コラム

リベンジコンサート

船戸崇史
「私はいつも前向きです・・・」頚椎カラーと胸部と腰部もコルセットに包まれた彼女にリベンジコンサートの話をしたときに、彼女から帰ってきた言葉です。この言葉が、彼女の人生の象徴のようです。この言葉が、彼女の信念であり、彼女の生き様そのものでした。きっと、沢山の可能性と喜びを与えてくれたこの信念は、同時に沢山の苦しみも生んできたのでしょう。今日はその話をしましょうね。

Iさん
Iさん。享年48歳。平成17年2月検診で異常を指摘され、精査のため受診した市民病院で肺癌と診断されました。同3月4日には右肺の半分以上を切除されました。しかし、この段階で既に胸水からは癌細胞が検出されていたのです。つまり癌は思いのほか進展している証拠でした。その為、術後抗がん剤治療が行われましたが、同年8月くらいから徐々に腫瘍マーカーが上昇しはじめました。しかし、これは想定内の出来事でした。そしてついに緩和ケアの目的で9月21日当院を紹介され受診されました。
初診時は、今後の人生への不安と若干のうつ傾向がありましたが、当然のことでしょう。しかし、年齢から私と同級生だということが分かると、外来でもひときわ身近に感じて頂いた様で、診療中は会話も弾みました。
いつも私は、癌には癌になる原因があり、其れを探り分かったら勇気を持って変更する、そして変更できた分、運命は変わると話してきました。Iさんは、治すためには持ち前の信念どおりいつも前向きでした。そして当院で提案する、枇杷の葉温熱療法、気功、機能性食品などホリステックな治療法に積極的に取り組まれたのです。

癌の原因
その途上で彼女はご主人との関係を振り返られました。彼女の口からは、ご主人に対する不満な思いが聞かれました。「分かってくれない」・・・と。しかし、もとより、いつも前向きの彼女の言動は当然ブレーキをかける人が必要になることは明白でした。勢いその役柄はご主人が担当され、Iさんから見れば、いつも反対するという不満を募らせたのだと思います。彼女との対話の中で、わたしはこう話しました。「癌の原因の多くはストレスです。ストレスとはIさんの不満であり、その不満の原因は、本当に『分かってくれない』ご主人でしょうか?ひょっとしたら、『分かってくれて当たり前』と思っているIさん自身かもしれませんね?行け行けどんどんのあなたを、心配されるからこそ留める必要があったのです。ご主人は、あなたの“妨害”者ではなく、寧ろあなたを守る“保護”者だったかもしれませんよ。」
しかし、Iさんにはそう思えませんでした。「人生はいつも前向きに生きるべき」という信念は「常に前向きに生きている自分に否はない」と言う自信に繋がりかねません。
しかし考えてみれば、人生、常に前向きほど辛いことはありません。当然辛いといって弱音を吐きたくなることもあります。しかし、彼女の信念は其れを許しません。きっと、ついついそんな自分を叱咤し責めていたことでしょう。そして、時には、「常に前向きに生きられないなら生きている価値はない」とまで思っておられたかもしれないのです。これが信念の危うさです。此の厳しさ。私は、この自分を許せない性格こそが、彼女の癌の原因であり、ご主人への不満の大本でもあったと思うのです。
そして私が思うに、大事な点は彼女の信念の「前向きさ」でなく、「常に」という所だと思います。ゴムも引っ張ったままでは切れます。伸縮している状態が一番長持ちするのです。心臓のように。加えて、Iさんが「そう思い込んでいる」ところです。なぜかは本人すら分からないのです。
この様に、我々の回りには自分の信念にがんじがらめになって、心の中で呪文を唱えている人が如何に多いことか・・。そして何時か心の緊張は切れ、それが病気と言う形で発露してくるのです。
こうして対話を繰り返してゆく中で、Iさんはこの言われなき呪文に徐々に気がつかれてゆかれました。そして不思議と、そういう自分の考えが分かるにつれて、優しくなってゆかれたのです。自分への許しが始まった瞬間でした。そして、ご主人とも関係にも変化が出てきました。
ある時、ご一緒に、コンサートへ行った写真を外来で見せてくれました。「いい顔して映ってるでしょ!」と写真を自慢げに見せてくれた彼女の、何とも屈託ない至福な笑顔が印象的でした。この笑顔こそがご主人との再結の証だったのです。
しかし、Iさんの病状はゆっくり進行していきました。

