コラム

本当に大切なもの ~天使になったKくん~

船戸崇史

開業して16年。在宅で300名を超える方々を見送らせて頂きました。癌から老衰まで、その殆どは成人例でした。そして、先逝かれた人達からは、等しく命のメッセージが遺されました。

私が感じさせて頂いたメッセージは「生き様=死に様」。つまり「人は生きたように死んで逝く」でした。だからこそ、今の生き方こそが最も大切であり、それは今自分が選択できる事でもありました。

しかし、今回、私たちにとって初めての「死に様」に遭遇しました。

死に様は生き様と言うには余りに短い生き様。意と知を閉じた命の1年と2カ月の人生。他人(ひと)の力と医療の力がない限り生きる事の出来なかった命。あまりに儚い命、そしてその人生・・・としか見えませんでした。
しかし、彼の生き様とその家族からは、「儚さ」とは裏腹に、あまりに深く強く大きく温かなメッセージが届いたのでした。恰も、人生の時間とは反比例の関係でもあるかのように。

人生、長生きが幸せなのか?五体満足だけが幸せなのか?

家族とは何か?絆とは何か?愛とは何か?生きるとは何か?命とは何か?

今回は少々長文になりますが、彼の命のメッセージを、関わったわれわれ医療者側(医師・看護師)とお母様の手記から、是非読者の皆さんにも感じて頂きたいと思います。

Kくん

Kくんは3男として平成21年5月1日にこの世に生を受けました。生れて以来、Kくんは、病院のNICU(新生児集中治療室)から出た事がありません。生命維持ゾーンの狭いKくんには常時の監視が必要なためでした。

病名、水頭症性無脳症。生まれつき大脳がない病気でした。第3者的に観察すると、ただ、「静かに眠っているかわいらしい赤ちゃん」という表現がぴったり。
意図する脳がないからです。また、しばしば高度の筋過緊張による全身痙攣様の発作があります。こうした時には、筋肉の緊張を和らげる薬を鼻管から入れて対応します。 呼吸や心臓機能に問題はありませんが、痰の量が多く、頻回の吸痰行為を必要としました。しかしあまりに静かな時には、常時装着された酸素分圧モニターの数字と心音だけが彼の生存の証です。 そうでなくては、いつ異変が起きるか分からないし、小さな異変もKくんには命をかける事態になりかねないからです。 食事は鼻管から母乳と人工乳が交互に注入されています。重要な母親との絆のエネルギー源でした。

Kくんの家族は優しいお父さんとお母さん。それと2人のお兄ちゃんがいます。家族の住む家と病院とは、車で1時間以上はかかる距離のため、母親のSさんは、自宅と病院を往復しながらのハードな生活が始まりました。 そしてふと気が付くと、Kくんの1歳の誕生日を病院で迎える事になったのです。

この1年の間、母親の中には持ち続けた願いがありました。「Kも家族。家族なら、一度は家へ帰り家族で過ごしたい。」至極当然の願いでした。 しかし、あまりに医療依存度の高いKくんには、家族の覚悟と対応するかかりつけの医療機関が必要でした。 当院は決して小児が専門ではありませんが「在宅で療養したい人」をサポートするのが当院の願いであることから、当院へ在宅ケアの依頼が入りました。

私は、今回病院で開催されるKくんの合同カンファレンスに臨み、受けさせて頂くか否かを決定する旨を伝えましたが、当院の訪問看護師は、もう既に覚悟は決まっていたようでした。

平成22年5月27日合同カンファレンス。それがKくんとの初めての出会いでした。

ここからは、当院の同行して下さった中川医師の手記にて紹介にかえさせて頂きます。 先生は驚愕の目でKくんを感じられます。その深く霊的な思いは心の中の呟きとして吐露されています。きっと同行した全てのスタッフも同様だったのではないかと想像するのです。


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【出会いと経過】

H22年5月27日、**医療センターNICUで、Kくん退院のための合同カンファレンスが行われた。院長とクリニックスタッフとともに私はいろんな心配と質問を胸にそのカンファレンスに臨んだ。

医療センターの主治医から、これまでの経過を聞きながら半分思っていたことは、無脳症といってもKくんは、ここまで存命しており、ご家族も連れて帰りたいと思うほどなのだから、ある程度は脳の機能が残っており、発声、表情というものによって若干の意思表示やコミュニケーションがあるのだろうと想像していた。

しかし、病院主治医の説明が続く中で、補助呼吸が必要となることがあること、頭蓋内圧を下げるためにシャント手術をしたこと、髄膜炎などの感染症で何度も生命の危機があったが、それらを乗り越え何とか今は安定している状況になったことを聞いた。ただそれは決して今後が安定しているわけではないことを示唆していた。

