院長が岐阜新聞に掲載した素描です。
是非、ご覧下さい。
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人は産まれ生きてそして死んでゆきます。この人生を彩るように病があります。我々医療者は病に焦点をあててその方の人生のサポートを行うのが仕事です。しかし、サポートの本質は実は、この病という彩を通してその方の生死と関わることに他なりません。人は死にたくないゆえに死なせない医療が研究され発展してきました。しかし、生の反対ではなく延長線上に死がある以上、死なせない医療は常に敗北でした。では、病や死なせない医療は無意味かというとそうでもありません。人は病を通して初めて自分の人生を振り返り反省し涙を流し感謝されることを学ばれます。死なせない医療をとおして、人を助けようと一生懸命に努力する医療者に感動し直ってゆかれます。そして、その人は生き方を変えて新たに生まれ変わり生きようとされました。その病が大きければ大きいほどその人の変化は劇的で彩り豊かとなります。そうした人は最期に「ありがとう」と感謝されて逝かれました。多くの人は「生きてきた場所で死にたい」と申されました。そして、私は12年前にそれまでの勤務医を辞めて開業しました。生の延長線上にある死までをその人らしく生き、その人らしく死んで頂ける事を願って在宅医療を実践するための転換でした。この12年間に300名を超える見取りをさせていただく中で素晴らしいドラマが展開されました。どれもその人らしい命がけの最期でした。その「死に様」はまさにわれわれ医療者も含めて残されたものへのメッセージでした。「生き様」として。今回からの9回、そうした「生き様」を紹介したく思います。
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Kさん、76歳男性。長年区長を勤めるなど信望の篤い人だった。肝臓癌はかなり進んだ状況で既に黄疸がある。でも病院へバイクで通院されていた。家族が在宅医療の相談に来られたのが1月28日。主治医から、今月一杯持つか否かと言われての相談だった。「今月一杯じゃ、あと3日しかないじゃない?」と、急遽その日往診に伺った。驚いたことに、Kさんは矍鑠たる面持ちで私を迎えてくださった。しかし、お腹を触ると既に腹水で充満し血管が怒張し癌腫もごつごつと息づいていた。しかしKさんの黄色い目は穏やかだった。命は1月を持ちこたえたものの、2月4日には寝たきりとなり、オムツが付く。その後昏睡状態。私はあまり時間がない旨を家族に話し、それでも耳は最後まで聞こえると言うので、最後の感謝をお話頂く様に伝えた。翌5日の深夜、呼吸が止まった旨の電話が入った。私は早々お伺いした。家族は悲しみの涙を流しながらも笑顔で話された。不思議な光景だった。長男から事の顛末を聞いた。Kさんは0時を過ぎたころからにわかに意識が戻り起きられて、集まった親族一人一人に自分の人生のお礼を述べられた。そして最期、布団に横になると、ガッツポーズをとり静かに昇天されたという。このKさんの死に様は同時に間違いなくKさんの生き様に他ならない。人の死に様に甲乙をつけることは出来ないし意味もない。しかし私たちは一度は死ぬ。そして最後にしなけれならない仕事がある。それは自分の死に様を見せると言うこと。その死に様は間違いなく家族の生き様に変わる。人の死に様は遺された者のためにある。
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大往生というのは年齢に関係があるのだろうか。過日、一人の美しい女性が旅立った。Yさん。少し体調が優れないからと受診した結果、大腸がんが宣告された。しかも大きな肝転移があり既に手遅れの状況だった。病院では「治らない」と言われたが、あまりに若い娘の命を助けたい一心で両親はあらゆる治療方法を求めて当院を受診された。当院では、漢方薬、シュタイナー医学からオイリュトミー、食事療法とエドガーケーシーのマッサージ療法などが行われた。しかし10ヵ月後、病状は徐々に進行し、既にお腹は腹水でパンパン。既に麻薬は開始されていたが、度々おそう腹痛をこらえ、Yさんは「ほっ」と息を吐いて「これさえなけりゃな、全く」と言ってにこっと微笑んだ。信じられないほどの精神力を感じた。しかし、ついに通院は困難となり、在宅医療が開始。起きているのも辛いのにYさんは、何時も笑顔で迎えてくれた。在宅での診療は従来の療法を継続しながら点滴から訪問看護まで様々行われたが、話は時に「あの世」の事まで及んだ。そのツールは福島大学、飯田史彦氏の「生きがい論」。「死は終りではない。愛する人とはまた逢える。死はそれまでの一時のお別れという、だから死は怖くない」と、話した。彼女はゆっくり頷いた。しかし、ついに夏のある暑い日に、彼女は家族に見守られる中、静かに永眠された。享年28歳。死ぬほどに辛いこの状況を彼女はたった一人で生きて生きてそして死んで行った。「若すぎる死」とまわりは言う。しかし、これを大往生と言わずに一体何を言うのだろうか。大往生は年齢に関係ない。