重なる試練
今年H19年1月ころより股関節の痛みが出現。骨転移からでした。除痛目的でのモルヒネが開始。その後、吐き気が強くなり、経口摂取が困難になり体重も減少して行かれました。ついに5月25日、突如の異常行動や自傷行為のため救急で市民病院へ入院となったのです。そしてその原因は脳転移であることが分かってゆきます。病院での適切な治療の甲斐あって、Iさんは再度元気を取り戻されました。食欲も改善し、持ち前の元気さが出てきたのです。人間元気になるにつれて欲が出てきます。そうでなくとも前向きのIさんには夢がありました。松田聖子のコンサートに行く事。この夢が彼女の生きがいになったのです。しかし、病状の安定は医療行為の上でした。彼女の願いとは裏腹に、精査が進むにつれ、酸素吸入が開始され、骨転移による圧迫骨折予防のためのコルセットが装着され、加えてベッド上絶対安静となったのです。
こうして、夢だった松田聖子のコンサートは、キャンセルされました。前向きさは、こうした自分を否定し始めていました。お見舞いに行って、私は何か目の前に生きる目標が必要だと思いました。きっとそれが生きがいになる。だからこそ、6月30日~7月1日に高山で開催される日本ホスピス在宅ケア研究会高山大会参加は、彼女の格好の努力目標となると思いました。飛騨丹生川の千光寺住職の大下大円さんが大会長を務めるこの大会は、年に一回のホスピス系の大会で、2000名ほど集まられる大きな研究会です。ホスピス系の大会では始めて取り入れられる部会としての代替療法は、地元でもあることから当院が担当させていただくこともあって、私も高山へは必ず行く事になっていました。医療のサポートがあれば、Iさんは高山へ行けるのではないか?そして私は言いました。「一緒に高山へ行こう」と。Iさんは喜ばれました。しかも市民病院の主治医からは、医療者が同行するなら、行けないことはないのではないかと許可されたのです。
もとより前向きなIさんは、夢を膨らまし始めました。大会プログラムから、プロのフルーテイストのイネセイミさんとピアニストの渡辺一世さんのコラボレーションであるヒーリングコンサートは特に楽しみにしておられました。
早速、Iさんの高山ホスピス大会出席のための実行委員をクリニックから選出し、実施に向けての準備が始まりました。市民病院から高山まで高速道路で3時間、この搬送準備や最寄の医療機関のチェック、そして想定できる緊急事態での対処方法などが検討されました。同時に、此の旨は、高山の大会実行委員にも伝えられ、高山到着後のホテルでの酸素の準備や車椅子の手配、加えて、移動動線、緊急時の救護体制まで全て準備は整いました。流石は、医療系の大会です。あとは、Iさんを待つだけです。ただ、急遽決まったことだけに、ご主人は参加できず、3人いる子供さんも長女だけが参加できるとの事でしたが、この際、大事なことはIさんの体調です。願いを成就するためには今のタイミングを逃す訳には行かないのです。
しかし、運命とは非情なものです。あれほど楽しみにしておられたIさんは、出発前日昼より急に体調を崩され、極端な呼吸困難をきたされたのです。大会参加どころか、命すら危険な状況に陥られ、酸素は10Lを超えて吸入され、緊急処置がなされました。そして、結局、今回の高山ホスピス大会も、またもや夢と流れたのでした。何という事でしょうか・・・。
今回の中止判断は、Iさんには決定的なダメージでした。「もう、駄目だ・・・」と思われても致し方ない状況だと思われたことでしょう。
私は高山へ出発前日、本人に会い「大会が終わったら来るからね・・」とだけ伝えましたが、何とか大会中は命があることを願いました。
大会は盛況のうちに終了しました。大会のendingをイネさんのフルートと渡辺さんのピアノの演奏で「千の風になって」を会場と一つになって大合唱しました。ホスピス系の大会のendingとしては、余りにもぴったりの選曲だと感心しながら、わたしも思いを込めて歌いました。「…死んでなんかいません・・」というフレーズでは、なぜか今まで看取らせていただいた多くの縁ある方々の顔が去来しました。まだ私の心の中では生きておられるのです。そして、なぜかIさんの笑顔までも。