そして最後にKくんの頭部のCT写真とシャント手術のために撮られた内視鏡の写真を見せてもらった時、正直驚愕し、混乱した。そして、わたしが先に想像していたようなコミュニケーションなど決して望めるものではないと思った。 この時、まだ私は直接Kくんとは対面していなかったが、検査画像上、私のみたところ、頭蓋骨はあるもののその内部は液体で満たされ、脳と呼べるのは全く指摘できなかった。
特に内視鏡の写真では頭蓋骨の内側から写しているのに、頭蓋骨の内側の壁が写っているのである。これは脳がそこに存在せず、本来脳を守るはずの頭蓋骨が殻としてだけ存在しているという状況を示唆するものであった。 私の混乱は続いた。何ということだ。これでは医学的に考えると人間と呼べるのだろうか?・・人間の形をした人形?・・こんな状態で生まれてきてかわいそう?・・いや脳が無いのだから本人はつらいとは感じていないだろう・・ あっ、でも脳が無くても魂はあるかもしれない・・魂があるとすればこのような身体を選んできてよほどのチャレンジャーだなあ・・でも脳がなければ魂とも繋がることができないかもしれない・・ いったいこの子がここに在る目的、意味は何なのか?・・Kくんのご家族は、Kくんがこのような状態であることは胎児の時から知っておられたとのこと。 様々な苦悩はあったと想像するが、それでもKくんのお母さんは生むことを決意し、今度は家につれて帰ることを決意された。 すべてわかっていてそうすることを決意された。お母さん自身がそう思ったかはわからないが、私には“すごい試練”を決意されたと感じられた。

【Kくんとの初対面】

主治医のプレゼンテーションが終わり、いよいよKくんと対面することになった。NICU(新生児集中管理室)に入って、私はまた何ともいえない感覚になった。 そこには飼育箱のような保育器がいくつも並び、生体モニターの音が鳴り続けていた。入った瞬間、そこは非常に無機的でまるで ”赤ちゃん工場”のようであると感じたが、保育器の中を覗いて私のその印象は変わった。 その中には低出生体重児として、あるいは障害をもって生まれながらも必死で生きようとしている小さな命がそれぞれ懸命に動いていた。 保育器の中の子たちは身体に管やモニターをつけられながらも必死に小さな手を動かし、目をぱちくりさせ、生きようとしていた。 そしてこの子たちの将来の無限の可能性を支え、守るために働く医療スタッフ達・・ここは西洋医学の本領発揮の場所の一つであると感じた。

このような思いを胸に、主治医の案内を受けながらNICUの中でしばらく歩を進めると、保育器でないオープンなベットがあり、そこにKくんはいた。Kくんは静かに横になっていた。 私の想像ともかなり違って、大きくしっかりとして愛らしい“外観”をしていた。鼻に栄養と呼吸のための管がはいっているものの、普段“赤ちゃん”を見慣れていない私には、ふつうの子がただ寝ているように見えた。 しかし、私の中で、先ほどのCT・内視鏡写真の衝撃は大きく、Kくんのあのしっかりとしてみえる頭蓋骨の中には実は脳がないことを思うと“姿”ではなく“外観”という表現が頭に浮かんでいた。 そして、そのような状態でも生かすことのできる西洋医学の凄まじさを思っていた。ここでまた私の中で混乱が頭を持ち上げてきた。このようにKくんを”生かす”ことはできても”救う”ことになるのだろうか・・ではKくんを本当の意味で救うには?・・ 退院して家にもどり、私たちも在宅でかかわることでその答えの一端がわかることになるのだろうか・・この時はまだ、これが私とKくんとの最初で最後の出会いになるとは思っていなかった。

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退院

カンファレンスが終わるころ、当院のスタッフの顔には一様に覚悟の顔色が笑顔になって現れていました。もはや、だれもが自宅に帰してあげたいと願っていました。しかし今から思えば、Kくんに了解させられたのかもしれないと思いました。

6月19日、退院。NICUの病棟ナースからは、退院を祝し卒業証書が渡されました。そして退院は主治医の先生も同乗され、無事我が家の門をくぐる事ができたのです。生まれて初めての帰宅でした。 どれほどの喜びがご家族にあったことでしょう。我が家に初めて家族全員がそろったのですから・・。

しかし、帰宅してからは穏便ではありませんでした。
まず安定した体位が決まらない。また、筋弛緩薬が切れかかると、喘鳴がひどく痰が増え、急激に酸素分圧が低下しました。退院時指導で、吸痰を教えてもらった母親のSさんの手際の良さは流石でしが、 この発作が夜間、数時間に及ぶと窒息させてはならないときりきりの緊張感と寝不足でSさんの体力は極端に消耗してゆかれたのでした。しかし、Sさんは弱音を吐きません。
苦しいのはKだと、一生懸命世話をされたのでした。

最終的には、薬物でしかこの喘鳴を伴う痙攣発作は改善が得られませんでした。しかし、この反応は反射であって、痛みや苦しみを感じる大脳がない以上、Kくんが本当に苦しんでいるのかは分からないのです。 理屈では、Kくん自身は苦しくはない筈でした。もし本当にそうなら、実はこの現実に最も疲労困憊するのはSさんご自身でした。(それなら、痙攣発作を止めるために薬物量を増やすなりして、Kくん自身をもう少し深い鎮静状態に持って行った方が、ケアが楽ではないか?) とそう思った私はSさんに率直に聞いてみたのです。「お母さん、Kくんが辛そうだから、良かったらもう少し鎮静を進め、Kちゃんを一日中寝てもらう事も出来ると思いますが・・その方が双方が楽では・・?・・・お母さんの方が介護疲れで倒れませんか?」 この時のSさんの返事は忘れられません。「Kの吸痰は苦痛ではありません。あまり頻回では可哀そうですが、全くないのも・・・」でした。

