東日本大震災に思う船戸崇史
未曾有の大天災 2011年3月11日東北地方太平洋沖地震が発生しました。沢山の命が運び去られ、町や文化、歴史が一瞬にして瓦礫と化しました。 ここに、被災された方々に心より深くお見舞い申し上げるとともに、今生のお別れとなった数多(あまた)の命へ心よりお悔やみ申し上げます。 テレビで何度も繰り返される映像を見る度に余りの痛ましさに心痛み、涙を禁じ得ません。 何かしなくては・・・という衝動が突きあげるのに、何も出来ない自分に不甲斐なさも感じます。 未曾有の大人災 一方、この未曾有の大天災とは別に、引き続き起こった福島第1原子力発電所(以下、福島第1原発)事故は、未曾有の大人災と言えるかもしれません。放射能被曝、放射能汚染問題。本来、被災地の地域復興を思えば、極力被災地の野菜や魚貝類を消費することこそが被災地域産業の復興支援だと分かりながら、放射能に汚染されたと聞けば購買意欲は削がれる矛盾。東京電力や政府は昼夜を問わない努力も空しく、何時になったら収束するのかという先の見えない閉塞感に不安が募り、生活がかかれば怒りに変わります。 原発問題は「未必の故意」。所詮、子どもの火遊びとなんら変わりはなかった事を認めざるを得ません。もとよりウラン(放射能)に責任はありません。今の人間がまだその扱いが出来ないに過ぎません。対応手段も知らないまま手を出した人間の浅はかさと強欲さ。 65年前、広島、長崎に投下された原爆。その後、癌(白血病や固形がん)の多発などその放射線による影響は未だ終る事はありません。広島(HIROSHIMA)長崎 (NAGASAKI)という名前は全世界に広がり、今ではただ単に「世界唯一の被曝地」以外に「原爆の廃絶」「不戦の誓い」「世界平和」の代名詞として語られるに至りました。 そして今回、私たちは、己の手でまた新たな火種を作った形になります。あれだけ安全が強調された原発。所詮神話でしかなかった。「未曾有」、「想定外」の言い訳で誰が納得できるでしょうか。全ての事故は全て想定外です。後世、世界言語になりつつある福島(FUKUSHIMA)は、どういうメッセージとなるのでしょうか? 岩手三陸地方の町々は、震度9の地震と40mにも及ぶ津波の被害は余りにも甚大で、壊滅的な被害を受けましたが、その瞬間を境に1か月が経過しようとしている今、道路が復旧し新しい電柱が1本、また1本と立ち始めています。新しい未来が始まっているのです。しかし、原発事故の福島はまだ終わっていません。いつ終わるかも分かりません。どう終わるかもわかりません。 一体こうした事態は私たちに何を呼びかけているのでしょうか?私たちはこの事態から何を学んだのでしょうか?これからどうしろと言うのでしょうか? なぜにこの仕打ちが・・ 過日テレビの映像で、一人の女性が映し出され呟いた一言が忘れられません。「・・・家も流れた。家族も皆流れた・・。生きているのは私一人、・・一人ぽっち」そして女性は泣き崩れました。 この映像を見た時に、私はかつて広島の原爆により、家も家族も失ったある女性の言葉を思い出しました。この女性は敬虔なクリスチャンでした。余りにひどい現場、状況に彼女は神に怒りにも似た気持ちを抱きながら訴えたのです。 「ああ神よ。あなたが本当におわすなら、投下された原爆を不発にする事も出来た筈・・それなのに、なぜにこの様なむごい仕打ちをされるのですか?何の罪もない私の家族がなぜ死ななければならなかったのですか?」 この問いに、もし皆さんが神なら何と応えられますか? 神はこう応えたと言われます。「その為に、私はそなたを地上へ送った」と。 神は地上の事を人間に託したと言われます。神の意思を顕現する者としての人間だからこそ、そしてあなたは原爆の恐怖、原爆の悲惨さを真に感じた人間だからこそ、その現実を変える力がある。神は、自らの子どもたちである人間に「己が手で原爆を作り出し、己が手で原爆を投下した。だから己が手で原爆を封印する。それがあなたたちの使命。」と申しているのではないでしょうか? 昨日のテレビで、津波で壊滅的な被害を受けた街の水産漁業組合のある会長が、その後やっと漁業を再開出来る状況になっても、福島第1原発からの放射能汚染水の海への放出に伴い、風評被害も加わりますます深刻な状況となった現状を、涙ながらに訴えた言葉が心に残っています。 原発は必然 まず、今回の原発事故から見えて来るものを私なりにまとめてみます。 