コラム

引導

船戸崇史
引導・・「仏門へ引き導くこと。」
過日、ある方の死に様から、「引導」というメッセージをもらいました。
今日はその話をしましょうね。


Yさん

Yさん、73歳男性。尿管癌で既に末期状態にて平成16年6月8日当院受診され、以後琵琶の葉温熱療法と、春原医師の痛み外来を受診し癌の緩和ケアをおこなわれておられました。その状況もかなり進行してゆくのですが、春原医師からは適切な治療の結果、Yさんは入院されることなく在宅でご自分の希望通りの生活を送ることが出来ました。
Yさんが亡くなられる1ヶ月前の5月18日の春原医師との会話(カルテの記載から)

Yさん:「もう長くはないですか?」
春原医師:「そう思うんですか?」
Yさん:「そうです・・」
春原医師:「それなら?」
Yさん:「痛くないようにして欲しいんです。(命が)短くなってもいいから、出来るだけ家にいたいです。皆には良くしてもらった。苦しくなく、短くいけたら自分にも皆にも都合がいい」

徘徊の意味

その後、徐々に病状は進行してゆくにしたがって、本人の食欲も低下してゆき、体力も落ちてゆかれました。そしてYさんが亡くなられる2日前でした。毎日訪問してはいたのですがご家族から電話が入り、「分けのわからない事を言って起きようとするので困っています。何か注射でもありませんか?」との相談でした。
勿論、食事がのどを通らなくなって既に幾日経過したことでしょうか。昼中はよく休まれ、夜間に動かれると言う典型的な昼夜の逆転が起こっていました。そして、殆ど食べておられないのにも拘らず、起き上がってどこかへ行こうとされるのです。徘徊です。こうした所謂問題行動は、癌の末期といわず、認知症の老人ではよく見受けられます。こういう時に大切なことは、「徘徊に限らず全ての一見問題行動に見える行為」には理由があると言う認識です。ですから、一番してはならないのがこちらの都合で行為を止める、叱る、咎めると言う事です。状況が介護者にとって認識できない時の基本は、その方に尋ねるということです。「どうしたんですか?」「今、何が起きているんですか?」という問いかけです。

私はご本人に訪ねました。

「どうされたんですか?」すると、Yさんは、私の顔を見て「起きる・・・行かなあかんで・・」と言われたんです。その顔は真顔でした。

実は徘徊の全ての原因は「どこかへ行かねばならない」です。だから、行動を開始してしまうのです。実はどこかは、必ず本人は分かっています。

行くべき場所

私:「どこへ行くんですか?」
Yさん:「・・・」(私の顔を遠いまなざしで見つめる)
この段階で、私は察知しました。Yさんは、実に早期から自分の病状は認識されていました。尿管癌は既に腎周囲に広く浸潤し、血液検査でもかなりの腎機能障害は始まっていました。それだけではなく、痛みが強く、既に麻薬も本人の承諾の上で開始されていました。Yさんは、がん末期状態であり本人は十分すぎるほど「死」を受け入れておられました。そして行くべきところが分かっていたのです。


私:「・・・・ん?」(ゆっくり天井を指差す)
Yさん:「うん・・・」(うなずく)

本人が行くべきところとは、実は「あの世」だったんです。しかし今まで行ったことがありません。だから、「行かねば・・」という強迫観念はあるものの、どこへ行っていいか分からないために、介護者からは不穏状態のように起きては徘徊する行為に及んでいたのです。

私は、Yさんにゆっくり説明しました。

私:「Yさん、あの世へ行かねばって、思っているんだね・・・。でも、今まで行った事ないから・・落ち着かないんだね?」

すると、Yさんは大きくうなずきました。

私:「心配ないですよ。必ず迎えが来ます。だから、ここで待っていてくださいね。大丈夫ですから。」
とゆっくり諭すようにお話しました。そして、突然に私が使った「あの世」と「お迎え」の言葉の意味を、今一度そこに集まるご家族に向かってお話しました。しかし、間違いなくその話はYさんも聞いておられましたし、実はYさんに聴いて欲しかったからでした。

「医者が言うのも何ですが・・・」と前置きをして宗教ではなく最近の欧米の研究者の知見から福島大学教授の飯田史彦氏の「生きがい論」での「死生観」についての考え方や、死んでからのあの世のシナリオについて一時間ほど説明させていただきました。

死の瞬間は辛くないこと。必ずお迎えは来るので一人で逝くことは決してないこと。そして迎えに来るのは既になくなった方々であり、現在生きている人が来ることはないこと。

お迎えが来れば、安心してお任せすればいいことなど。こうした内容は甚だ宗教的に見えますが、退行催眠や臨死体験の研究から欧米の精神科医師たちが研究結果として指示している旨をお話しました。そして、見送る側に出来ることは、お迎えが来るまでは、本人は一人でさびしく不安なので、誰かが体を擦ってあげて欲しいとお願いしました。

もとより、危篤状態を聞きつけて、その日が日曜日であったこともあって、遠くのお孫さんも駆けつけていました。現在は中学生と高校生になったお孫さんも、10歳まではこの家にいて、大変Yさんには可愛がられたとか。
私は、このお孫さん達に伝えました。

