コラム

今を生きる

船戸崇史
本来時には過去や未来はありません。あるのは永遠の今だけです。だから、素晴らしい人生の創造とはきっと今をあなたらしく精一杯生きることに尽きると思うのです。
しかし、私たちは、往々にして今を精一杯生きることができません。
それはなぜでしょうか?

一つは「後悔」の時です。過去へのネガティブな囚われですね。
あの時に、あんなことさえ言わなければ・・・あの時にしておきさえすれば・・・と思っている時、間違いなくあなたは今をネガティブに生きています。過去に囚われて生きる時、多くは後悔の時を生きていると言えます。そして後悔は自己否定であることが多い。そう言ってしまった自分、そうしてしまった自分を認められないのです。

だから、後悔の時、必要なことはそうしてしまった、そうなってしまった自分自身をまず認めてあげる、ということです。自己受容ですね。あなたは一生懸命考えて、そしてその道を選択したのです。それでいいのです。そうなるようになっていたのです。だから事実そうなったのですから。

もう一つは「不安と恐怖」の時です。未来へのネガティブな囚われですね。

もしこうなったらどうしよう・・・、いやこうなるに違いない・・・と思っている時、間違いなくあなたは今をネガティブに生きています。特に、不安の中でも、命に係わる時は恐怖になります。未来に囚われている時、あなたは今を不安と恐怖に生きていると言えます。そして不安や恐怖は「大丈夫だ」という自信があれば払拭できます。必要なことは、自己信頼です。
何が起きようとも大丈夫なのです。乗り越えられるからこそ訪れるのです。

Jさん

35歳Jさんは、今から5年前に子宮ガンで手術を受けました。結婚はされておられたのですが、子供さんはまだおられない状況でした。癌であるだけでも十分ショックなのに、場所が子宮であるということは、金輪際自分の子は得られないと言うことでした。手術を選択されるJさんのなんとも悔しく悲痛な思いは容易に想像がつきます。その後種々要因が重なり離婚されました。どうして私だけがこんなに辛い目にあわなければならないの?一体何をしたと言うの?どうして・・・・こうした思いは、Jさんでなくとも当然持たれることでしょう。

再発?

そして、平成17年1月、左の脇に小さなしこりを発見するのです。

平成17年2月17日、Jさんは、ご両親と妹さんの4人で当院を受診されました。私はエピソードと所見から容易に子宮ガンの再発転移であることは想像がつきました。しかし、Jさんとご家族からは、それが分かっていながらしっかり目をつぶっておられる雰囲気を感じました。

確かに年齢的にも若く今までの辛いエピソードに加えて「再発」などという試練は余りに厳しすぎます。認めたくないのは当然だと思いました。しかし、これから治療を開始するために最も大事なことは、信頼関係の上での事実の認識です。事実の告知の上に初めて治療方針も正直に相談できるからです。嘘は禁物です。

Jさんと家族にはやはり、現状を再発転移の可能性を認めるところからしか治療は始まらないと判断した私は、言葉を選びながら「何か分かりませんが、腫瘍マーカーも加えて血液検査をして結果から判断しましょう」と、後日に診断を延ばしたのでした。延ばされた時間の中で、本人家族の思いは徐々に熟成し、受け入れ態勢が少しづつ出来てほしいというのが狙いです。私は、数日の時間を空けてから、「採血結果から腫瘍マーカーが高く再発転移の可能性が高い」と言うシナリオを想定していました。しかし、2日後のデータは腫瘍マーカーを含め全て正常。困りました。しかし嘘はつけません。そのままを告げた時の本人と家族の喜びは私が驚くほどでした。本当に嬉しそうに背中を擦る父親の姿が印象的でした。しかし同時に、この喜びの表現は比例した不安の大きさの裏返しであることは容易に想像できました。「じゃあ、違うんですね!再発じゃないんですね!」期待を込めた視線はまっすぐに私に注がれました。しかし、私は(でもやっぱり再発だよ)という思いと、(でもデータが良いと言われれば嬉しいだろうな・・)という相反する思いが複雑に私の中で交錯し「・・・そうですね・・・」としか言えませんでした。きっと表情は引きつっていたと思います。「どうしよう・・」私は考えました。そして、提案しました。

