今回の通信は、かなり個人的内容が網羅されています。表現方法も「常体」ですから、少々紋切り型な表現も多く、違和感を感じられる方も多いと思いますが、全ては私の思いや願い(独断と偏見?)ですのでご容赦願いたく思います。 苛めの考察 ~診察室のある風景から...~船戸崇史
ある診察風景 右の棚におかれた次の患者さんの資料を見た時に少々面食らった。 屈託ないその子の表情とはあまりに距離感を感じた。お母さんは後ろで心配そうに私を見ている。 年齢をみると11歳の男の子。小学校5年生。男の子と言えども多感な時期だ。しかも今は5月。新学年が始まって間がない。何かあったんだと思うが、そもそも私自身はこうした分野は専門ではない。通常は当院の心療内科の森先生に即刻依頼するところであるが、予約が合わないと言う以上、まずお話だけでも聞かせて貰おうとカルテを回してもらったに過ぎない。 しかし、一期一会、これも何かの縁である以上、私なりに心を傾けた。 私は、このノートを敢えて彼に見えるように机の上において、ゆっくり話しかけた。 そう言って私は、彼に勇気と決断の石である「アメジスト」を一個プレゼントした。 彼はそれから来ていない。どうなったかは気になるが、逆に音沙汰がないのは元気な証拠だと楽天的に考える事にしている。 しかしもっと気になるのが苛めっ子の方である。実は苛めっ子は加害者ではなく、被害者である。先も書いたように、多くは家庭内の不和が原因で「認めてもらえない」辛さから学校での問題行動に出る事が多い。 さて、今回は、同級生からの苛めに対しての外来診療の一事例を一緒に見て頂いた。 しかし、圧倒的に相手が強い場合(兄や上級生など)は、なかなか喧嘩出来ないものである。原則的には、やはり上記の抵抗は必要である。しかし、それでもどうしても駄目な場合の別の方法をご紹介しよう。 ・・・・・これは、実は私自身の体験である。 兄の思い出 私は小さい時は、よく兄に苛められた。年齢が3歳違い、体の大きさも大きく違って、そのうえ、兄は私には優しくなかった。いや、一言で言えば「理不尽」だった・・と思う。 例えば、私がテレビを見ていたとしよう。突然そこに現れた兄は、勝手にチャンネルを変えた。今のように、テレビは何台もなく、ゲームもない時代で、テレビは大きな楽しみの一つであった。もとより、兄に勝てるはずもなく、私にとって、約束する事が関の山だった。 そして、私はただ泣くしかなかった。時には、母親が私の泣声を聞きつけて、助けに来てくれたが、多くは、私が助っ人を頼んだと、後によりひどくどつかれる事になった。 つまり、我慢するしかなかった。私の心の中には深く「理不尽」の3文字が、兄への憎悪とともに言葉を超えて染みついた。 私も殺人未遂?を起こした事がある。まさにこの頃である。事の詳細は忘れたが、あまりに理不尽な兄に、私は先の尖った鉛筆を硬く右手に握って、兄の右胸を服の上から思いっきり殴り付けた事がある。その時の光景(場所)と怒りの感情は未だに赤裸々な記憶である。鉛筆は折れて飛んだ。そのあとはどうなったか・・覚えていない。しかし、もしあれが鉛筆でなかったら・・と思うと、背筋が寒くなる。この時に、私の心には、行為に対する罪悪感はあるものの、なぜか何とも言えない清々しさを感じた事も覚えている。きっと、僅かでも抵抗できたことへの満足感なのかもしれない。 しかし、こんな兄との生活は子どもながらに「苦痛」以外の何物でもなかった。あまりに辛い毎日に、私は子どもなりに親に相談した事があった。いや、きっと「兄のこと」なんて話してはいないと思う。親なりに苦しむだろうから。その時に、母親が教えてくれた事。詳細は覚えていないが、その時の私の理解ははっきり覚えている。母はこう言った。「仏間へ行って、仏壇の御本尊(阿弥陀如来)様に、心の内を全部ぶつけたら・・ど~う?何でも聞いて下さるよ、きっと。」私に他に選択の余地などなかった。そして、間違いない事は、この出来事が、その後のあの凶暴な兄と私との関係性を劇的に変化させる事となったのである 阿弥陀様の威力
