コラム

悔いなき人生

船戸崇史

過日412日午後917分、一人の少女が旅立ちました。ゆかちゃん(仮名)98ヶ月の短い人生でした。私たちが関わらせて頂いたのは、既にこの子の意識がなくなり、人工呼吸器につながれた最後の1年でしたが人生の意味は時間の長さだけではないと、安楽に生きるだけではないとこの短くも大いに輝いたゆかちゃんの短い人生は問いかけているようです。ゆかちゃんの在宅ケアを振り返ったとき、兎角私たちが望むところとは別の所に本当の幸せはあるのではないかとつくづく感じます。

今回は、カルテをめくりながら、彼女の人生の最期をご家族の思いと共に振り返ってみたく思います。

ゆかちゃん

1995年819日出世時より、高度チアノーゼを認め、市民病院のNICUに入院。諸検査の結果、単心房単心室という極めて高度な心奇形が判明しました。生存のための緊急手術が生後3ヶ月で施行されましたが、翌年の962月には髄膜炎を併発しV-Pシャント手術を施行、しかし結果的に知能障害を残すこととなりました。しかし、保育園から小学校へは屈託なく通学して学校でも友達がたくさんできました。お婆ちゃんの言葉では「決して人の悪口を言ったり、頑張れって人に強制する子ではなかった」と振り返られます。しかし、この間も心臓の諸検査や諸治療は継続され、ついに03910日、満8歳の時に心臓の根治手術(フォンタン手術)が施行されました。同年116日退院したのも束の間、翌04年121日未明に呼吸異常に父が気づき、救急車で市民病院受診したのです。救急心肺蘇生が行われましたが、脳虚血による呼吸停止の状態となり、同04210日には気管切開後、人工呼吸器による生命維持へと命は繋がりましたが二度と意識の回復は見込めない状況となってしまったのでした。

その後、病状が安定化するにつれて、退院して在宅でのケアが検討されました。

04年223日、病院スタッフとご家族と当院の在宅医療担当スタッフに町の福祉課、保健婦、消防署などが加わり合同カンファレンスが開かれ、ゆかちゃんの帰宅後のサポートシステムが検討されました。しかし、母親は、在宅で療養するのに、人工呼吸器や医療処置など不安が一杯で、退院を躊躇されていました。この時、ゆかちゃんの兄が言いました。「ゆかはゆかだよ・・」この言葉に、「家族として一つ」を思い出された母は、連れて帰ることを決意されたのでした。

こうして、04年524日に待望の退院となったのでした。

ご家族からの質問

それからが、私たちとゆかちゃん、ご家族の在宅療養生活の始まりでした。

今までのゆかちゃんの病状がどんどん変わってゆくに従って、ご家族、特に身近で看護に当たる母親と祖母の思いはどんどん収束してゆかれました。私自身がまだ病状の把握が不十分な04527日(退院後3日目)に、ご家族からこんな質問を頂いたのです。

1、 「病院の先生からは『まず治ることはないです』とはっきり言われました。じゃあ、私たちはこれからゆかに何をしてあげたらいいのですか?」

2、 「この子は本当はどこにいるのでしょうか?この子にとって一番嬉しいことは何でしょうか?私たちはこの子に本当は痛いことをしているんじゃないですか?」

3、 「こんなに辛いなら、この子は本当はいない方がいいのでは?と思ってしまうことがあります。そう思っている自分が嫌で自己嫌悪に陥ります・・・」

という、本当に痛切な嘆き、悲しみ、苦しみ、不安、自己嫌悪でした。きっと、気をもみながらしかし何も出来ないご家族は、きっとゆかちゃんが生まれて以来ずっと何時もこの思いを自問し自らを攻め続けてこられたのだと感じました。切ないほどに同情の出来る投げかけでした。しかし、まだ3日目では、どう答えてよいのかが分からず、ただ、「私たちも諦めないので、一緒に頑張りましょう」とだけお話しました。