生きがいを求めて
その翌日、早速私はIさんを訪問しました。彼女の病室は、大部屋から個室へ移されていました。そこでは、大量の酸素の中で彼女は生きていました。私を確認すると、「ああ、先生、お帰りなさい・・」と、小声ながらも以前と全く同じ眼差しで話してくれました。ほっとしました。頚椎カラーと酸素マスクで話しずらそうではありましたが、彼女からは「もうだめ・・」というnegativeなエネルギーは一切感じられませんでした。凄いことです。
毎日が同じ病室の天井を眺めている人生。人生に前向きだからこそきっと現状を辛く感じていたことでしょう。しかし、彼女自身、一体此の状況で何が出来るというのでしょうか?私はできる事なら、今回の大会で彼女が最も楽しみにしていた、コンサートを何とか実現したいと願うようになりました。リベンジ(雪辱戦)です。私は早々ご家族に相談しました。現状でその様な体力があるのかと訝しくも思われたでしょうが、あまり時間がない事も確かでした。家族は出来ることならと了解されました。
当院ではかねてよりアーテイストをお呼びして、様々なコンサートを開催してきました。ですから、当院での開催には問題ないと判断し、今回のフルーテイストのイネさんにも協力して頂き、リベンジコンサートを企画したのです。
問題は、Iさんの10Lという酸素流量でした。現状の流量を市民病院からの道中やクリニック内で確保することは困難でした。困りました。こうなったら、場所を移動しない。つまり市民病院の中でコンサートを行うしかありません。そこで、思い切って「病院の中でコンサートを開催していただけないか」と主治医と部長先生に相談したのです。きっと、こうした取り組みは市民病院では過去に例がなく、また一個人への対応として特別な対応になるとか、不慮の出来事の責任の所在がはっきりしないなど、種々問題はあったと思います。しかし、部長さんは、「私はかつてドラマーでしたし・・何とかしましょう・・」と、引き受けて下さったのです。素晴らしい事です。こうして、市民病院初めての、そしてIさんの人生最後の「リベンジコンサート」が予定されたのでした。