兄の私に対する罵詈憎語も悪態も、実は私の事じゃなかったのである。それは、兄自身の事だったのである。 子どもながらにこの発見は大きかった。 私は、今度この様な状況に遭遇したら、兄に向って、静かに阿弥陀様のポーズをとってみる事にした。 *施無畏与願印(せむい よがんいん) そうした、事態は思いのほか早くに訪れた。 阿弥陀様のポーズ 兄は、私の前に立ちはだかり、いつものように悪態をつき始めた。私は、勇気を持って阿弥陀様のポーズを実行して見た。まず静かに目を伏せ、そして、心で一生懸命唱えた。「今の兄の言葉は、僕の事じゃない・・自分(兄)の事を言ってるんだ・・」と。 兄は、いつもと違う私の態度に少々戸惑ったが、ひるまず直ぐ罵りが始まった。しかし、どうした事だろう・・・この罵りの全ては、自分の事を自分で言っているだけなのである・・・ああ、何という事だろう。こちらから言い返す必要もない。兄は、自分で自分を「馬鹿」呼ばわりしている。私の心の中が、凄く平安である事を感じた。今までにこんなに平安な事はなかった。思わず嬉しくなった。うかつにも、微笑みがこぼれてしまった・・・。兄は、変な格好して、目も合わせず、それどころかにやにやする私にますます激昂した。しかし、私の中では、高ぶり罵る言葉の全ては、兄自身の事だった。ますます楽しくなった。しかも、反抗しない私に、兄は手を出すことも出来ず、ついには、捨て台詞を吐いて去って行った。 「勝った」そう思った。しかも、私の心は幸せだった。私は、誇らしい気持ちで一杯になった。 その後も、同様な状況になる度に、私は阿弥陀様のポーズをとった。 右手の遮りの手の威力は絶大で完璧だった。 家出の気持ちも失せた。 その後成長して行く中で、私は体も心も成長し、何時しか兄と対等の関係となった。其れに伴って兄弟のこうした厳しい関係も改善していった。そして、いつしか私自身の心の中から、当時の兄への敵対心や恨みなど消えていった。 ・・・兄弟とは良いものだ・・と思っていた。 その後、何事もないかのような、兄弟では平穏な時期が長く続いた。 問題は、この療法の勉強中に起こった。 *退行催眠療法とは、基本的に現在の辛い出来事(苦痛)に対する治療法の一つである。苦痛は通常4つに分けられ、身体的・精神的・社会的・霊的(スピリチュアル)とあるが、この内、特に関係性の苦痛(社会的苦痛)と霊的苦痛に対して有効であると言われている。また、これら(霊的、社会的)苦痛が、精神的、身体的苦痛として表現(投影)される事も多く、それぞれは分かち難い関係にある。 何でも良いので、過去生退行は、現時点で最も大きなテーマが必要となり、私は「兄との事」を気楽に選んだ。この療法は、これまであまり意識の表面には出した事のなかった、深く古い記憶を呼び出し検証する絶好の機会だった。 私は、あの兄がなぜにここまで凶暴で私を苛めたのか?前世での関係を知りたかった。 しかし、誘導されて行った先は、古くはなかった。前世ではなく、私の子ども時代であったのだ。 兄の成育歴 兄は、岐阜の片田舎で戸主制度が色濃く残った封建的な土地柄の中で3人兄弟の長男として生れた。兄は、あまり勉強は好きではなかった。いや、決して勉強が出来ないのではなく、決められた事を守る事が苦手(嫌い)だった。だから、教科書や授業や勉強、宿題、試験など(学校は決められた事をその通り出来る事が求められる)が出来る子どもを優等生と言う以上、決め事を守らない(嫌いだから)兄は全くの問題児だった。ただ、体育の授業と先生だけは大好きで成績も良かった。体育に関して勤勉だったのではなく、ただ好きだったに過ぎない。性格的にも協調性があるとは言えず、友達関係はあまりいい方ではなかったようだ。学校でも友達や先生と問題を起こしていたようで、時代も時代なので時には(よく)先生から平手を貰った事もあった。中学時代は体も大きくなった分、問題も大きくなった。少数の例外を除いて、殆ど全ての同級生と先生は敵だと言っていた。この当時の兄の写真がある。誠に不機嫌極まりない顔つきである。まさにその通りで、兄はいつも怒っていた。という記憶しか私にはない。 そんな中で弟の私は、3歳違いで、体も一回り小さく、飛んで火に入る夏の虫でしかなかったのだ。妹もいたが、兄とは7歳違い、射程距離外だった。 しかし兄は当家にとっては後継であり、何かと大事にされ期待された。そして、この期待が大きければ大きいほど、出来ない兄は家でも叱られる事が増えた。こうして縛られたくない兄は、先生や親に反抗し、学校や家から逃げる事ばかりを考えるにいたった。全ては面白くなかった。 ここで、退行催眠の誘導が入った。 相手は、私でなくともよかったのだ。誰でも良かった。ただ辛かったのだ。 私の守護神 田舎の封建的戸主制度とは、家紋(一族)の継続繁栄を目的としており、その為代々長男に大きな義務と期待がかかる。もし、兄がいなかったら、私が長兄だったらどうなるだろう。私にこうした一族の期待がかけられ、義務に縛られ、したい事も出来ず、我慢を強いられたとしたら・・兄の様になったのではないか?