そもそも、原発も増加する電力需要に応えた結果として登場した、資源なき日本での温暖化を助長する二酸化炭素も放出しない発電システムでした。今回の事故前は、この福島原発の恩恵を受けていた事をまず忘れてはなりません。今の私たちの高い生活水準は、これら原子力も多分に寄与しています。現在、原発反対のシュプレヒコールが再燃しつつあります。それは当然でしょう。しかし、原発も「私たちのニーズ」を満たす手段であった事を確認する必要があると思います。私たちが原発を必要としたと言う事です。そして事故のあった今、他の代替エネルギー源の模索は必要でしょうし、より安全な原子力技術の研究は大切でしょう。しかし少なくとも、事故発生への対応が原子炉へ水を掛けるしかないような、風向きに一喜一憂するような貧弱な防災体制では、私はまだまだ原子力を代替エネルギー源として触るレベルにはないと思いました。 現在日本に54機稼働している原発は日本の総電力の3割を担うと言われます。今後、さらに14機が新たに計画されていると言います。これの意味する所は、われわれのニーズの肥大化への対応手段としてです。今回の事故を受けて流石に政府は原発の新規工事の白紙撤回を決定しました。しかし、いつもですが、世論重視の政局ではそう言わざるを得ません。事態収拾後にまた「消費ニーズに追いつけない」「経済の復興活性」という玉虫色の言葉を使って原発推進が再燃するのではないかと私は懸念しています。 原発事故の教訓1 今回の福島原発事故での教訓。「原子力発電は、確かに二酸化炭素も放出がなく資源のない日本では魅力的なエネルギー源である事は理解した。しかし現代科学では放射能半減期数万年という廃棄物処理も出来ない、子子孫孫末代まで放射能汚染と言う負の遺産を負わせる可能性も高く、また地震大国日本にあってエネルギー資源としては活用は不適切である。よって、現在運転中の全原発は速やかに停止する必要がある」と私は思っています。その場合、我々の生活の電力の3割がカットされますが、政府や関係者はそのシュミレーション(計画停電など)を明示して、最終判断を国民に任す姿勢が重要。 もし、東海地震が、所謂想定外の規模で襲ってきたら、そして新潟沖で同じく大地震が起きたら、その時、浜岡原発は?柏崎原発は?敦賀原発は?どうなるでしょうか。 その時、「未曾有の・・」「想定外の・・」で済むのでしょうか? 皆さんは、少なくとも、東海地震、東南海地震は既に何時発生してもおかしくない、発生の周期に入っている事を知っていますか? (青丸は100km圏内を示しました。福島は200,300kmも表示してあります。皆さんの地域は大丈夫?今回は冬型の気圧配置が長く、岩手の被災者は暖もなく辛い避難所暮らしでしたが、風向きは北風が多く放射能汚染から守られました。天の采配かも?) 原発事故からの教訓2 では、今回の原発事故は、ただ脱原発だけが問われる事態だったのかと言うと私はそれだけではないと思っています。 私たちは根本的に「私たちのニーズ」そのものを見直す機会ではないかと思いますし、こちらの方が寧ろ重要な意味を持つと思っています。 生活の殆どがオートメーション化した現代、全てのスイッチに電力は不可欠です。スイッチを入れる(ON)というニーズが今までの日本経済発展には必要不可欠であったのです。右肩上がりの、もっともっとがON生活を支えてきたとも言えます。ON生活とは経済第一優先主義の生活と言う意味です。しかしこの生活スタイルが、電力需要を増加させ延いては原発という手段を具現化したと言えるのです。そのON生活スタイルに、今回の原発事故は「待った」を掛けたのではないでしょうか。スイッチONの前に、改めて「本当に必要か?」を問い、寧ろ要らないスイッチを消す(OFF)時が来たのではないかと私は思うのです。 OFFの時代になれば、確かに生活も経済も暗くなるでしょう。勿論、現代を生きる為に「経済」は大切である事は心得ています。しかし、「命」と「経済」のどちらが大切かという「序列」が問われているように思うのです。 今回の原発事故が私たちに問うている事は「足る事を知る、簡素に生きる」生き方の見直しではないでしょうか?私には「物の豊かさから心の豊かさへと次元を上げなさい」と問われているように思えてなりません。 経済第一優先主義のON生活から、命重視の幸せ優先主義のOFF生活への転換。 確かにお金がなくては便利快適な生活は困難でしょう。しかし、お金がなくとも生きられます。今こそ、便利快適と幸せの違いを見極める時ではないでしょうか? 