炙り出される病気の意味
~病気はSさんにどう生きろと言うのか~
船戸 崇史
「きっと全ての病気はその意味を雄弁に語っている。
しかし、私たちはなかなか分からない。
それは、病気に口がないからだけではなく、
私たちに聴こうとする心の耳がないからである。」
今回、Sさんの診療を通して、病気の意味を深く考えさせられました。
Sさんの生きざまの素晴らしさは、暖かさや優しさだけではありません。必要な決意や覚悟、勇気も感じられるものでした。そうしたSさんからは、厳しい筈の闘病から深い意味が炙り出されてくるのです。今日はその話をしましょうね。
【この日の訪問診察での出来事】
部屋のドアを開けると、Sさんは何やら携帯電話でお話をしている最中でした。その会話の一部が聞こえてしまったのです。
Sさん「・・いい事があったんで、電話したけど、今先生が来たんで、またあとから電話するね~」
私「いや申し訳ありません・・。何か、良い事あったんだ~何ですか?」
からこの日の診察が始まりました。
【Sさん】
Sさん、69歳。進行した乳癌で、7年前に左乳腺切除術を受け、以後お元気に過ごされていました。しかし、昨年1月に血液検査で異常を指摘され精密検査の結果、左脇の所属リンパ節転移と、多発性骨転移が発見されました。その後、痛みが出現し、それが癌由来あることが分かるとオピオイド(鎮痛薬)が開始されたのです。そして治療法はないと言われました。病院での治療に限界を感じ、昨年2月9日に当院初診。以後疼痛管理を中心に当初は外来にて通院し、疼痛緩和ケアと同時に種々生きがいの治療を行ってきました。Sさんは、持ち前の明るさで、何とか病気に立ち向かおうと、努力を重ねてこられたのですが、そうした甲斐なく病状は進行しました。
今年2月に入ってから、足に力が入らず、歩く時にふらつきがあり吐き気もあるというので、私は脳転移を疑いました。しかし、まもなくそれは、胸椎への癌転移が脊髄を圧迫する事による症状だと分かりました。その後下肢に感電するような痺れ痛みが生じるとともに、急速に下肢が動かなくなり、加えて、大小便の感覚も麻痺していかれたのです。
何という事でしょう。自分で歩き、排泄できるのは人間の尊厳として重要な位置を占めますが、そのいずれもがたちまち奪われた事になります。以来、Sさんの世界はベッド上に限られた生活となったのです。同時に左肩から背部に放散するような癌性疼痛も厳しいものがありました。その為、ベッド上といえども、安楽な体位を決めるにもマットを上手に使う必要がありました。精神的にも落ち込み、食事もあまり進みませんが当然のことでしょう。「癌は治らない」とは聞いていた。それは仕方ないかもしれない・・・でも、今私は生きている。この先どうなる?不安は増大しますます精神的にも落ち込み、夜も眠られなくなりました。
しかし、同時にこの辛さは慣れない介護をするご主人も一緒でした。
もともとが職人気質で仕事一本で生きてこられたご主人は、介護などの経験は全くないにも拘らず、よくケアされました。
朝の部屋の換気から、室温管理。布団、マットの調整。服薬管理、食事介助まで、専門職と見間違うほどにSさんの身辺を綺麗に整容されておられました。
殊の外、排泄介助は当初は戸惑われましたが、「俺も慣れて上手になった」と手順を教えて下さる程になったのです。なかなかできることではありません。
しかし、療養が長引くと双方に疲れも出ます。ご本人にしてみれば、体一つ自分の力で動かせないとう歯がゆさ、食事から排泄まで、大凡身の回りの全てをお願いしないと生きられないと言う辛さ。加えて体をおそう痛みはオピオイドを使っても完全に楽になるわけではありません。しかも、いつ終わるかわからないのです。その閉塞感は想像を絶します。
一方のご主人も、慣れない介護に疲れ果て、一生懸命に介護すれど、病状が改善する訳でもなく、誰かから評価されるわけでもありません。こちらもいつ終わるか分からない閉塞感は患者さん同様です。
いつしか、双方とも疲れ果て、とうとう双方が感情的に興奮したり泣いたり取り乱す・・・しかし当然の事でしょう。誰かがサポートしない限り在宅での療養は継続不可能です。