その時、無力な弟がいたら、憂さ晴らしをしないと言えるだろうか?私はたまたま次男であった為に、本当に選択は自由だった。しかし、きっとそれは民主主義的自由ではなく、戸主制度にあって、次男以下は役割が期待されていなかったに過ぎない・・と思う。つまり、兄が先祖からの陋習を一身に受けてくれたお陰で、私は守られたのだ。私の自由は、兄の傘下でこそ保障されていたのだ。 そう思うと、ある場面が思い出された。私が小学校の5年生くらいの時だった。 見上げた兄の顔は汗だくで、目を閉じひたすら私の為に周りから押されないように守ってくれていた記憶。 電車が揺れるたびに、汗が落ちた。 ありがとう・・・ 結果的に私が家を継ぐ事になったが、それは、単なるバトンタッチに過ぎなかった。 理不尽を知る 理不尽を知ること、理不尽に耐える事、しかし本当の理不尽はなく理不尽に振舞うしかない事情は必ずあると言う事、理不尽をする者の多くは、理不尽をされてきた事、しかし、結果的に自らが体験した(する、されるに拘わらず)理不尽故、新たな気付き、新たな発見、新たな出発が出来ると言う事。もし、これを成長と言うなら、ひょっとして、私たちは、この理不尽すら体験したくて生れ生きている可能性もあると言う事。 苛めのループ 苛める。苛められる。苛めのループ。 苛める側は、いつも加害者と見なされる。しかし本当は被害者である。彼は叫びたいのだ。もっと分かって、もっと認めて。もっと抱きしめて。其れをどう表現して良いか分からないだけである。「分かって欲しい」という依頼(願い)は、昂ずる(怒る)と「分かれ!」という強要に変わる瞬間がある。その時、力という手段を使う事を暴力といい、破壊力が大きい時テロという。 依頼は正当であるが、暴力は不当である。暴力による破壊は、瞬時に二度と帰らぬものを生むから。しかし、根本は同じだと思う。彼は被害者で、本当は認めて欲しいだけなのである。多くの場合、彼は優しく、ハグされた経験がない。だから、「優しさ」が分からないのである。「優しさ」に飢えているとも言える。気がついただれかが、傍に寄り添い、優しくハグし、「大変だったね」「大丈夫だよ」と言って、優しさを体験する必要がある。 それが苛め撲滅の第一歩である。私はそう思う。 苛められる側は、被害者と見なされる。しかし本当は勇気をためされている。加害者に対して、「止めて欲しい」と言えるか?「優しい」と言う隠れ蓑を着て、ただ逃げているだけでは解決にはならない。暴力に対しては、自分が傷つけられたとしても、其れを止めるために体を張る時もあるだろう。その為には勇気が必要である。これが出来てはじめて苛めのループから脱却できる。 苛められる側に必要な心構えが二つある。 一つ目は、「試練は必ず乗り越えられる」という信念である。実は、「試練は乗り越えられる人にしか訪れない」と言う法則があるからである。心の中で、「大丈夫、解決できる」と信じて欲しい。 二つ目は、「苛めをする奴は本当は弱虫」だという事を知る。弱虫だから、硬い甲冑(かっちゅう)を着る。本来自分を守るための最も強力な防衛方法が、暴力に過ぎない。(攻撃は最大の防御なり) この二つを心得たら、最初に行うべきが「変化」である。苛めのループは、同じ形を繰り返すうちに轍(わだち)となり、なかなか抜け出せなくなる。だから、まずは取り組み方を「変える」ことから全てが始まる。すると苛める側も苛め方を「変える」だろう。そしたら、また「変える」。手段が変われば、結果が変わる。苛めがなくなるまで、これを繰り返すのである。「信念」と「勇気」を持って、対峙する必要がある。必ず乗り越えられる。 ただ、常に苛められる側(被害者)と言えども、他人の靴を踏んでいる時がある事を忘れてはならない。意図しないところで私たちは容易に加害者になりうる。「自ら出したものが自らに返る」法則からすれば、まず、自分が被害者と思った時には、一度身の回りを全て注意深く点検する必要がある。そして、気がつかぬうちに加害者になっていたら、素直に陳謝し修正する必要がある。 苛めのない社会 苛めのない社会を創る事は簡単である。苛めが「認められない」結果生じるなら、認め合えば良い。褒めあえば良い。現代、苛め社会であるのは、現代が認めない社会であり、褒めあわない社会である事を認める必要があると私は思う。 もし苛めのない社会を創るのが難しいとしたら、詰まりは私たちが「素直に認められない」「素直に褒められない」からである。なぜだろう?