そして、その後、在宅診療がはじまりました。

相変わらず、ゆかちゃんの周りは見た目には大きく変動に満ちていました。まず、入浴のためのポータブルの入浴セットが町の福祉課の骨折りで入り、念願の入浴が一週間に2回ですができるようになりました。喜びを満面に表したのはご家族のほうでした。思えばもう半年間お湯に浸かっていなかったのです。それどころが、もっと凄いプレゼントがゆかちゃんには準備されていたのです。バリアフリーで段差が解消されドアの大きさまでがゆかちゃんの移動に適切なサイズにあつらえた新築の家が完成し、その一番のいい部屋になんとゆかちゃんのベットが置かれたのです。人工呼吸器に繋がれて何も言えず、況や意識もないゆかちゃんが、お風呂だけではなく家まで新品が与えられたことになります。新築の家の名前も「ゆかハウス」。なんと凄いことなのでしょうか!

そして、ご家族もゆかちゃんにとって、心地の良い環境整備には何時も貪欲でした。栄養のこと、皮膚炎のこと、MRSAのこと、人工呼吸器の設定のこと、保険のこと、社会保障制度のことなどいろいろお話しました。どれもが、ゆうかちゃんへの愛ゆえでした。

その後のゆかちゃんの経過は概ね順調で病状の安定にともなって、ご家族の精神状況も安定して行かれましたが、病状が安定すればするほど、ご家族からは最初にお伺いした本質的な疑問が湧き出てくるようになりました。
往診を通して、ご家族との交流が深まるにつれて、私の中にご家族の疑問にたいしての本質的な回答の鍵が見えてきました。それは、「ゆかちゃんは本当は全部分かっている。だから、ここにゆかちゃんがいたらどう思い何を願うか?という視点である」と思ったのです。

そうしたある日、私はご家族とゆかちゃんの間に図らずも、この視点を確認するかのような出来事がありました。

小学校訪問の意味

それは、ある日の往診でおばあちゃんからこうした伺いがあったのです。

「先生、ゆかを小学校へ連れて行きたいけど、駄目でしょうか?」というものでした。私は驚きました。確かに、ご自宅から小学校へは車椅子で移動できる程度の距離でしたが、兎角、ご家族にしてみたら、人工呼吸器に繋がれ意識のない我が子を外出させるとは、人目に晒すことであり、気後れするのが普通です。

私は聞きました。「勿論、大丈夫ですが、なぜそう思うのですか?」

すると、ご家族は「この子も長く入院してお友達もだんだん卒業して行きます。学校が大好きだったゆかにしたら、きっとお友達に会いたいだろうし、学校へも行きたいんじゃないかって思うんです・・」と、言われるのです。

私は凄いと思いました。

早々、小学校の養護教諭の先生や担任の先生に連絡して、ことの実現をお願いし、医学的にも問題はないことを伝えました。ご家族は喜ばれ、早々実行されました。同級生も皆、ゆかちゃんの周りに集まり、久しぶりの友達との交流が叶いました。

私は、きっと純真な子供たちゆえ、ゆかちゃんの姿は同級生の子供たちの目に映り心に残って、「命ってなんだろう・・」「生きるってなんだろう・・」という、本当にこれからの人生で大切な視点をゆかちゃんは与えてくれたのではないかと思いました。その意味で、子供たちの間では目に見えない深いレベルでの交流がもたらされたのではないでしょうか。