パニック

「腫瘍マーカーは陰性でした。良かったね・・。でも、何かがそこにあることは間違いない。それが良いもの、悪いものと言うことじゃなくて、何かということをやっぱり調べたいな。だから、一部組織を採って調べさせてくれないだろうか?」と聞いてみたのです。Jさんはしぶしぶ了解してくれました。日を変えて私は組織診を施行しました。1週間後結果が帰ってきました。病理結果。Group 5 。腺癌との返事でした。私は、このレポートを手に本人と家族にはっきりと告知しました。「残念だけど、癌と言う返事が来ました。・・」そう言い終わらないうちに、Jさんはパニックとなりました。「なんで、なんでやの・・・なんで私ばっかりこんな目にあわな、あかんの!!」悲痛な心からの叫びでした。 大粒の涙が流れました。私は暫く何も言えませんでした。当然だと思いました。本当になぜこんなに辛い目にあわねばいけないのか?一体この子が何をしたと言うのか?辛く悲しく苦しく怒りの思いがひしひしと伝わってきました。しかし、私たちは医療者です。じゃあ、どうするのか。一体何が出来るのか。それを提案するのが働きです。ひとしきり涙を流した後、私は彼女に告げました。「本当だ。どうしてって、思う。でも、それが事実だ。大切なのはこれからだよ。終わったわけではない。事実が分かったんだよ。今日が始まりだ。」

癌の原因

これが、Jさんとご家族、そして私たちとの本当の意味でのスタートでした。

私は通常、癌には原因があるとして対応しています。そして、癌のことは癌に聞けとお話してきました。癌の言い分をよく聞き、自分の生き方の中で訂正すべきことは訂正する。それが、癌の言い分であり、癌出現の原因なのです。がん治療で大事なことは癌を消すことではなく、癌の原因を消すことだからです。そして今、やっとスタート地点に立ったといえます。

「Jさんね、癌には癌になる原因がある。なぜ癌になったと思いますか?」Jさんは、それまでは病気を呪い運命を呪っていました。しかし呪っても病気は消えません。勇気を持ってJさんはこの涙を機に自分の人生を振り返られました。そして原因としての父親との人間関係が浮き彫りになってゆきました。

後悔への許し

小さい頃から長女としての自覚を促され、子供は3人全て女の女系家族ではますます期待は長女に向けられました。勿論、Jさんは応えようと一生懸命でした。そして彼女はよく応えました。ただ、それが彼女の本心ではなく、渦巻く思いを押さえ込み、願いを閉ざして自分をないがしろにしてきたのでした。しかし、それは言えませんでした。そうすることが、家族思いのJさんの愛情の表現だったからに他なりません。きっといつからか、「私が我慢すればいいんだ・・。私さえ犠牲になれば、すべてが平和に丸く収まる・・。」という思いがあったのではないかと思うのです。そして、Jさんは、責任感の強さに比例した犠牲心によって、いつの日か言われることに従う人生へとなってゆくのです。それが通常になると、当然と成って疑問は生じません。Jさんは、知らず知らずのうちに父親の願う良い子を演じ、それが自分だと思い込んでいたのでした。しかし、父親とて娘をこよいなく愛しています。全ては良かれと思っての言動でしたから、それが悪いとは言えないと思うのです。そして、今回の原因探しの振り返りの中でJさんは徐々に気が付いてゆかれました。「私は一体誰の為に治すの?何のために治すの?治って何がしたいの?・・私って一体、誰なの?」この疑問は、思えば古くて新しい問題でした。ただ忘れていたのです。そして、ついに「私は誰の為に生きているの?」という疑問と同時に、自分は自分らしく生きてこなかったと気付かれたのでした。Jさんはその原因は父親だったと、父親を厳しく攻め立てたと回想されます。しかし、父親を攻め立てると同時に対を成すように自分の願いも浮き彫りになってきたのです。「私は我慢して父親の言うことを聞いてきた。でも本当はしたい事があった。」と、徐々に自分がしたいことが言えるようになって行かれたのです。Jさんにとって精神的に自立し自分の足で立ち始めた時でした。驚いたことに変化はJさんのみに留まりませんでした。なんと父親にも変化が訪れていたのです。ある日、父親から一枚のファックスが届きます。「お父さんの反省すべき点」と書かれたファックスには、そこまでJさんを苦しめていたことへの父親の慙愧の想いが記されていました。心から深謝されるお父さんの素直さには私も感動の余り涙が出てしまうほどでした。しかし、そのファクスへもJさんの評価は厳しく「本当かな?」と、疑問を呈しながらも目は嬉しそうに微笑んでいました。間違いなく、父親との過去の「後悔」が、癒され解けてゆく瞬間だったのです。そして、関係の修復はJさんのみに留まらず家族全体へ及び、素直な会話がなされる家族へと変貌を遂げていたのです。恰もさなぎが脱皮して蝶になるかのごとき変化でした。