余談になりますが、こうした状況になると、よく「入院しかない」という様な言葉を聞く事がありますが、これは注意が必要です。実は入院したからと言って、介護が要らなくなるわけでも痛みから完全に解放される訳でもないのです。介護者(家族)の前から、介護が無くなるだけなのです(患者もいなくなりますが・・・)。勿論、24時間、医療者が傍にいるという安心感はありますが、「入院」が全ての苦痛を除く「魔法の方法」ではないと言う認識は重要です。況や、「最期は自宅」を願う場合は、入院のタイミングによっては、退院が出来ない=願いがかなわないという事もあり得る事はご承知頂きたく思います。勿論、入院されて「やっと楽なった」場合もあるでしょうが、それは、多くの場合、意向さえ伝えてあれば在宅医師や訪問看護師が上手に指導してくれるものです。
さて、Sさんです。
ご家族のこうした閉塞感に向き合い、上手に風(薫風)を差し入れてくれるのが
訪問看護師です。訪問看護と言うと、病状や体調の管理だけと思われているかもしれませんが、実は在宅医療は訪問看護師で成り立っていると言っても過言ではありません。
女性ならではの肌理の細かい配慮や思いやりは流石です。
【生きがいの桜見計画】
実は、Sさんの場合もそうでした。気分転換にと当院の訪問看護師が一緒に桜見に行く計画をしたのです。
病気を治すのは薬だけではなく、一番は患者の元気です。
元気は「生きがい」から生じます。ですから、当院では、以前からこうした「生きがい」を引き出す事を目的に季節の行事や食事会へ患者さんを連れ出す事をしてきました。
現状で、到底外出など出来る筈がないと思われていたSさんやご主人は大変喜ばれました。しかし、いざ実行となると、思いの外色々な問題が出てきました。まずは、車への移動です。Sさん宅は、6年前に新築された母屋と離れとあるのですが、Sさんご夫婦は、離れの2階に住んでおられたため、車への移動自体が既に大事でした。
体位によっては痛みの出るSさんに気遣いながら、大人4人がかりで狭い階段を吊って降り、介護車両へ移動するだけで、なかなか大変な作業です。動線のチェックから、花見のコースの下見、同行するスタッフやご家族のスケジュール調整などです。現在のSさんの体調から車椅子は不可能で、ストレッチャーでの花見となりました。桜並木は綺麗でも、あまり人出(目)のない近場の名所を探しました(これが思いの外難しい・・名所には人出はつきもの)。こうしてやっと桜見コースが決まりました。あと問題はSさんの体調とお天気です。しかし天候は時の運ですし、桜の満開も待ったなしです。
【花見決行】
いよいよ明日は桜見。天気予報は曇りのち雨。降水確率午前中50%午後70%。雨が降れば中止ですが、雨が降れば今年の桜も終わります。何とか、運を天に任せるしかありません。ところが、肝心のSさんの体調が悪くなってきました。痛みが増強し、呼吸困難が出てきたのです。
「とても桜見どころの気分ではないので、明日の桜見は中止したい」というお電話がご主人からありました。桜見は別として、体調がすぐれないならとすぐ訪問しました。診察すると胸水が貯まり、これが正常の肺を圧迫しているための呼吸困難と判断しました。エコー下で胸水を排除するとともに、この日からオピオイドも増量し対応しました。これで、どこまで体調が改善してくれるか?楽になれば、桜見の気分にもなってくれる。きっとそうなれば、明日の天気もSさんに合わせてくれるだろうと、祈る気持ちで運を天に任せることにしました。
明日が満開。どうにかして行きたい。行かせたい。
きっとSさんにとって、人生最高の花見になるだろうから・・。
【花より団子】
翌朝、天気は曇り。雨は降っていません。早速Sさん宅を訪問しました。Sさんは昨日よりも痛みが減り呼吸も楽になられていました。しかしSさんは不安が大きく、あまり乗り気ではなさそうです。私は言いました。「Sさん、良かったね~天気は絶好の桜見日和・・、満開の桜が待ってるよ~」と。するとSさんも、「じゃあ・・行こうか、でも花より団子ね?」とニコっと微笑まれたのです。
この日桜見を決行。行き先も、途中に団子屋さんがある輪中の中堤へと変更しました。もちろん団子を買うためです。
お昼から天候が悪化する可能性があるので、できるだけそれまでに他の訪問診察を終えてSさん宅へ到着したのが、12時近く。既に訪問看護師や当院の男衆が集まっていました。ご家族も応援の方が駆けつけ、ご主人はもとより娘やそのお子さん(孫)2人も加わり、Sさん加え総勢14名での花見となりました。天気も、強い日差しではなく、雨も風もない気温も丁度いいくらいのお花見日和でした。
事は、段取り通り進みました。途中の団子屋で、団子も買いました。
そしてSさん一行を満開の桜が出迎えてくれました。
【人生最高の花見】