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生き様はメッセージ
最後の最後まで生き切ろうとすれば、「最後の言葉」を伝える期を逸することがある。しかし、在宅末期を看取るわれわれは、その生き様にメッセージを感じ取ることもある。特に小さな子供を遺して他界する母親の思いは余りに辛い。
Kさん。享年41歳。遺伝による難病が発症。肝臓移植しか助かる手建がなく偶然タイプの合ったご主人から生体部分肝臓移植を受けた。しかし、その後黄疸が出現し、「絶対死ねない」と生きてこられたが、10歳と7歳のお子さんを遺され過日旅たたれた。最後にお会いした時の黄疸のための黄色い大粒の涙は未だに忘れることが出来ない。運命が余りに無慈悲に見えた。
Kさんの亡骸は翌日自宅へ。私はどうしてもご自宅へ伺いたいと思った。Kさんへの御参りと、その生き様を子供たちに伝えたかったから。「お母さんはな、生きようと一生懸命病気と戦った。でもな、人は必ずしも病気に勝てるとは限らん。本当はお母さんは死ぬ病気だと知っていた。それでもなぜ病気と闘ったか分かるか?それはな、お父さんやあなた達ともっと一緒に居たかったからや。だから死ぬと判っていてもお母さんは諦めなんだ。大事なことはな、死なないことやなくて諦めないことや。そのお母さんの子があなたたちや。だから、これから苦しい事があっても、諦めたらあかんよ。そして、立派な大人になってな」私は自分の子供と重なって、最後は涙で上手く伝えられなかった。
傲慢かもしれないが、時には医療者が亡き人の生き様から、その気持ちを察し代弁することも必要ではないかと思っている。
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素描5(桂林の雨)
Jさん。65歳。すい臓がん末期の状況であったが、「自分らしく生きるんだ」と、宣言して今回の中国ツアーに臨んだ。かなり状況は進行していたが、だからこそ本人の希望を叶えて差し上げたかった。この年、行き先は桂林。自然の持つ癒しの力と書いて自然治癒力。それを体験すると本来身体に備わる治癒力も引き出されると6年前からクリニック行事として催行してきた。出発当日、Jさんは養老を元気に出発した。関空から広州へ、そして桂林へ入る予定であったが、この行程中に急激に体力を落とし、私は広州でドクターストップをかけた。しかし、離陸後15分、急激に意識低下。ついに心停止。呼吸停止。大空の中でJさんは旅立たれた。その潔さと最後まで自分らしく生きたいと申されていたJさんの希望通りの逝き方に私たちは図らずも「かっこいい死に方だね・・」と納得した。同行した他のツアーメンバーは自らが癌を背負い治すためにツアーに参加した。Jさんの死は誰も強烈なショックを受けた。しかし、誰もが日本へ帰る道々で、「私もあのように死にたい」と申され「Jさんから勇気と元気をもらった」と述べられた。きっと、Jさんの「死」が皆を元気にしたのではなくJさんの「死を見据えた生き方」に共感したのだと思った。桂林を去るとき、皆で弔いをした。すると俄かに雨が降り始めた。2ヶ月ぶりの桂林の雨だった。恰も天がそしてJさんが涙したように感じた。
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進化した魂