しかし、病状はそんな中でも少しづつ進んでいました。頚部の転移巣は周囲の神経に浸潤し左腕がはれて上がらなくなり、声が上手く出せなくなると同時に、背中の痛みを訴えられるようになったのです。痛みは痛み止めで対応できたのですが、神経の圧迫症状については如何ともしがたく私は放射線治療を提案しました。そしてJさんは入院し放射線治療を受けられましたが、こうした選択は全てJさん自身でした。しかし、進む病状にこの先の不安は隠しきれないようでした。

気功ツアー

そうした中、折りしも当院で企画している自然治癒力を引き出すための気功ツアーが計画されていました。今年の行き先は屋久島。自然が治す力と書いて、自然治癒力。しかし、これは同時に私たちの体に自然に備わった治癒力を引き出すことになり、自然の力と体の力がシンクロして癒しのエネルギーが醸成すると私は信じています。そして、多くの場合、癌を生きるとは孤独との戦いです。しかし、特に静かな夜は自分ひとりを実感するといいます。「わたしだけ・・・」という思いについ涙が流れます。ツアーのもう一つの目的は同士との出会いです。共に癌を持ち闘病と言う試練は私だけではない。そうして一生懸命生きている同士に励まされ励まして、ハグしハグされて同じ目標に向かって共に肩を組み生きるのです。今一度、「色々あるさ、でも私は生きている、生きたいんだ」と宣言することが目標なのです。気功ツアーのもう一つの側面とは「未来への不安を払拭して生きる」ことにあるのです。

私はJさんへ参加することを勧めました。参加者はがん患者15名と、その家族、そして医師は7名、看護師3名の総勢40名でした。

113日、セントレア集合。さあ九州へと言うときに、早速Jさんは歩けなくなってしまいました。想定外でした。彼女は、自宅で余りに大事にされすぎていたのです。空港で車椅子を借りて、その後鹿児島空港や種子島など同行の妹さんが車椅子を押しての参加となりました。しかし、問題はこの先にありました。屋久島トレッキングです。なんと3kmもの山道を果たしてJさんが自分の足で歩けるか否かでした。しかし、多くの場合、不思議と気功ツアーでは通常元気のない方でも日に日に元気が戻り力が出てくると言う経験をしてきました。とりわけ、屋久島のエネルギーは素晴らしく、殊に標高1000mを越える頃から、あたりの空気は精妙になり太古の大自然の空気が漂い始めました。そこかしこに登場する数百年と言う巨大杉も、ここ屋久島では単なる小杉と呼ばれるほどに桁違いのエネルギーです。杉は「直(すぐ)」が語源とも言われる程、樹皮もまっすぐに伸びますが、屋久杉は炎の様な文様が躍動感を持ってうねり立ち上がります。恰も、屋久島の地面から立ち上る「気」のようです。こうした、別世界の破格なパワーに支えられてか、トレッキングの距離も忘れるほどにJさんは最後まで歩きとおされたのでした。一ヶ月に35日雨が降る屋久島でしたが、当日は穏やかに太陽が降り注いでくれました。Jさんは、杖を突きながらゆっくりでも一歩一歩、歩きました。そしてようやく逢えた屋久杉の巨木。「よく来たね」と歓迎してくれたと言います。Jさんの喜びの目の光は最後まで自分を信じて歩きとおした達成感だったのです。