近い先祖

「おじいちゃんはね、来週には・・もういないよ・・。皆も学校があるから、今日中に家へ帰らなくちゃ駄目だと思う。・・・だから、生きているおじいちゃんと会えるのは今日だけだ。」
丁度、Yさんのベッドが置いてある部屋が仏壇の置かれた部屋でもあって、ベッドの頭の上の鴨居には先祖の写真が並んでいました。私はそれを指差してお孫さんに言いました。

「おじいちゃんはんはね、もうすぐあそこに並ぶ。あなた方にとって一番近い先祖になる。先祖の方々はね、自分たちの末裔の未来、つまりあなた方の行く末を一番気にしている。そしてね、応援してくれるんだよ。分かるね。でも、出来ることなら写真になってからじゃなくて、今のうちに言おう。「ありがとう」をね。そう、出来ることなら、おじいちゃんにどんなことをしてもらったかを精一杯思い出して、一つづつを「ありがとう」と言いながら御爺ちゃんを擦るんだよ。いいね・・。」

この間約1時間、それまで15分おきに起きてはふらついた足取りでどこかへ行こうとされていたYさんは、全く不穏の様子もなく静かに休んでおられました。そして、話が終わった時に静かに「ありがとう」と申されました。
「また、どうしても不穏が出るようでしたら、お電話下さいね」とご家族にお伝えして、私はクリニックへ戻りました。

しかし、その2時間後、早々に連絡が入りました。私が帰って1時間もしないうちにまた起き始めたと言うのです。
再度お伺いして、私はYさんに尋ねました。

私:「・・どうされましたか?」
Yさん:「ああ、どうも。あの、迎えが来たかどうかを確かめたくて・・」

Yさんは、お迎えが来るのは分かったのですが、お迎えが来ても自分を忘れて行ってしまうことが不安だったのです。

私:「成る程。そうですね、気がかりですよね。でもね、定期バスとは違って、Yさんを置いていってしまうことはありませんから、ご心配要りません。必ずここまで来てくれますからね。だから、それまで安心してお待ち下さいね。大丈夫ですよ。大丈夫。」

その後も少々不穏はあったようですが、以前のように元気に動かれることはなくなったようでした。しかし、その翌日、Yさんは突然、平静になられました。そして、一言言われたそうです。

「・・皆がぞろぞろ・・一杯、やってきた・・」

お迎えです。

その後昏睡状態。

6月14日午後1時45分、昇天。

安らかなお顔での旅たちでした。

軽くなる瞬間

在宅末期医療を始めて11年。この間、180名に及ぶ在宅を見取らせて頂きました。
その全員の方がこの様に申されるわけではありません。しかし、最後の最後、不穏が強かった方も、ふっと軽くなられる時があります。そうした時に、「どなたか来られたんですか?」とお聞きすると、時に、既に亡くなられた方のお名前をお聞きすることがあります。そうした時私は必ず、ご本人に伝えます。「お迎えが来ているようですね。どうぞ、肩の力を抜いて、後はその方に付いてゆけばいいのですからね・・。大丈夫ですよ・・。」っと。

多くの場合、こうした言葉賭けでご本人は「ほっ」とされます。そして、人によっては「ありがとう」と申されます。

そして、ご家族にもお伝えします。「お迎えが来ているようですね。・・・もうすぐですよ。」っと。既にこの時点では多くのご家族は疲労困憊されており、不謹慎に聞こえるかも知れまさせんが、ご家族も「ほっ」とされます。しかし、ほっとされる家族ほど、実は誠心誠意よく看て来られた証でもあります。そして、最後の別れを申されます。「ありがとう」と。

この時、「ほっ」とする時が、軽くなる瞬間です。
掴んでいたものの全てを手放すときなんですね。

本当の引導とは

僧侶でもなく、あの世の存在が実証されていないのに、科学者である医師が、その様な言葉がけをしていいのか?と問われる向きもあるでしょう。しかし、ことに在宅に拘わらず、医療者は「傾聴」しかも「積極的傾聴」が求められます。傾聴の基本は、まず、「相手の気持ちを理解し、相手と同じ視座に立って、現在どういう状況かを洞察する」ことから始まります。その上で「どの様に対話するか」だと思っています。対話の目的は、「安らぎ」です。

その「安らぎの対話」とは、科学や宗教、医学と言う枠に収まるものでしょうか?
あなただったら死の間際に何を求めるでしょうか?
そして、最も安らぎを与えてくれものは、私の経験では、実は医療者の対話ではありません。
それは、家族の暖かな手のぬくもりと、「ありがとう」の言葉がけでした。
そして、この家族の気持ちこそが私は仏心であると信じています。
「ありがとう」という仏心の世界こそが、いわゆる仏国土であるならば、「ありがとう」の気持ちを持って、体を擦ることこそが仏門へのいざない。
これを本当の引導と呼ぶのではないでしょうか。
本当の引導とは、ご家族が、渡すものであると思うのです。

末期を看取る優秀な医療者とはきっと、そうした場つくりをしながらも、引導の邪魔をしない医療者だと思っています。


Yさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。