Yちゃん。享年9歳8ヶ月。余りに短い一生だった。生まれつきの重症先天奇形で最後の1年は呼吸器に繋がれて生きていた。しかし、母親の思いは辛い。在宅医療が始まる最初の日に3つの質問を受けた。問1、この子は本当はどこにいるのか?問2、もう助からないと言われて一体何が出来るのか?問3、本当はこの子はいないほうが良いのでは?私は言葉に詰まった。いつ終わるとも知れない、呼吸器に繋がれた娘の姿。母として一体何が出来るのか?「私たちは逃げませんから・・・」それしか言えなかった。しかし、在宅で関わるうちに答えが見えてきた。母親や家族は何時も返事のないYちゃんと会話した。私たちの日常と何ら変わりない日々は過ぎていった。家族として。だから答1、Yちゃんは何時もここにいる。答2、何時もここにいるからこそ、Yちゃんの思いは一つ。全く何も出来ない自分を世話してくれてありがとう。だったら、Yちゃんは、家族が喜ぶことをしたいはず。ご家族に出来ること、それは自分たちが元気でハッピーでいるということ。家族の喜びはYちゃんの喜びでもあるから。しかし、1年後、徐々に全身状態は悪化して、ついに心臓が止まった。家族は泣いた。「ありがとう」と言って。答3、本当に居なくなって、流れた涙の重さ。それが、Yちゃんがいたという存在の重さ。人生は短くとも光り輝く人生はあると知った。人には魂が宿っているという。病気や障害は前世の悪業故とも聞く。しかし、あなたが、宿る魂ならYちゃんの肉体を選ぶ勇気がありますか?私には、素晴らしく進化した魂に思えた。
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素描8幸せな死
58歳、0さん、男性。肺がん末期。腫瘍は既に胸壁を突き破って拳大に成長していた。巨大な褥創があり、脳転移のため意識は混濁していた。相談の結果、病院から帰宅された。勿論、死に場所として。それが、当院との関りの始りだった。ご家族はよくケアされた。毎日、時間をかけて食事を取り、その後肩を貸して洗面と歯磨は日課だった。日曜日、仕事が休みで2人の子供が0さんに肩を貸した。口をゆすいでいると思ったら、突然0さんは大量の水を飲み始めた。子供はおかしいと思ったが、次の瞬間、0さんの呼吸は虫の息となった。実は、水を飲んだのではなく吸い込んだのだ。私が緊急電話をもらって駆けつけた時、既に全ては終わっていた。2人の子供は自分達が父親を殺したと思っていた。洗面介助をしくじったからだと自分を責め泣いていた。しかし、私は大往生だと思った。私は伝えた。「人の死に方で一番楽な死に方、それは窒息です。そう、お父さんはその窒息だった。子供さんは水の飲ませ方が悪かったと自分を攻めているかもしれない。でも、気管に水が入れば誰でも咳くよ。咳も出来ないほどにお父さんは衰弱していた。そして、最後の時に一番傍にいてほしい人は家族だよ。今日は日曜日で家族がそろっている。だから、今日、その子供さんに抱かれて、一番楽な死に方でお父さんは逝かれたんだよ。これまでお世話になった家族に、誰が文句を言いますか?言えるのは『ありがとう』だけですよ。これを大往生と言わずして何を言うのでしょう?」家族に看取られる死に方は全て大往生である。私はそれを幸せな死と呼んでいる。
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素描9引導
引導とは、仏門へ引き導くこと。Yさん73歳。尿管癌末期。当院の春原医師の痛み外来にかかり、癌性疼痛はコントロールされていたが、徐々に食欲はなく臥床時間が増えた。その時は音もなく確実に近づいていた。沢山の孫がお見舞いに来ていたある日曜日、徘徊と不穏で電話が入った。往診し私はYさんにどうしたのか聞いた。Yさん、「逝かなあかんで」。しかし、今まで一度も逝ったことがない。当然、どう行くのか混乱し、徘徊に及ぶ。私はYさんに伝えた。「間違いなく迎えは来るので、あなたが行かなくてもいいよ。ここで待ってて。大丈夫だから」そして、孫たちに伝えた。「お祖父ちゃんには時間がない。生きて会えるのは今日限りだ。だから、今日は、感謝を込めて『ありがとう』と言いながらお爺ちゃんの体を一杯擦ってあげてね。それがお別れだ。時が来たら、お爺ちゃんは昇天する。そして一番近い先祖になる。」私は鴨居の上の先祖の写真を指差しながら言った。孫の感謝を体に感じてかYさんは少し静かになられたもののその日不穏は続いた。しかし翌日、不穏と徘徊は止まった。本人は言った。「皆が一杯ぞろぞろやってきた・・」お迎えである。その翌日、Yさんは静かに家族に看取られながら昇天された。何時もあるわけではないが、こうした情景は在宅末期ケアをさせていただく中でしばしば体験する。不思議なことに、こうしたお迎えは、必ず全て先に他界した人ばかり。私には、ご家族の感謝の思いが仏心となって天に届き、仏門が開きお迎えが来たとしか思えない。本当の引導とはご家族が与えるものなのである。
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