本当の喜びとは

平成17年の正月には、こんな出来事もありました。

年明けの最初の往診時にご両親からこうした質問をお聞きしました。

家族:「先生、ゆかにお年玉をもらったんです。ゆかに何かを買ってあげたいのですが何がいいと思いますか?」

私も一緒に考えました。

私:「ゆかちゃんだったら、一番お世話になっている人に何かプレゼントがしたいんじゃないかな?」

家族:「それって、誰ですか?先生方や看護婦さんたちですか?」

私:「それは当然、ご家族でしょう!大好きなご両親やおばあちゃん、お兄ちゃんじゃない?」

家族:「・・・!?」

私:「そうですよ。だから、皆さんが一番もらって嬉しいものを自分に買うんですよ。『ゆかちゃん、ありがとう!』ってね。それが一番ゆかちゃんは嬉しいんじゃないかな?」

実際、何を買われたか、そのまま貯金されたかは知りませんが、私は、ゆかちゃんが一番嬉しことの答えの一つは間違いなく「家族も嬉しい事」であると信じています。

ゆかちゃんの喜びは家族の喜びであり、家族の喜びは同時にゆかちゃんの喜びでもあるのです。

悪化する病態

ただ、「ゆかちゃんに痛いことをしているんじゃないか?」という質問は、気管切開部の処置や入浴時の硬縮した手足の屈伸などにご家族が痛みを感じておられたのだと思います。

私は、必要な処置は必要であり、これを怠ることによって、後により辛い状況が想定されると判断した時には、強引と思われるほどに「大丈夫です。痛くありませんから」とお話しました。処置やリハビリは時に同情を嫌うからです。「ゆかちゃんが痛かろう」は、同情であって、明らかな医学的根拠の前では愛情ではないからです。

平成17年になってから、ゆかちゃんは徐々にむくみが強くなってゆきました。伴って、人工呼吸器のアラームが良く鳴るようになったのです。月一回市民病院へ通院して撮られえたレントゲンからも、強制換気による肺高血圧による変化が強くなっていました。肺が硬くなっているのです。仕方のない現実でしたが、間違いなく終わりが近づいている現実でもありました。

2
23日、外来診療が終わってから、私たちはご家族をお呼びして、ゆかちゃんの現状と今後の見通しや心構えについて面談しました。


カルテの記載から・・

医師:「ゆかちゃんの急変やダウンヒル(悪化)はあることを了解の上、ゆかちゃんの存在意味や看取りについて考えた。無論答えは出ないが皆で考えた・・・」

母親:「家族皆で暮らしたかった・・・。やっと暮らせるようになった・・。ゆかちゃんのお陰です・・・でも、最期は・・・家で逝かせてやりたいです・・・」

父親:「ゆかちゃんのメッセージを一生懸命考えるけど、何か分かりません。治る可能性があるのなら入院もいいのではと考えています・・・・」

その後も、一進一退が続く中、明らかにゆかちゃんのむくみは悪化し尿量も減少傾向となりました。ご家族からの電話による確認も頻繁となり、家族の疲労も徐々に辛いものへとなってゆかれました。


本当に迷ったら

そんな中、47日夜お母さんから電話が入りました。

母:「本当はゆかは、入院したいと言ってるんじゃないでしょうか?」

すこしでも、楽にしてあげたいという気持ちは良く分かりましたし、あまりにアラームが鳴るのも忍びなかったのでしょう。しかし当初より出来るだけ家にいたいと願っておられることに変わりなく、入院したからといって楽になるはずもないほどに病状は進んでいるわけです。私は答えました。

私:「そういう時は、ゆかちゃんへ聞いてみてください。『入院したい?』って。如何ですか?今、ゆかちゃんは何て言ってますか?考えずに感じてみてくださいね」

母:「・・・家に居たいって・・・・でも・・・」

私:「そうですね。私もそう思います。お母さん、疲れですよ。勿論、入院はOKです。無理は駄目です。どうしても分からない時には本人へ聞いてくださいね。そして答えを感じるのです。答えはきっと返ってきます。いいですか・・・・」



本当のところ、私自身は、こうして「本当に迷った時」には、どちらでもいいと思っています。どちらの選択も、「良い所半分、悪い所半分」だからです。大切なのは決意であり、医療者がそれを促すきっかけつくりをして差し上げることが大切であると思っています。