便利、快適は幸せに似て非なるものです。 生きるため(命)に仕事(お金)をするのか、仕事(お金)のために生きる(命)のか? 一度良く考えてみて頂きたいのです。 原発が与えてくれたものは電気です。電気もお金で買えます。電気も商品です。ニーズがなければ商品は売れませんから作りません。そしてまずは危険性の高い原発は無くなるのです。そしてこれこそが、本当の脱原発ではないかと私は思うのです。 今回の痛みが大きければ大きいほど、変える勇気となります。継続する力になります。今後どう変わるか?全ては日本の未来の為なのです。今変わった分、間違いなく未来は変わるのですから。 原発事故と癌 今回の未曾有の大災害への復興作業が、私には「癌治療」に似ていると思えました。日本の国土を人体に例えるなら、まさに福島原発は「癌」に相当すると思いました。イメージだけで判断されると困るのですが、決して「癌」は悪ではありません。現在福島原発で命をかけて復旧されている東京電力の職員には、深い尊敬の念を持ちます。 今も続く放射能による土壌や空気、海洋汚染は結果として命を衰弱させ地域を崩壊させつつあります。癌により疲弊する細胞や臓器の障害に似ています。しかし、推してこの原発事故への復旧作業を癌との闘病に置き換えてみるとき、新しい発見が出来ます。 【原発事故の復旧作業】 『事故前の通常運転していた福島原発は私たちの生活を支えてきました。しかし、今回の未曾有の大地震と大津波によって通常機能が失われ、事故を起こした原発は放射能汚染をまき散らす意味からも廃炉閉鎖する事は重要です。しかし、根本的解決ではありません。原発とは、拡大する電力ニーズと言う手段の一つでしかないと言う事。極論すれば今までの私たちの生活が原発を必要としたと言えるのです。ですから、根本解決とは、結果としての電力消費を削減し原発の必要性をなくす事です。 その為に今一度私たちは私たちの生きる目的を明確化し、その為の生き様を検証する中で、電力依存の生活を改める必要があります。何のために生きるのか?その為には何を選択し何を留まるのか?大事な事は現状を良く知り、可能性と限界を理解しつつ、自らにも深く沈潜し「足る事を知る」そして「大切なものの序列の明確化」だと思うのです。つまりは、今までの生き方への決別であり、新しい生き方の模索実行なのです。ON生活からOFF生活へ。この「生き方の転換」により本当の脱原発が可能になると私は信じています。』 【癌の治療】(さて、ではこれを人体に当てはめてみたいと思います。) 『発がん前は、私の細胞たちは私が生きる事を支えてきました。しかし、その生き方故、知らず知らずのうちに体は大きなストレスを感じ、そのため細胞は癌化してしまいました。このままでは癌細胞をまき散らす(転移)意味からも、癌を切除することは重要です。しかし、切除は根本的解決ではありません。癌とは、あなたの生き方への警鐘の一つに過ぎないからです。ですから癌の根治とは生きる上でのストレスを少なくし癌の原因を除く事こそが必要になります。 その為に今一度私たちは私たちの生き様を検証し、生きる目的を明確化すると同時に、ストレスの多い生き方を改める必要があります。何のために生きるのか?その為には何を選択し何を留まるのか?大事な事は現状を良く知り、可能性と限界を理解しつつ、自らにも深く沈潜し「足る事を知る」そして「大切なものの序列の明確化」だと思うのです。つまりは、今までの生き方への決別であり、新しい生き方への模索実行なのです。ON生活からOFF生活へ。この「生き方の転換」により本当の癌治療、癌予防が可能になると私は信じています。』と成ると思うのです。 自己回帰の必要性(本当の自分へアクセスする為に) しかし、本当はきっと深く自分に沈潜すると言う事が、「本当の自分」を思い出すことになるのかもしれません。きっと本当の自分は「足る事」を知っています。そして大切なものも明確に序列化されています。そこへ、アクセスすると自ずと生き方が転換されると思うのです。きっとそこには原発事故の解決方法もある。その奥には原発を必要としない次元がきっとあると思うのです。 この深く自分に沈潜(自己回帰)を行ったのが、インド解放の父、マハトマ・ガンデイーです。 彼は、徹底した非暴力を貫き、それでも窮地に立った時には何時も断食と瞑想を行いました。 後世ではこれをハンガーストライキと言い、言い分を通すためにストライキが一手段であるかに伝えられています。