花より団子。それまで、食欲不振で、一日前は殆ど何も摂取できなかったのに、この日Sさんは、団子を2個食べる事が出来ました。いつも世話をしてくれるご主人と愛する娘、そして孫二人と一緒に食べた団子は、きっと家族の団結の契りとなった事でしょう。
こうして、人生思い出にとびっきりの1項が書き加えられたのでした。
Sさんの口からも一杯の「ありがとう」の感謝の言葉が涙とともに吐露されました。
団子を食べながら、Sさんが突然に私に言われました。
Sさん:「先生、一つお願いがあるの・・・来年も連れてきてね・・」
私:「来年?・・・・・・分かりました。・・一緒にね・・・」
Sさん:「きっとだよ・・・」
私は桜の小枝を折ってお渡ししました。「・・・はい」
この日、花見を終えると、後を訪問看護師に任せて私はその場から他の往診へ出かけました。そしてSさんが自宅に着いた後・・間もなく雨が降り始めたのです。天が時間をくれたのでした・・・ありがとう。お天気さん。これが一番のお土産でした。天気がもったお陰で花見が出来ました。人生最高の花見でした。
後にこの日の感想をSさんはこう述べられました。
「私は日本一幸せ者!」
翌日の当院の訪問看護師の記録より
「昨日外出された事もあり、痛み止めのレスキューが多い。その反面考えさせられる事が多く、ゆっくりとご自分の人生を見つめ直すきっかけになっていただけたご様子」
桜見にはそう言う効果もあった様です。
【6年間の確執】
桜見が無事終わり、やや倦怠感がある毎日が帰ってきました。
訪問診察で冒頭の携帯電話の声を聞いたのが、桜見から5日目でした。
Sさん「・・いい事があったんで、電話したけど、今先生が来たんで、またあとから電話するね~」
私:「いや申し訳ありません・・。何か、良い事あったんだ~何ですか?」
S:「今度ね、東京の兄がお見舞いに来てくれるんだけど、息子夫婦の家(母屋)に泊めてもらえることになったの・・」
私:「・・・・?・・隣の(母屋)?」
S:「今まではね、私のベッドの横の狭い場所で寝てたのね。それが母屋で泊めてくれるって・・・」
私:「はあ・・・・?」
S:「恥ずかしい話ですが・・嫁とは6年間も一切口を聞いたことがなかったのね・・」
私:「・・・・!?」
S:「理由は分からないですけど、話してくれないの。でも、私はこのままじゃいけないって思ったの。今、何とかしなくちゃいけないって。このままじゃあ、禍根を残して終わることになる。どちらかが謝らなきゃ始まらないって思ったの。・・・だから、息子に頼んで、一度こちらへ一緒に来てくれないかってお願いしたのね・・・」
私:「・・・(首肯)」
S:「そしたら、3日前に、息子と嫁と2人で来たのね。・・・それで、私は嫁の手を握って謝ったの。『みんな、私が悪かった』って。泣きました。そしたら、主人も泣いて・・『俺も悪かった』って・・」
私:「・・そうだったんだ・・」
S:「そしたらね、その夜にブリが届いたの!すごいでしょ。私もう、嬉しくって嬉しくって・・一杯泣きました。そしたらね、今度は、私の兄もね、息子夫婦の処(母屋)で泊めてくれるって・・・本当に嬉しいの・・何かね、光が見え始めた感じなのね・・」
【確執を溶かしたもの】
きっと、嫁にも一杯の言い分はあるでしょう。
私は決して嫁だけに問題あったとは思っていません。いやそれどころか、きっと双方に問題の種はあったと思うのです。人間とは一方通行ではありません。
人は間で生きています。だから「人間」。人間間の問題は決して独りでは生じません。
ただ、「人知れず人は人を励ます」こともあれば、「人知れず人は人を傷つける」こともあります。良かれと思ってした行為も、出しゃばりだったり、そっとしておいたつもりが、助けてくれなかったと詰られることもあります。でも、人は間違いなく暖かな心を持っています。だから、息子は見初められ結婚されたのでしょう。しかし、一度ボタンを掛け違うと、どんどん間違ったスパイラルへはまり込み、関係の修復が困難になるものです。だから古より、「嫁と姑の確執」という決まり文句があるのでしょう。
Sさんの場合もその結果、6年という年月が経ち、逆に、この6年間という期間は修復は困難だったという実績でもあるのです。
Sさんの凄い所は、「このまま時間を待つだけでは関係性は修復されない」と判断し、勇気を持って、自ら行動を起こしたという事でしょう。
【今でしょ】
しかし、なぜ今、Sさんは勇気を持って嫁と再結しようとしたのでしょう?