私はこの時、気が付きました。
この命をかけて集中する吸痰行為こそ、母親としてKくんへ全身全霊をかけるコミュニケーションだったのです。 薬でそのチャンスを奪ってはならない・・・とそう思いました。しかし、「適当な吸痰行為」とは難しいものだとも思いました。

最期の時

7月15日、金親医師往診。言葉を超えたコミュニケーションツールであるオイルマッサージでKくんと交流されました。この時の状況を先生は以下のように回想されています

「Kくんと初めて逢った時のこと、とても強烈な印象でした。その日は、Kくんは痰がからみ呼吸状態が思わしくなく、脈拍は160~200/min前後している程でした。 彼に挨拶をし、触わらせてもらおうとした時、「触るな」と、叱責を受けた様に思いました。それで心を鎮め、手を洗い清めてから、もう一度触れようと試み、今度は「宜しい・・・」と許可を得ました。 以前、私は重症心身障害児の施設医をしていましたので、同じ様なことは体験済みでしたが、やはりKくんは、圧倒的な存在でした。」

そしてカルテには「しばらくはそれなりに安定した状態が続くであろう。K君も馴染んできたと思われる」と記されたのでした。

しかし、最後の時は余りにあっけなく訪れました。

その3日後の7月18日、午後4時35分。
「酸素分圧が低く77~80%で上がらない。」
との連絡を受けました。しかし、痰もなく痙攣もない。酸素分圧以外は問題がないように見えました。
抗生剤の指示を貰う為にこの状況をNICUの担当医師に相談したところ、良くない状況である可能性があると指摘され、結局救急車での搬送となったのです。しかしこの日が、Kくんにとって在宅最後の日となったのでした。

Kくんは、早々入院し点滴治療が開始されましたが既に敗血症となり、治療は極めて難渋しました。

そして僅かに2日後、7月20日、午後7時45分に愛する母親の腕の中で眠るように昇天されたのでした。

享年1歳2カ月。

余りに短く儚い一生であった・・・と思われました。

関わらせて頂いた当院のスタッフは皆この出来事に大変なショックに似た震えるような感動を体験させて頂いたと話してくれました。 ご両親やご親族の悲痛な思いを察すれば不謹慎かもしれませんが、以下に当院のスタッフの手記を紹介します。


Kくんへ・・・スタッフの手記より

訪問看護師は、ほぼ毎日訪問しました。看護師にしてみれば自分の子どもと重なるのかもしれません。途中から、業務を超えた目には見えない交流がKくんやご家族とも始まっていたようでした。 不思議な事に、誰からも、Kくんへの深い感謝とKくんへの約束が強い決意とともに語られました。Kくんは何も言っていないのに・・・。

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小寺訪問看護師長

Kちゃんの事 ずっと忘れないよ。Kちゃんが旅立った日7月20日は私の誕生日だよ。

4月、Kちゃんの退院後の在宅ケアについて問い合わせがあった時、Kちゃんの病状や状況を聞いたんだけど、びっくりしつつも全く受け入れる事に迷いはなかったよ。

5月27日 NICUでのカンファレンス これが初めてKちゃんと会った日。なんだかKちゃんからフワーッと温かいものを感じたよ。小さな小さなプクッとした真っ白な手が可愛かった。

Kちゃんのイメージはまる○ 大きな輪で色はオレンジ色。

毎日Kちゃんに会いたくて、看護師という役割を半分忘れていたよね(笑)

でもKちゃんママはすごいね。
どんなに吸引やケアが大変でも、絶対「つらい」なんて言わなかった。反対にいつもパワフルで笑顔を絶やさなかったから…。

ママが言ってた「もし、最期が来るならKを私の腕の中で逝かせてやりたい」って気持ちKちゃんもそう思ってたんだよね。

最期、Kちゃんはいつものように天使の寝顔のようで、小さなプクッとしたまあるい手が両手組まれていたね…。お別れだったね…(涙)

あの時触れたかすかに残るKちゃんの温もり。ずっと忘れない。

Kちゃん 私がこれから取り組まなければいけない事 沢山あるよね?

Kちゃんを含めて今まで5人の小児と関わってきたけどその内3人は旅立ってしまったよ。でも家に帰りたい。家族と過ごしたいと願っている子供たちは沢山いるよね。
その子達の手助けが出来るように取り組んでいくね。

Kちゃん 大好きだよ。

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大橋訪問看護師

初めてKちゃんに会った日・・・太陽の様な笑顔のお母さん。
びっくりする位の優しい愛しいオーラのKちゃん。ただそこにいるだけで幸せをくれたKちゃん。 とても重い障害をもってうまれてきたとは思えない様な、明るいオーラのKちゃん。私も、ただただ愛しく、看護師というより、Kちゃんに会いにいくために訪問する毎日でした。