・・私は理由は三つあると思う。 一つは、誰の心の中にも巣食う「意地」である。 奥に自己顕示欲がある。「人の不幸は蜜の味」である本体に気が付く必要がある。この幼稚な自己保存欲に翻弄されない事がまず一番大事である。自分の心に必ずあるこの「意地」に気付く事が重要である。 分かりやすく具体的に見てみよう。 あなたが生活の中で、誰か(X氏)がした行為Xに対して、あなたが「カチン!」ときたとしよう。「常識からして(行為Xは)信じられない行為!」と思うからだ。これこそが「認められない」事態そのものである。しかし、良く見てみよう。X氏の行為Xは、実は至極当然の行為であるかもしれない。それをあなたが知らないだけかもしれない。つまり、X氏の行為Xが本当に非常識で間違っているのか?非常識と思い込んでいる貴方が間違っているのか?しかし、とかく私たちは、自分の間違いとは思いたくない。そうさせているのが「意地」である。 二つ目には、「違いを拒否する」事である。 「みんな違って、みんな良い」という標語が新鮮なのは、私たち(特に日本人)は自然と「同じ」を好む傾向がある事に対してのアンチテーゼである。「皆同じ」を好む傾向とは、「意地」とは違い、少しでも違うと拒否する傾向があるという事になる。その結果、違いに敏感になり、些細なことへも拒絶することになる。些細な違いへの拒絶は直接的苛めの原因になりかねない。 なぜみんな違って良いのか?理由は簡単である。一人一人の役割が違うからである。そして人間社会ではこれら多様な違う役割が必要とされている為である。これを教えるのが本当の「教育」であり、本当の「学校」であると思うのだが・・。 三つ目には、お手本がない事である。 「認める」とはどういう事かが分からないのである。それどころか、現代社会では、「認めない」お手本は氾濫している。例えば、毎日テレビに放送される国会討論の様相は、如何に認めないか!を公然とテレビで全国民向けに教育しているようである。どう荒探しをして、どう反論し、どう叩き、どう勝つか・・・如何に「認めないか」の良い手本である。しかもマスメデイアであるテレビで毎日となると、その影響は甚大である。 それでいて「認めあえる(苛めのない)社会を創ろう」と言われても極めて難しい。それどころか、結果起こった殺人事件なども、「嫌いなら消す」良き手本でしかない。 ただ、近時起こった3.11大震災は、唯一「良き」手本である。被災地の方々から、どれほど大きく深い勇気や力を貰っただろう。「にも拘らず、生きる」「だからこそ、生きる」その姿は、本来の人間力を垣間見た思いである。ともに協力しない限り生存が出来ない被災地の現状からすれば、他人を認め、他人を褒める事がそんなに難しいだろうか? 苛めない社会の見本をわれわれ大人が見せる必要がる。 私たち大人が、本当の大人の対応をすれば、手本となり自ずと苛めは無くなると信じる。 霊的視点から 霊的視点に立つと、もう一つ別の見え方もある。引き寄せの法則で言えば、お互いが引き寄せている場合がある。苛め・苛められの関係から大喧嘩をして、その後大親友になることがある。交通事故の加害者と被害者の関係から、友人となり結婚する事もある。御釈迦様の言う「今のあなたにちょうど良い」の法則からすれば、こんなに広い宇宙の中で、日本のその場所のほんの一点で、気の遠くなるような時間の流れのほんの今と言う一瞬に、どんな形であれ「出会う」事は奇蹟中の奇蹟である。辛い「苛めのループ」すら、単なる「きっかけ」に過ぎない。起こった出来事を先ず自分の事としてしっかり受け止め、感謝できるくらいに成長したいものだ。 「苛め」を切っ掛けに、自らを反省し成長しよう。 「苛められる」を切っ掛けに、自らを反省し成長しよう。 大丈夫、試練は乗り越えられるから訪れた。 どんな試練も、その渦中にあるあなた、あなたは、選ばれし者なのだ。 追伸:以上の文章の「苛める側」を「癌」に、「苛められる側」を「担癌患者」と読み替えてご一読願いたい。きっと、新しい癌への見え方があると期待したい。 #癌(苛める側)は、いつも加害者と見なされる。しかし本当は被害者である・・・#癌患者(苛められる側)は、被害者と見なされる。しかし本当は勇気をためされている・・ #癌(苛め)のない社会を作る事は簡単である。癌(苛め)が「認めらない」結果生じるなら・・・・ しかし、どうしても受け入れられない方は・・その事態に対して是非「施無畏与願印」を結んで静かに瞑想して見て下さい。必ず心の中に平安が訪れますから・・ |