最期の時
410日、血圧が50を切るようになりました。伴って尿量が減り、殆ど出ていない状況となりました。

カルテの記載から・・ご家族へのお話

「ゆかちゃんは今まで十分すぎるほどがんばってきました。これ以上がんばれは言えませんね。『死んで欲しくない』という気持ちは分かりますが、ゆかちゃんにしてみれば自分が原因で大好きなお母さんやおばあちゃん、家族が泣くのは一番辛いと思うんですよ。『泣くな』と言ってるんじゃないんです。辛いだろうけど『良くがんばったね』って、『私たちも後から行くからね』って・・・、そう言って手を離してあげることが大切じゃないかって思うんです。腹に入らなくてもいいから、頭の片隅には置いてくださいね。・・・尿が出なくなって23日です。今何が出来るかって?出来ることは全てしてきましたよ。あとは、ありがとうだけですよ・・・何かあったら電話してください。」

4
12日、尿量0。血圧測定不能。1210分の心電図波形で心室調律、有効心拍なし。殆ど心停止と同じ。両手のチアノーゼは増強し、直にそのまま心電図の波形は平坦(フラット)になると思われました。丁度そこへ大好きな兄が中学校から急変を知って駆けつけました。一生懸命ゆかちゃんの紫色の手をマッサージします。父親も仕事の途中急変を聞いて駆けつけ涙ながらに手を握られました。すこし、手の紫色が改善してきたように見えました。

1510分、なぜか波形が戻り、微弱ではあるが心拍再開。その後血圧も計測可能となったのです。?。原因は不明。当院の、春原医師は、ICUの勤務経験から、しきりと「ありえない」と言われました。「あるとすれば、誰かが心臓マッサージをしたとしか考えられない・・・」と。・・・・勿論誰も行っていない。

しかし、1630分、チアノーゼ増強し、血圧低下。

そしてついに家族の見守られる中、午後917分、ゆかちゃんは昇天したのでした。

享年98ヶ月の短い人生でした。

人生の幸せ

カルテの記載から・・「ゆかちゃんは本当に優しい子でした。最後の最後まで、ご家族を思いやって、何度も何度も『いいですか?』って、そして逝きました。これで、彼女は本当の自由になりました。気管チューブからも今は自由です。・・・これからはこの子も分まで、生きてくださいね。心配要りません、この子は決して『がんばれ』は言わない子でしたからね。でも、この子ほど頑張った子はいないでしょう」

図らずも、ゆかちゃんの生まれた時刻が午前917分。亡くなったのが午後917分。いずれも悔い無し(917し)。

皆さん如何でしょうか?これまでの生き方の中に、お母さんが、ゆかちゃんが退院時に言われた「この子は本当はいない方がいいのでは?」という質問の答えがあるのでないかと私は感じます。皆さんは如何お感じでしょうか?

たった、98ヶ月のこの短い人生。ただ辛いだけとも思えるほどに試練に満ちた人生。あなたが宿る魂なら、この子の肉体を選らぶ勇気がありますか?

ゆかちゃんの人生を思う時、その人生は、彼女自身にとって、そしてご家族にとって、そしてあなたにとって無意味だ、いなかった方が良かったと言えるでしょうか?

ゆかちゃんがこの世に誕生した意味。それはあまりに深く大きな意味を私は感じます。それを一言で表すことはできません。ゆかちゃんからは少なくとも勇気、信頼、託信、謙虚、忍耐、努力、懸命を感じます。ご家族との間には思いやり、共感、絆、愛を感じます。それこそが、本当に生きるということ。それが本当の家族ということ。この思いは、少なくとも、ゆかちゃんと共に流した涙の重さに比例するのではないでしょうか。

だから、私は、ゆかちゃんとご家族から人生は時間の長さだけではないと、安楽の追求だけではないと、教えてもらったように感じます。

「人生、短くとも・・・苦しくとも・・幸せはあるよ」って。

ゆかちゃん、ありがとう。また逢いましょう。