そして、Kちゃんをそんな幸せにできたKちゃんの家族もやっぱりKちゃんに選ばれた家族だね。出逢えた奇跡。必然かな。出逢えただけで、私も本当にありがとう。

今は、お別れだけど又逢えるよね。私もKちゃんみたいにそこにいるだけで皆を笑顔に、そしてすべてを乗りこえ、うけとめられる存在になれるかな。

スーパーマン Kちゃん。ずっと心で覚えてるよ。
いつか、きっと、またね。

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宮田訪問看護師

Kちゃんの家族は、お母さんも素晴らしいけど、お父さんも2人のお兄ちゃんも素晴らしかった。お父さんは、訪問の時は会ったことはなかったけれど、お母さんが「主人がKちゃんをお風呂に入れる事を楽しみにしているんです。」 そのことを話すお母さんは本当に嬉しそうで、家族でお風呂に入っている姿が目の前に映し出されるくらい幸せが伝わってきました。 2人のお兄ちゃんもKちゃんを本当に大事に思っていて、とくに長男のお兄ちゃんは、「Kちゃんは、朝と夜がわからないから絵を描いて教えてあげるんだ。」と描かれた2枚の絵。1枚は、青い画用紙に太陽と悠々と飛んでいる飛行機。 そしてもう1枚は黒い画用紙に黄色いクレヨンでお星さまがたくさん描かれた絵。大人では全く気がつかない子どもの世界。Kちゃんを愛おしく思う気持ちがぐいぐい伝わってきて今まで味わった事のない感動でした。 「家族で支えあって生きる。」当たり前のことなのに、日々の生活で誰もがしている事なのに恥ずかしいけど実感がなかった。Kちゃんの家族に出会うことで、家族がいる事の幸せを教えてもらいました。

Kちゃんの家族にとってKちゃんの誕生は人生観を変えてしまうほどの変化だったと思います。妊娠8カ月の時に知った障害。

「このまま赤ちゃんはどうなるんだろう?私はどうなるんだろう?家族はどうなるんだろう?」という不安の中で決心した出産だったけれども、今思えば、Kちゃんは最初から生まれてくる事は決まっていたんだと思いました。 Kちゃんはお腹にいた時から家族を幸せへ導こうと家族の心を育ててきたのだと思いました。こんなこと言っては不謹慎かもしれないですが、Kちゃんの引き際は「カッコよすぎる。」と思いました。 夕日が沈むとともに全てをやりきった如く、それも自分にとって大切な人を全部集めて「さよなら」をして逝った姿は「生きる」ことの意味を教えてくれたように思います。

またKちゃんとKちゃんの家族に出会ったことで自分の家族と照らし合わせ、私にも乗り越えないといけないものがたくさんあることも気づかされました。 思うように進んでいかないことに苛立ちを感じて逃げ出したいと思っている自分がいました。どんなにつらい状態であってもKちゃんのように心から家族の幸せへと導けるように私も前向きに歩いていかなければと教えてもらいました。

Kちゃんの家族、そして「大将(Kくん)」に感謝です。ありがとうございました。

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戸田訪問看護師

今頃Kちゃんは天国で何してるかな?元気してるかな?そんなことを毎日想う。
Kちゃんに会いに行くことが楽しみだった私。

いつもKちゃんに会いに行くと1時間なんてあっという間だった。次の患者さんのところへ行かなくては!!と思っても中々足が進まず1日中いや毎日ずっとKちゃんをみていたかったと思いながら「また来るね」と帰っていったのを覚えている。
Kちゃんは癒しの存在であった。Kちゃんは、自然に元気をくれ笑顔をくれて頑張れと言ってくれた。

そんなKちゃんが、こんなに早く天使になるなんて思ってもいなくて、今だに夢をみているかのようだ。 もっともっとKちゃんと触れ合っていたかった。まださっきKちゃんと会っていた感じの思いが残っているくらい大事な存在だった。

しかし、Kちゃんが旅立った朝の素顔をみたとき、Kちゃんの生き様はかっこいいと思った。お母さん、お父さんを選んで生まれ、沢山の愛情の中で精一杯生き抜いた。
宝物である。

Kちゃんを生んだお母さんにも尊敬する。障害や病院を受容するにも多大な精神力を要したと思うが、人目とか気にせずKちゃんを愛しKちゃんを誇りに思い我が子を神様のように育てた。その姿は、私にとって人生の鏡としたい生き方だ。

Kちゃんは強かった。Kちゃんみたいに精一杯生き抜いていきたい。どんな壁に、ぶつかってもどんな試練にぶつかっても乗り越える強さを持ちたい。
Kちゃんと出会ったことに感謝する。Kちゃんの家族に出会えたことに感謝する。
ありがとう。運命の出会いだったよね。一生忘れないよ。

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金親医師

前略、K君が逝ってから、いやK君と出逢ってから、心の奥の方で、ずっと疼きにも似たものを、感じていました。

それが何なのか、明らかには分らぬままに、K君とお母様、御家族の方々への思いを辿ってみたく思い、筆を執りました。

医療に携わるということは、『おくりびと』になるということでもあります。僕たちは、多くの場合、言葉を介して、コミュ二ケーションを取っています。しかし、K君の場合、言葉すら交せず、意志の疎通も儘ならず、の状況でした。にも拘らず、何故か一番心に残る経験の一つだったのです。

K君とその御家族に出逢えたことを、心から感謝しております。僕は、「人生は旅」のようなものだと思っています。そして、人との出逢いは、一里塚のようなもの。 一つ一つの出逢い(一里塚)が、『今、自分が何処に居るのか?』を示してくれていると思うのです。