リベンジコンサート
7月13日、当日は市民病院の関係者や当院のスタッフなど大勢詰め掛けてくださり、午後6時より開演。全くリハーサルも予定もない行き当たりばったりのコンサートが開催されました。しかし私は何も心配していませんでした。いつもですが、目的だけ抑えていれば何とかなるからです。もとより、此の生きがいリベンジコンサートの目的は、Iさんの夢の実現とご家族への激励です。残された生きれる時間の限界までをどう生きるか・・それを家族と同じ時間を共有し、想い出を作る。いずれ誰もが帰らなければならない日が来ます。その時に持って帰れる物はきっと思い出だけ。だから、家族で同じ時間を共有する。そしてこの日は、家族全員が集われたのです。長女はピアノの講師なので、ピアノ演奏。弟君は司会もし、ボーカルもベースも何でも出来る自称アカペラ歌手。それをベッドを取り囲んで家族で鑑賞。特に、Iさんの娘や息子を見る眼差しは、嬉しそうでした。Iさんは病状を全て知って、あまり時間のないことも十分すぎるほど知っていました。きっと、娘や息子の雄姿を家族に囲まれて見ている今の時間は、取分け特別だったに違いありません。2度とない時間だから。きっとこれが最後になるかもしれないから・・・。
その後、高山ホスピスで1400名の大ホールで披露してくださったフルーテイストのイネさんも駆けつけてくれました。Iさんのリベンジを応援する為でした。フルートの音色は格別で、病院全体は一瞬にして癒しの空間となりました。まさにあの世とこの世を結ぶメロデイーとも思えました。
この間も、先生方や病院スタッフは酸素残量をチェックしたり、ボンベの交換などやはり病院ならではのコンサートの風景となりました。始めは戸惑い気味の息子さんのトークで始まったコンサートもあっという間に時は過ぎて行きました。Iさんは一杯の酸素と一杯の愛に包まれてたったの1時間でしたが、まさにリベンジ果せたコンサートとなりました。
時間が来て終了の挨拶は印象的なものでした。Iさんの口から出た言葉。「私は幸せ者です・・・こんなに幸せでいいのかと思うくらいです・・・これからも末永くお願いいたします・・」皆握手しました。皆ハグしました。暖かな言葉のエールが飛び交いました。
一杯の記念写真が撮られました。ベッドの中で、酸素マスクをつけてですが家族揃っての記念写真でした。
この時の笑顔、握手はIさんにとって、この日参加してくれたボランテイアの皆にとって、そして、市民病院にしても記念すべき日であったと思っています。市民病院では、こうした最期の最期まで、その方を生きがいを持ち生きることをサポートするイベントが始めて開催された日。Iさんを知る人の最後のお別れの日。そしてIさん家族が一つになった日。
私は、なぜ高山へ行けなかったかの意味が分かりました。今日の日のためだったのです。高山へは家族が揃う事が出来なかった。今日の、家族揃っての写真のように、一つになる時間は既に準備されていたのです。
この3日後、16日の夜6時58分、Iさんは家族に見守られて永眠されました。
享年48歳。最期の最期まで、希望を持ち続けたIさんの人生はこうして終焉したのです。

生きるために共に生きる
人はいずれ死にます。それは、鉄則でありながら、しかしそれは「まさか私ではない・・まさか今ではない・・」という猶予感覚を持っていないでしょうか?一番猶予感覚を持つ状況とは、皮肉にも我々が最も望む状況、つまり健康な時です。私たちは日ごろ健康を望みながら、しかし健康の最中にあって最も遠いのが生きているという感謝の自覚かもしれません。大丈夫という慢心なのでしょうか。今、私達が健康である時、こうした命がけで今を生きている人の気持ちが最も分かり辛い場所、最も遠い場所にいるのかもしれません。だから、心して欲しいのです。「人はいつかは死ぬ・・そう私もあなたも」だから、大事なことは、治せなくなってからも生きなければならない状況であっても、私たちは死ぬために生きているのではない。生きるために生きているし生まれてきた。ならば、治らない状況であろうがなかろうが、最後の最後まで傍にいて励ますということ。「私はあなたと居るよ~」って「逃げないからね~」って、そうお話しするだけで、人は嬉しいと思うのです。その気持ちに応えようと、生きようとされるのではないでしょうか。そして、その諦めない生き方は、遺された者の生き方へと受け継がれます。親のようになりたいと。もともと、今の親を選んで生まれてきたのは、私たちです。その親の生き方が素敵だったからに他なりません。これをきっと本当の遺産と言うのでしょう。
コンサートの最期にIさんは言われた言葉「末永くおねがいます・・」。きっと、集われた皆さんに向けられた感謝の言葉でしょう。しかし、私には家族と1つになれた今の幸せが末長くあらんことを祈られたIさんの願いの様にも思えました。
きっと私の中でも末永く響き続けるでしょう。