いMさんが人から肝臓の提供を受けない限り生存が許されないと知った時の悲しみは如何程だったでしょうか。しかし、この時点でMさんには小学校1年生と4年生の2人のお子様がおいでになり、死ぬに死ねない状況だったのです。そして平成15127日にご主人から肝臓の一部の提供を受ける、所謂生体部分肝臓移植が施行されたのでした。手術は無事終了したものの、術後の管理は大変だったようです。なかなか引かない腹水や改善しない低栄養状態、また拒絶反応のための免疫抑制剤などの種々薬剤管理など、かなり辛い思いをされたようでしたがどれも、肝臓を提供しくれたご主人や可愛い子供たちと共に生きる為でした。

そして最終的に退院できる状況にまで徐々に改善されてゆかれました。ただし、食事は腸管の神経障害による影響で、食後すぐに下痢をおこし健康な方より栄養の摂取が普通にとれない状態にありました。その為、最終的には体に栄養を取り込むために左の鎖骨下にリザーバーと言うポートを埋め込んで、ここから高カロリーの点滴によって栄養を確保することになりました。心臓もペースメーカーが埋め込まれました。歩行は、下肢の末梢神経障害のためにほとんど足首が動かないため装具をつけてやっと数歩歩ける程度で結果的にベッドでの臥床を余儀なくされました。辛いのは排泄でした。便意も尿意も分からないのです。便は、食後30分後くらいにトイレへ行き、から振りされては、またゴロゴロというおなかから出る音でトイレに何回も行って排泄を待ちました。ひどい下痢のときには、トイレに間に合わずに失禁してしまうこともありました。尿意も無いわけですから、自分で一日に朝、昼、晩に3~4回自己導尿していました。若い女性で、しかも清楚なMさんにしてみたらこうした状況が如何に辛く屈辱にも似た経験だったことと思います。どれも、愛する家族のためにこうした一切を犠牲にして彼女は「生」を選択し改善されることを信じて続けたのです。

Mさんの在宅医療

平成15415日、その甲斐あって、とうとう待望の退院でした。体中が傷だらけ、薬によって生かされていると言っても過言でない状況で彼女は生きて自分の家へ帰ることが出来たのです。退院後は術後の経過をみるために定期的な通院をしながら、短期的な入退院も繰り返して、術後1年半を経過してから当院との関わりが始まりました。当院としても、この様な状況の患者さんを在宅で見ることが出来るのかは甚だ不安でしたが、私たち医療者ですらそう思うのですから、況やMさんやそのご家族の不安は如何程だったでしょうか。想像に固くありません。(その意味で、N大学の移植外科の先生方やコーデネーターの方は本当によく親切丁寧に指導して頂けました。お休みなどなく昼夜はもとより時間の多寡も問わず本当に分かりやすく指導していただけました。この熱意が全てを治し癒す方向へと勇気つけていると、医療の原点を見せて頂き感動いたしました。この場を借りまして深謝申し上げます。)たしかに在宅開始後も種々問題はありました。腹水、帯状疱疹、下痢、発熱、などですが、一番は肝移植を受けた患者さんを診た経験がないわれわれ医療者の方が問題だったかもしれません。しかしMさんの精神的な順応力と忍耐力は素晴らしいものでした。何時もニコニコされたMさんの暖かなまなざしの奥には、強靭な「生存」への欲求があることを感じてきました。そして、それは家族への「愛」ゆえである事も私たちは誰もが暗黙の中に感じていたように思います。

こうして、いくつかの笑いや不安の毎日は光陰矢のごとく過ぎて行きました。この間も、一ヶ月ごとに大学病院でもチェックを受け、状況により何度も入院しては時には、肝生検(肝臓に針をさしての組織検査)をすることもあり、経過も起伏がある中でもMさんの変わらない笑顔が安定の象徴でした。

しかし、起伏ある安定はいつまでも続きませんでした。退院後9ヶ月ほどした平成17120日の往診時、目の黄染に気が付いたのです。早速追加した黄疸の検査で血中の総ビリルビンが4,7(正常は1以下)。N大学病院へ早々入院となったのです。だれもこれが最後の入院になるとは思ってもいませんでした。

既に、MさんはN大学病院へ入院されて3週間が過ぎようとしていました。何時もより長い入院でした。ついに気になった私はご自宅へ確認の電話を入れました。すると、Mさんの病状はかなり進行し黄疸は改善が困難であるといいます。わずかに入っていた食事も全く不能で殆どベッドで寝たきりであるとの事。そうそうお見舞いを当院の看護師と相談しました。