その点で、K君とI家(K君家族)の人々に出逢えたことは、「この道でいいんだよ。やっとここまで来たネ」と示唆し、励まされている様に思えるのです。改めて、K君とI家の人々を心から誇りに思います。心から感謝しています。

「障害を持って生まれてくる」ことを、昔の日本では、因果応報、前世の悪業の報いとするのが、仏教的な一般的な考え方でした。

例えば、こんな様にです。母親が子供に向かって“悪いことをしたら、あんな風になっちゃいますよ”と叱りながら、障害者を指差す。

一方で、障害者をエンジェル・チィルドレン(天使の子供達)と捉える考え方があります。魂が輪廻転生してくるならば、「誰もが望む五体満足」でない状態を、何故わざわざ選んでくるのでしょう?

それは、魂の成長の最終段階の魂達、もしくは、既に輪廻から離脱したが、何らかの目的をもって生まれ変り、この地球へやって来てくれた存在、と考える考え方です。 私は後者の考え方に賛成です。

7年間の施設医の経験で、多くの御家族が語ってくれた言葉です。

『この子が、生まれてきたお陰様で、愛することを知りました。』

『家族が一つにまとまり、優しくなれました。』

『生きていることに、感謝出来る様になりました。』 等々
こんな影響を、人々に与えられる存在って何んて凄いんだ!! そして、それをそのように受け止められる家族って凄い!! と思うようになりました。 以後、私にとっては障害を持った子供達は、エンジェル・チィルドレンになりました。

その中でも、K君の存在は際立っていました。一陣の風のように、一瞬の閃光のように、強烈で、鮮やかな存在となりました。

お母様からお聴きした、K君を通して出来たお仲間達との連がり(戦友?)、不思議な御縁のお話、そして、手記に接して、改めて想います。K君と、その御家族の皆様に感謝です。出逢う機会を頂いたこと、心から誇りに思います。

最後に、長男君の言った言葉が印象に残っています。

『Kちゃんは、おえらい様になっちゃったネ』この言葉が、すべてを語ってくれている様に思うのです。また、お逢い出来る日を、楽しみにしております。

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最後に、Kくんのお母様(Sさん)の手記を掲載します。実に母親だからこそ分かる、感じる、願う全ての言葉に心の芯からこみ上げるものを禁じ得ません。 果たして、私にこの選択が出来ただろうか?そこには、綺麗事では済まされない命がけの選択がありました。本当の絆とは?本当の家族とは?命の尊厳とは?次々と起こる現実はいつも本質を突きました。 まさに、乗り越える事が出来たのは「愛」があったからとしか表現しようがありません。どうか、お母様の軌跡を、自分の事として引き寄せて読んで頂きたく思います。

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圭*と生きた日々

(編集者註:「K」くんでは意が伝わらない為、仮名として「圭」くんを当てました)

平成22年7月20日、息子「圭」が息をひきとった。
1歳2ヶ月と20日。短くはかない命であったが、懸命に生き、純粋に愛すること、愛されること、生きることを実践した尊い一生であった。

出産までの日々

胎児の異常が発覚したのは妊娠30週の超音波検査の日。「性別が分かるかも。」などと安易な気持ちでいたのだが、医師の口が重い。
ぼそりと一言。
「まずいなあ。」
この一言でただならぬ事態を察知し、急に心細くなった。
「脳に異常があります。水頭症ですね。紹介状を書きますから精密検査を。」
事態がよく飲み込めず体が震え、意識が体から離れてしまうような衝撃を受けた。

次の日からも、朝がくるたび「夢じゃないんだ。」という現実であることの非情を突きつけられ、しばらくは生きた心地がしなかった。

障害がある子を育てていくという不安。今まで幸せをかみしめていた胎動が急に恐怖の対象となってしまった。
『受け入れる』これが出産前の私にとって最大の乗り越えるべき壁であった。まず頭で理解し受け入れる努力をした。人生訓や、格言などの本などを読みつつ、病気についての情報をひたすら集めた。「今まで無茶をしたとか、体に悪いことはしていないつもりだ。
だからこの命にはきっと何か意味があるのだろう。」と思い、頭では自分を納得させていた

目に見えていない分、不安で怖くて逃げ出したいと思ってしまうこともあったが、誕生するときには「ようこそ。」と言って迎えてあげたい、あげなければ。 と思うようにもなっていた。ただ毎日の感情はジェットコースターのようで、大丈夫と思う日もあれば、とたんに不安になってふさぎこんでしまう日もあった。

そんな毎日だったが、予定日の一ヶ月前のある日「大丈夫。生める。」と突然思い、大きなお腹と兄二人で写真を撮った。なんと次の朝、出産の兆候があったのだ。「私が受け入れる日を待っていたんだな・・・。」と思った。

NICU(新生児集中治療室)

出産は緊急帝王切開であった。帝王切開は意識がはっきりしている。だから生まれた瞬間も分かった。体が二つになる瞬間に何か伝えたいと思ったらメッセージが聞こえた。必死に私も心で答えた。