しかし、私は本当は違うと思うんですね。きっと彼は、道に行き当たった時、断食と深い瞑想により深く自己回帰を行っていたと思うのです。自らがニュートラルになり深く沈潜する事により、事態だけではなく、自分の行いも含め反省する。本当は何か?をとことん追求する。 原発事故(癌)を克服する2つの視点 私自身、こうして今回の原発事故と癌とを相似形として見た時に、逆に原発事故から教えて頂いた視点がありました。 それは、今回の原発事故を受けて現在日本全国から頑張れコールが巻き起こっています。このエールは、被災地に大きな勇気と希望を与えるだけではなく、被災していない人達にも一種の連帯感が生まれ、共に頑張り共に生きようとしています。加えて、現地へ出向きボランティアとして働けなくとも、何が自分に出来るのか?と、要らない電気は消す、励ましのメールを送る、家族旅行の為に貯めたお金を寄付する、など出来る範囲で支援の輪は広がっています。私は、今回ほど同じ日本国民としての共同体を認識した事はありませんでした。 翻ってこれを癌に当てはめると、どこかに発生した癌に対して、きっと体の隅々まで60兆の細胞たちは心痛めているに違いありません。どうしたら、この事態(癌)の収拾が図れるのか?自分(細胞)に今できる事は何か?と。 そう思うと、私は心の中に二つの言葉が浮かびました。原発と同じく癌を克服する為の2つの視点です。仏教用語ですが、「苦集滅道」と「法位法住」です。 その1、「苦集滅道」 まず「苦集滅道」とは、般若心経の中の言葉です。私は、「苦」とは現状(原発事故や癌)、「集」とは、其れを起こした原因や理由、そして「滅」とは向かうべき方向性、目的、「道」とはその為の方法・手段と学びました。今大事な事は、ただ「原発の鎮火」や「癌の切除」だけではなく、「滅」としての本当の目的、ビジョンです。脱原発、癌治癒の後にどういう地域をどんな国を目指しているのか?どんな人生を目指しているのか?どういう未来を創造しようとしているのか?これを明らかにさせる必要があると思うのです。 ただ、般若心経は、この前に「無」が付くのですが・・・深いですね その2、「法位法住」 次に「法位法住」とは、「おかれた場所で与えられた仕事を精一杯努力する」と言う意味だそうです。農業は農家が、医療は医療者が、行政は政治家が行うものです。それぞれに与えられた職責を全うしてこそ、全体が機能すると言う意味です。肝臓が心臓の代りは出来ないのです。体に異常があった時は、より肝臓は肝臓の心臓は心臓の働きに専念することこそが肝心(かんじん)要(かなめ)だと言う事です。つまりは、あなたは現状を受けて、本当は何をしたいのか、そしてあなたの置かれた場所であなたの行うべき事に専念する。東北の被災者の方々が申された、「確かに被災地は人手も不足していますが、是非それぞれの地域での役割も全うし経済活性を維持して頂きたい」とは、まさに「法位法住」の意味だと思うのです。 これは、体に置き換えれば、癌を患ったら、体の全組織、全細胞はその事実を知り、何とか鎮静を願い働いているに違いないと言う事でした。その働きとは、法位法住。 などが、臓器を、細胞を、免疫を活性化し本来の働きを取り戻し、体を健康にする為の7カ条なのです。 是非、体の細胞たちに「良く頑張っているね」といって擦りながらエールを送っていただきたいのです。 新復活 現状は、諸外国から見れば、ある意味では日本沈没かもしれません。しかし、精神世界で言われていたアセンション(人類の意識の精妙化、高次元化)は、今こうして一足先に日本で起きています。間違いなく、瓦礫を撤去した後に、新しい柱が建つはずです。きっとそれは光の柱、未来の柱、千年の柱となるはずです。 65年前、敗戦後に復興した日本のように、明るい未来を強く想像し、協働して創造できるように、前向きに進もうではありませんか。 この時代、この日本、この試練を選んだ自分達が、生き残った選ばれた者として頑張るしかないのですから。 「頑張れニッポン。頑張れ東北。頑張れ自分。」 そして、未来から 「ありがとう日本。ありがとう東北。ありがとう私の細胞たち。」 どうか、後世、「FUKUSHIMA」が世界的な「新復活」「脱原発」「希望の絆」のメッセージとなり3,11が世界の記念日となりますように。 そして、No more HIROSHIMA! No more FUKUSHIMA! Never more Level 7 (INES)!! |