お見舞い

そしてやっとお見舞いに伺えたのが、入院されて1ヶ月半も経過した313日だったのです。

病院の病棟は新しくなったものの、何時もの様に看護師は忙しそうに動き回っています。勤務医時代を思い出す光景です。私は、Mさんのお部屋に入りました。Mさんは、4人部屋の入り口右のカーテンに囲まれてご主人とお二人おいでになられました。ご主人は多忙な方ですが、奥様の状況が芳しくないことを知ると、仕事も休暇をとられ、Mさんとの共有の時間を出来る限り持つようにされて居られるのでした。飽くまで自然体のその介護される姿は、肝移植も自然の流れであったと納得させされる姿でした。

わたしは、極力平静を装って、明るく声を掛けようと廊下からベットサイドへゆっくり近づきました。

そして、ぺこっと会釈をしてMさんのお顔を覗き込んだのです。何時ものMさんなら、何ともいえない笑顔で迎えてくれました。いや、実はこの時もそうだったのです。ただ、言葉が出なかっただけ・・・と思いました。しかし、直に彼女の目には、溢れんばかりの涙が光り始めたのです。一瞬の沈黙でした。

「・・ここまで頑張ってきたのに・・・・もっと子供たちと一緒に居たかったのに・・・本当にもっと生きていたかった・・・でももうおしまい・・・・ああ無念。」こうした思いが一気に私の心に流れ込んできたようでした。私は言葉を失いました。何をどう言ってよいのか・・・私は、深呼吸をして心を戻して、そしてやっとの思いでお話をしました。

Mさん・・・・今、何が一番したいですか?」私は聞いてから、とんでもないことを口走ったと後悔しました。今のMさんにもはや「したい」は無いも同然でした。「死」に向かって今はただ淡々と時間をすごすだけ、呼吸をすることすら精一杯だったと思います。しかし、この突然のとんでもない私の愚問がすこしばかり奏功したようでした。Mさんは、それまで遠くを眺めるような眼差しから、一機に焦点が私の顔に定まりました。明らかな黄疸で黄色く染まった涙の眼でも眼差しは、やはり清楚なMさんそのものでした。そして、なんと、かすかに微笑んで、「・・・旅行」と言われたのです。私は、(・・現状では動けるはずがない。仮に動けたとしても・・・意味があるとすれば、自宅に帰ると言う事だけ。でも、それすら出来るのか?それを旅行と言っておられるのか?それなら、『帰りたい』とだけ言えばよいのでは?言わないのは、こんな状況で帰るのは、家族や医療者である私たちに迷惑を掛けるからと思っておられるに違いない・・・。じゃあ、本当に旅行なのだろうか?一体どこへ?・・・黄疸から来る幻想なのか?・・)と、瞬間でしたが、一人考え込んでしまいました。しかも現在の状況は既にモニターに管理され、点滴の内容は、昇圧剤(血圧を上げて抹消循環を確保する薬・・・それほどに全身状態は不良で到底動かせる状況ではないことを意味する)が使われており、末期的な状況であることは明白でした。私は「どこへ行きたいんですか?」と聞くことが怖くなりました。ただ、「そうですか・・」としか言えなかったのでした。

その後、ご主人とお話しました。あまり時間はないこと。本人は未だ諦めていないこと。意識状態も時に混濁し、時に幻覚があること。諦められないが、自分は助からないかもしれないと感じていること。一杯の感謝を言いたくても怖くて言えないこと。などをお聞きしました。だから、私は退院して自分のうちに帰りましょうとお誘い致しました。きっと、今まで病院で見取らせて頂いた圧倒的多くの方が申された、最後の最期の希望「家へ帰る」を、Mさんもきっと希望するに違いないから。

しかし、病状はあまりに深刻でした。

翌日、個室へ移動。家族水入らずの時を持たれましたが、既に意識様態は不良で返事もままならぬ状況でした。

訪問して2日後の315日、午後1027分、Mさんは静かに昇天されました。

享年41歳。

ご主人と小学校4年生と1年生の2人の子供さんを残して旅立たれたのでした。

すざましいまでの諦めない人生の終焉でした。

子供さんへのメッセージ

16日、ご遺体はご自宅へ帰っておられました。私はどうしてもご自宅を訪ねたく思っていました。是非息子さんがたに会いたかったからです。子供さんたちは、表情でこそ露(あらわ)にしていませんでしたが、お母さんが亡くなって尋常のはずがありません。況や、この数週間、進行がはやく病院を訪ねるたびに衰弱し黄色くなってゆく母親をどの様な思いで見つめ出会ってきたのかを思うときに、胸の詰まる思いがします。子供たちは、その小さな胸をどれほど痛めてきたのでしょうか?たとえ小学校1年生の子供と言えども、等身大の悲しみや恐怖心はあります。徐々に悪くなる母親を前に、でも、健やかな振りをすること・・時に子供はそれが一番の親孝行であることを知っています。押しつぶされそうな悲しみにじっと耐えて時には、この非常事態にどう対応してよいのか分からない子供は、最後の臨終の場で、笑顔を振りまく子供もいました。本当は死ぬほど怖くて辛いのに、少しでも場を明るくしたいと本能にも似た振る舞いだったんだろうと感じてきました。