出産はとても静かだった。「おぎゃあ。」もなく「おめでとうございます。」もない。ただ遠くで新生児科DrのK先生が「がんばれ、がんばれ。」とやさしく声をかけていて下さっていた。「この子を救おうと応援してくださっている人がいる。私も前に進まなくては。」と思った。それからしばらくして小さな「あっ、あっ」と控えめな声が聞こえた。

NICUではたくさんの出会いがあった。同じようにつらい現実の中でもがきながらも前向きに必死で日々を過ごし、赤ちゃんと向き合っているお母さん。赤ちゃんだけでなく、親もまた傷ついている。親もまた患者のように心をケアしなくてはならない医師、看護師の皆さん。シャント手術に始まり、何度も髄膜炎や肺炎を繰り返し、生命の危機を何度も乗り越えてきた入院生活は1年2ヶ月あまり続いた。何も言わずに静かに耐える圭を心から応援してくださっていた。

圭の状態が落ち着き始めたころ、より安全を確保するために気管切開の提案がなされた。
これは本当に迷った。こんなに難しい問いがあるのかと思うほどだった。辛く厳しい問いであった。いろいろな人に相談したが、誰一人として明確な答えが出せなかった。

悶々としていた時、看護師長の夢に圭が出たそうなのだ。圭は「ぼくが決めるから、大丈夫だよ。」と言っていたそうだ。それからというもの、全く呼吸が安定しており、切開の必要性を感じなくなった。「切らない。切らなくてよい。」そう、決断できた。

不思議なことだが、圭が教えてくれた答えの気がする。今でもこの判断については一点の後悔もない。

看護師さんは親子ともどもかわいがってくださり、ともすると心が萎えてしまいそうなときにも支えてくださり、圭とともに生きていく覚悟をもつために必要な時間と場であったと思う。

退院するにあたっては、やはり危険が伴うが家族のもとへ帰らせてあげたいという病院の熱意もあって、退院への道筋を模索した。

その中で出逢うことができた船戸クリニックの皆様。
なかなか受け皿がなく途方にくれていたのだが、何かのご縁、お導きがあったのだと思う。

退院調整の方からHPを紹介された。

医療側の立場の方で、このような倫理観、お考えをもっておられることに深く感銘を受け、泣きながら読ませていただいた。本当にありがたかった。

退院に向けては吸引に始まり鼻注カテーテル交換、バギング、緊急時の対応、泊まりの付き添いなどを行った。
「圭ちゃんの主治医はお母さんだね。」と言われたりもした。

するべき治療がなくなったころには「とにかくつれて帰りたい。つれて一緒に暮らしたい。暮らさなければ。」と思うようになっていた。

その心境に至るまでの失意のどん底からの日々・・・。真っ暗闇の中から這い上がってこられたのは、やはり周りの人々のまごころによる支えがあったからである。

まず主人。とても辛かったと思う。仕事にも人一倍熱心な人なので、家庭を支えていくことと、私の心を支えていくこと、そして、家を守るためにも仕事もおろそかにできないという重圧があったかと思う。毎日圭の様子をたずね、私のこともいつも気にかけてくれた。私と主人は戦友だなあ。と思ったりもした。

そして家族。実の親もそうだが、主人のお父さんお母さんに受け入れていただけた事は救いだった。「困ったときはいつでも駆けつけるから。」この言葉が上の兄弟が気にかかる私にとって、とてもありがたかった。

しかし理解がある人ばかりではない。私の親族の中には、なかなか受け入れられず、時として傷つく言葉も言われた。何気ない言葉に腹が立つこともあったがそれは仕方がないことなのだ。 これは経験しないと理解できない感情だから、説明しても分かってもらえない。だから腹が立ってもその人を責めてはいけないのだ。と気持ちを落ち着かせた。世の中には悲しいけれどそういった差別の目は確かに残っている。 それが現実だ。それでもやはり救いの手、優しさにあふれているというのも現実である。

同じ悩みを持ちながら、お互いに励ましあえたNICUで共に過ごしたお母さん方は一生の友人となると思う。圭のことを自分の子供のように心から応援してくださったことを感謝している。 通夜のときなどたくさんの方が遠方から来てくださり、心から悲しんでくださっていることにつくづく私たちは幸せものだと思った。一人じゃない。圭が残してくれたご縁だ。

病院では医療の現実を考えさせられ、さまざまな角度から物事を見ることができ、知らなかった世界を垣間見ることができた。

また、以前なら早世しただろう命を、医療面でも経済面でも助けていただいた日本という国にも感謝したい。

退院の日には、心のこもった卒業式を開いてくださり、卒業証書までいただいた。感謝と寂しさと、なんとも表現できない「感無量」という気持ちを味わった。

ありがたいことに、家までの帰路に主治医が同乗してくださり、万が一の時の対応も準備してくださった。さまざまなお話ができ、誠実な先生にみていただけたことも感謝でいっぱいである。

在宅療養の日々

そして、船戸クリニックの先生方はじめ、訪問看護の皆様との素敵な出会い。私の人生観を鮮明にしてくださったと共に、圭の様子をつぶさに観察し、より心地よい生活を目指してさまざまなアドバイスをしていただいた。