屋久島ツアーをとおして、Jさんに一番思い出に残ったことは、山を歩ききったことと、皆の優しさだといわれました。

メール交換

しかし、ツアー後も病状は音もなく徐々に進行してゆきました。

腹部のリンパ節は累々と腫れ、尿管や消化管を圧迫し、右の腎臓は既に水腎症となって機能していません。消化管の動きは悪く、嘔吐が始まりました。痛みが出現し麻薬の貼薬が増量されました。11月下旬にはADLは低下し、もはや外来への通院は困難。往診にて診療が継続。伴って訪問看護も開始。
肉体的な病状の進行とは裏腹に、Jさんの心は強くなりつつありました。

その頃、Jさんから頂いたメール。12月25日。

「先生、私はとっても幸せ物です。家族もスタッフの方達もみんなが一生懸命にしてくださり、私はうれしくてうれしくてたまりません。どうしたら、その気持ちに答えられるの?って先生に聞きたくなるけど、私の目標は自立することなんで自分で考えてみました。そしたら、やっぱり私が元気と自分の人生を取り戻すことがみんなも一番うれしいと考えました。だから、私も自分のできることはなんでも諦めずチャレンジしていきます。」

不安と恐怖、後悔に埋没していたJさんとは思えない、決意表明。

また、その後、妹さんから頂いたメール。(12月30日)

「・・・最近、話し方も囁くような口調で 以前の姉を感じる事ができません。 何より不思議なことは泣かないのです。 何故ですか?あれだけ 何かがあると泣いていたのにツꀀ 今はどんなに辛くても 、(飲んだものを)戻せば 不安にもなるだろうけど 泣かないのです。友達からの励ましのメールや電話にも泣かないのです。・・・・」

返信

「・・・彼女が泣かなくなったのは、先の不安は当然あるけど、現状を見ることが出来るようになったんだと思います。しかも、現状を不満と見るのではなく、ここまでしてくれる、家族への感謝ですよ。その思いが大きくて、泣けないのかなって思います。私たちはこれを霊的な成長といいます。・・」
その後も肉体的な条件が悪化してゆく中で、Jさんの自分探しは続きました。
しかし、平成18年1月8日、Jさんは家族に見守られて静かに永眠されました。享年35歳。傍目には、辛く悲しく短い人生と映るかもしれません。しかし、私はそうは思いません。

今を生きる

闘病の道すがら、Jさんの中では父親との確執に心が縛られ怒りの感情と共に後悔が胸を占めることもあったでしょう。どうして自分だけが仕打ちにも似たこんな目にあわなければならないのかと涙のなかで憤ったことでしょう。この先どうなるの、死んじゃうのと、不安と恐怖におののいた事でしょう。

しかし、Jさんは進化してゆかれました。未来の不安はある。過去への後悔もある。でも、大事なのは生きている今。今、自分はどうしたいのか。何がしたいのか。何が出来るのか。それなら勇気を持って今、それをしよう。彼女はそうして生きて生きて死んでゆかれました。今に自分の願いを生きる。その人生こそが、自分らしい人生の創造。それが今を生きていると言うこと。

Jさんの言葉が今も私の脳裏に響きます。

「待っててね。私が治るまで待っててね。」

自分の人生を信じ、たとえどんな病魔に襲われ苦しくとも、自分はそれに負けない。私は自分の足で立って歩く。私はそう生きるからと、宣言した彼女の言葉だったと信じています。
きっと、今ではご家族が、ご位牌の前で同じ言葉をJさんに誓っていることでしょう。

「あなたの分まで生きて帰るよ。・・・待っててね。私が逝くまで待っててね」と。

追伸:
彼女が本当の彼女になるに連れて、ご家族も本当のご家族へと進化してゆかれました。一つになってゆく家族は美しい。Jさんの役割の一つだったんでしょうか。これからは、このご家族に、幸あらんことをお祈りいたします。きっとJさんの願いだろうから。

当院の金親医師はエールを飛ばします。

「私たちはチームです。病気は治ります。でも、病気を治すだけが目的じゃなくて、今をしっかり自分らしく生きること。それが主の目的です。そこにきっちりフォーカスして生きましょう。」