仕事が終わって私と婦長、そして春原医師の3人はMさんのお宅に向かったのです。

お部屋は、きれいに片付けられ、つい最近まで闘病されていたベットはすでに撤収されていました。そして、同じ場所にMさんは横になっておられました。私は何時もと同じ場所に座りました。いつもだったら、あのすがすがしい笑顔とともに、近況を報告してくださったMさんは、静かに眼を閉じておられました。そのお顔を拝見していると、Mさんの本当に無念な思いがひしひしと伝わってくるかのようです。

ご主人は、丁寧にお礼を申されましたが、本当にお礼を申し上げたいのは、きっとMさんご本人がご主人やご家族に対してであとろうと思いました。それほどに、ご主人やご両親は、本当に精神誠意尽くされました。

私は、どうしてもMさんの闘病について医師として子供さんに伝えたいと思い、2人の子供さんをお呼びしました。

私:「*くんと**くん、お母さんな、死んじゃった・・・」

子:「・・・うん、死んじゃった」

子供さんの表情は屈託なく見えますが、何時もと違った緊張感を微妙に察知している様子でした。

私:「お母さんな、本当はな、絶対治らん病気やったんや・・」

子:「・・・・」

私:「それをな、お母さんな、知っとったんや・・・、僕たちは、自分が死んじゃう病気だって、言われて、生きれるか?」

子:「・・・わからん。でも生きれんかもしれへん・・・」

私:「そうやろ。でもな、お母さんは、それでも大きな手術を受けてもな、今まで負けずに頑張ってきたんや・・、どうして頑張ったか、分かるか?」

子:「・・・分からん」

私:「それはな、少しでもな、あなたたちと一緒にいたかったからや・・お父さん達と一緒にいたかったからや・・・わかるか?」

子:「・・・・うん」

私:「お母さんな、死んでしまうよな病気でも、死にたいとは絶対言わなかったよ。それどころか反対や。頑張るって、何時も言っとった・・・凄いやろ・・・」

子:「・・・・うん」

私:「お母さんはな、そういう凄い人やった・・。・・・・その凄い人の子供は誰や?」

子:「・・・・俺んたか・・?・・」

私:「そうや、あなたたちはな、そんな凄いお母さんの子供や・・・。だからな、あなたたちも負けたらあかん。お母さん、死んで本当に辛いけど、お母さんが最後まで頑張ったように、最後まで諦めたらあかんよ。あなた達は、一生懸命勉強して、そして立派な大人にならないかん。ええか。これからはな、お母さんはおらへん。でもな、迷ったらな、お母さんやお父さんやったらどうするかって考える・・・そしてそれでも分からんかったら、お父さんやお母さんがどうしたら喜ぶかで選べばいい。分かるか?むずかしないやろ。

特にお母さんはな、今日から僕たちのな、心の中で生きとるんや。だからな、僕たちがな、お母さんに会いたいと思ったらな、いつでも会える。心の中でな。そしてな、お母さんやったらどうするかって、どうしたら喜ぶかって、そうやって諦めずに生きてゆくんやよ・・・・ええか、できるか・・」

そして、私は最後に言いました。

「お母さんな、もうちょっとするとな、燃やされてまう。そしてな、もうな、今のお母さんの体には会えへんよ。だからな、今のうちやで、一杯お礼を言わないかんよ。ありがとうをな・・・」

子供たちは、「うん、もう一杯言った」と、涙をぬぐいながら返事をしてくれました。

ご主人さんも涙でくしゃくしゃになりながら、ただ頷いておられました。

かなりでしゃばりにも、私がこのことを伝えたいと願ったのは、きっと、ここにMさんが居られたら、このことを伝えて欲しかったのではないかと思ったからでした。

未だに、あの清楚で華奢なMさんの一体どこにこの強さが宿っていたのかと不思議に思うことがあります。しかし、今の私の心の中には、涙を一杯ためて本当に最後の最後まで、諦めずに努力されるMさんのお顔もさることながら、なぜか、最後のお見舞いで見せてくれた「旅行」と言われた、あの軽やかな笑顔のまなざしが強く残っています。

きっと、今頃自由にあちこちを旅されておられることでしょう。そして不思議なことに、その目にはもう涙は光っていません。ただ光っているのはMさんの「ありがとう」の言葉だけ。

ここに、最後の最後まで、多くの苦難を乗り越えられたMさんに心より尊敬し哀悼の意を表したいと思います。Mさん、ありがとう。