まず、在宅にあたっては、どんなに大変でも私が倒れるまでできるなら、それはそれで本望だと思っていた。また、蘇生が必要な時、私が最後の最後まで命と向き合えるならばどんな結果になっても後悔しない。と思っていた。もちろん、その通りになっていたとしたら、今のような気持ちでいられるかどうかは分からない。

在宅での看護、といってもきれい事だけでは済まされない。家族全員でどこかへ出かけるというのは不可能であったし(お願いすれば可能かもしれないが、なかなか勇気がいることだ)、将来私が仕事に復帰できるのかどうかも全く予想ができなかった。ただ、家族で外出したいという欲が出てくるまでには期間が短かったこと、もう少し安定したら祖母に少しの間見てもらえるだろう、と思っていたこともあり、悩まずじまいだった。

また、仕事に関しては、育児休業が残っていたので、その間に圭の成長に伴って今より安定し、復帰できるかもしれない。もしそれができない状況なら、それはそれで一緒に過ごそうと思っていた。復帰できるにしろ、できないにしろ、それは見えざる力の導きによって答えがでるのだろう。流れに身を任せるしかない。だから今は先のことを考えず、今できることを精一杯するしかないと、思っていた。

「思いわずらうな 今を生きよ。」という言葉を何度も心に念じた。

在宅では病院で一日の一部を見るのと違って、24時間つきっきりで、果てしなく続く。

薬が切れてしんどそうなときは気が休まらないし、昼夜逆転してまとまった睡眠が取れないという大変さはあったが、昼寝などをしたり、看護師さんと楽しくお話をしたりしながら、心身ともにリフレッシュしていたので、思ったほど体の疲労はなかった気がする。

休日は主人と交代し、上の子供と過ごしたり、外出をしたりして心身ともに長期戦に耐えうるように工夫した。

なかなか眠れぬ日が続いたときに、薬を調整していただいたおかげで本人も私もとても穏やかで、無理をしなくてもよい安らぎの日々を送ることができた。また、毎日とても詳しくカルテを書いておられる姿を見て、圭の様子を把握してくださっているという安心感が心の支えになっていた。

とかく精神論で乗り切ろうとする傾向にあった私であったが、私たちの思いを汲み取りつつ、専門的な見地から薬の調整や早目の対応をしていただけたことがとてもありがたく、毎日を有意義に過ごすことができたのだと思う。

訪問看護の看護師の皆さん、どの方も心から圭をかわいがってくださり、私の体調も気にかけてくださった。毎日感謝の日々だった。

圭はお風呂が好きだった。家族みんなでお風呂のサポートをした。お兄ちゃんたちも、率先して仕事を見つけてくれていた。子供たちにも感謝している。

圭は、家族のメンバーになった。圭がいることが当たり前になった。しっかり家族のひとりとして存在していた。みんなが圭をかわいがった。

また、在宅療養中に教えていただいた本、価値観というのは、今後の私の人生にとっても大きな意味を持つものとなった。

圭が生まれてきた意味、生き方、死後について、確固たる信念ができたおかげで、今も落ち着いて死と向き合えている。

圭の最期

在宅になってからちょうど一ヵ月後、見た目はいつもと変わらないのだがSPO2が上がらない。とても楽そうなのでセンサーが壊れているのかと交換したくらいだ。

ただ、いつもと違うことは気になり、看護ステーションに相談することにした。
結局、救急車で搬送されることになったのだが、救急車の中では異常な数字と相反して目をパッチリ開けて穏やかな顔をしていた。

救急車が一般の車を止める。止まってくれる車を見て、「今、圭の命を守るために、みんなが協力してくれている。圭の命が最優先なのだ。」という事実に感動してしまった。そして7月18日夕方入院。低い酸素濃度とは裏腹に、あまりにも穏やかだったので一週間ほどで帰宅できるだろうと考えていたのだが、実際は内服で感染を抑えきれず、点滴を入れることとなった。しかし以前から言われていたように、大変難しかった。

19日夜には39度という、圭では見たこともない高熱を発熱した。夜中じゅう、アイスノンを交換し、ほとんど寝ることなく過ごした。これが圭と過ごした最後の夜だった。

20日、心臓外科の先生にも来ていただいて血管を捜していた途中で呼吸状態が悪化した。休憩して酸素が落ち着いてから再開しようとのことだったが、私が入室してからも結局回復の兆しはなかった。

先生は今晩いっぱいはもたせられるかもしれないとおっしゃったが、私には死が近づいている事を直感した。「したいことを全てしてあげなくては。」

まず、閉めてあったブラインドを開けた。やさしくて温かい午後の光が差し込んできた。「圭ちゃんがんばって。大丈夫。がんばれ。」そういい続けながらも、なぜか涙がでてしまう。死んでしまうことを認めたくないが、家族を呼ばなくては。まず主人を呼んだ。兄弟、家族を呼んだ。そして、圭を応援してくださった人の声を、圭が生きているうちに聞かせたいと思った。バギングをしてもらいながら携帯電話を圭の耳にあてる。携帯電話から大きな声で「圭ちゃんがんばれ!」と聞こえる。必死だった。

そうこうしているうちに日が傾き始めた。真っ赤とも黄金ともつかないあまりに荘厳な夕焼けを見て、「天からお迎えがきた。」と思った。「圭が生まれた星は、こんなにも美しいんだよ。」と、抱きながら夕日を見せた。後日談でも「あれほどの夕日はあまり見たことがない」と、いろいろな人から聞くことができた。

そして家族が到着して、みんなに抱いてもらった。私の胸のところに帰ってきたとき、今までどうしてもできなかった、そしてどうしてもしたかった、口での直接授乳をさせた。
圭の唇は少し冷たくなっていたが、ぽとりぽとりと母乳が口に入る。温かくて悲しい乳白色の涙のようだった。「甘いでしょう?」自己満足かもしれないが、圭が最後に口にしたものが直接の母乳だったということも、私の中では大きな支えになっている。

そしてお医者様方は外にでられ、家族全員がベッドの上に乗り、肩を寄せ合って圭を抱く。呼吸停止直前に、ずっと目を閉じていた圭が、目をしっかりと開き、私をじーっとみつめた。とても力強く、意思のある目で。「ママの顔を忘れないように覚えておくよ・・・。」というように。そしてゆっくり、静かに目を閉じ、心停止を待つこととなった。

午後7時45分。なんという安らかな旅立ちなのだろう。悲しいのに美しい。彼は精一杯生きた。とても立派だった。

最後に

圭は、私たち夫婦に愛の存在を気づかせ、人としての成長を図りながら、ひたすら生きること愛すること、愛されることを実践した人生だった。前世では、多くの人を愛し、人々を救った立派な人生だったのではないか。もしかしたら私も愛してもらった一人かもしれない。そんな魂が、私たちを親に選んでくれたのだと思うと、よりいとおしく、ありがとうという気持ちになった。また、最後の日の早朝に見た夢と、最後の日に読んだ本を関連付けて私に教えたこと。「心の目をもつこと。」目に見えているもので判断してはいけない。心の目で見ることで見えてくるものがあるということを教えられた。圭はそれらを伝えたかった。私がそれに気づいた日、圭の力が尽きた。圭は目的、役割を全うしたのだ。

人生には目的や役割がある、そして「死」が単なる恐怖ではないということ、無になるのではないということ。「生きがいの創造」「人はなぜ生まれ、どう生きるのか」という本に出会ったおかげで今、圭の死を穏やかに受け入れることができている。生前に読ませていただけたことに感謝している。

家での、やさしく愛に包まれた静かな時間。圭も私たち家族も、必死だったけれど幸せだった。お通夜も葬儀も、会場が空いていなかったからなのだが、家で葬儀ができてよかった。やっぱり圭は家が好きなんだね。

最後のお別れのときに心で会話を交わした。これは二人だけの秘密にさせてください。

1ヶ月ほど前に出会った絵本に素敵なメッセージがある。

「なくなったものは だれも いきているものの しあわせをいのっている ただそれだけを」

絶望のどん底でおぼれそうな時でも、ひとすじの希望の光は必ずある。それは前を向いて進もうとするものだけが気づくことができる光だ。

人の温かい愛であったり、自分の魂を磨くための気づきであったり、心の目を持てることであったりする。

決して一人ではない。必ず私を見守ってくださっている目に見えない力は確実に存在する。精一杯生きるものにのみ与えられる救いのヒントに気づかせていただける。理屈や宗教ではなく、不思議な体験やご縁を通して、体で学んだことなのです。

今は、どこにいても何をしていても圭が心の片隅にいる。けれどきっと時間と共に普段の生活になっていってしまうのだろう。けれど圭は私の中で生きている。圭が生きられなかった明日を、私は今生きている。圭がしたいだろうこと、味わいたかっただろうことを一緒に楽しみ、味わい、そして恥ずかしくない生き方をしたい。

圭と再び会うとき、堂々と会うことができるように。なんだか大きな宿題を出された感じだ。

私が年を重ねても、きっと圭をふと思い出す。美しい夕焼けに、星空に、夏の空を泳ぐとんぼに。

今もミルクの時間を携帯が教える。共に必死で生きた足跡を残して・・・・。

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こうして、Kくんは旅立ちました。

亡くなられた翌日、私は早速ご自宅を訪問しました。小さな白い紅葉の様な指は組まれ、小さな数珠が巻かれてありました。

頭元には、NICUを退院する時に看護師が送ってくれた卒業証書が、恰も人生の卒業証書のように飾られていました。

私は心の中で、「もう少し長生きは出来なかったのか・・?これでも順調な人生と言えるのか?」とKくんへ聞いてしまいました。するとKくんは、静かに微笑んで「大丈夫、極めて順調」と確信に満ちて返してくれたのでした。私は、心から「さようなら」と言いました。そして、心の中で「またね」とお別れを言いながら、その場を去りました。

Kくんは、関わった皆にとっての、鏡の様な存在でした。彼の存在自体が、ただある事だけで何も請求はしませんでした。それにも拘らず、在宅医療を実践して16年間、彼ほど雄弁に語りかけてくる存在はありませんでした。それは、自問自答だったのかもしれません。しかし、Kくんを前に、誤魔化しはききませんでした。

「貴方は一生懸命生きていますか?」

これが彼からの質問であり、彼からの私が貰った命のメッセージです。

Kくんの魂に深い哀悼の意を送ります。

Kくんありがとう。そしてご苦労様でした。

きっといつかまた逢いましょう。