私の予想ですが、きっとそれはSさんの思い「今しかない」=「自分にこれ以上の時間がない」だったのではないかと思うのです。
本来この思いは誰の上にも平等にあるべきです。来年、明日、1時間後必ず生きている保証なんてないのです。ただ、健康と思っているうちは、なんとなく「明日があるさ」という思いに支配されているに過ぎません。しかし、Sさんの痛み、呼吸苦などの闘病生活の全てが「明日」という言葉は「猶予感覚」に過ぎず、あるのは「今」だけである事を教えてくれたのではないかと思うのです。
そうです。Sさんは今を生きているのです。
こうした思いは、きっと、Sさんに痛みがなかったら、闘病していなかったら、癌になっていなかったら、訪れない境地ではないでしょうか。
皮肉にも、今闘病している「癌」が、Sさんを変え行動を促したとしか私には思えないのです。
しかし、同じく素晴らしいのは嫁です。なぜなら、ご主人(Sさんの息子)から「一緒に行こう」と言われた時に、本当にいやなら「No」と言えば済むことです。それを、離れのSさん待つ部屋へ行くには、どれ程の勇気がいった事でしょうか。手を握られて、「ゴメンネ」と言われたからといって、どんな顔して良いのか・・。しかし、その後の変容を見る限り、嫁も間違いなくSさんと同じ境地を持ち続けていたのでしょう。再結したいと。
Sさんのご主人も気骨あるゆえ、結構の誤解をかけてきたに違いありません。しかし、ご主人も良かれと思っての言動であった事は、現在の介護の姿勢を見る限り間違いありません。節くれだった手指で、慣れない介護を今日もされておられることには、本当に頭が下がります。実はSさんの病気は、ご主人をも変容を起こしていたのです。
この変容を起こした言葉。
それは、Sさんの「みんな私が悪かった」
その動機となった出来ごと。
それは、Sさんの「癌」
【炙り出される病気の意味】
さあ皆さん如何でしょうか。私は今回のSさんの闘病を通して、3つの事を教えて頂きました。病気は奥深い存在です。その影響はSさんご本人へ、そしてご家族、友人へ、そしてわれわれ医療者にまで及ぶんですね・・・深く聴きとる(読み取る)心の目と耳があれば、炙り出しの様に現れてくるのです。その3つとは・・・・
1) 人生には「生きがい」が必要である。
桜見に代表される様に、生きがいはその人が持つ生命力を間違いなく引き出します。しかし、桜見自体がその人を元気にするのではなく、その一連において、家族やサポーターとの人間としての心の交流がその人を元気にすると思うのです。
癌難民という言葉があります。西洋医学的に治す術がなくともその人は生きています。生きがいさえあれば、その人は自らの生命力を開花できるものです。われわれ医療者は常に寄り添い、励まし、サポートすることこそが本務ではないでしょうか。するときっと、ご本人の自然治癒力が湧現してくれると思うのです。
2) 「後悔を残さない」「遣り残した仕事をしっかり終えてゆく」事の重要性。
特に縁の深い人間関係(家族、兄弟、親子など)の捻じれた関係性は「(時間を)待つ」ことで溶けることもあるかもしれませんが、逆により強固に固まる事の方が多いものです。しかし、禍根は残さない事が重要です。貴方が関わった禍根は貴方しか修復できないものです。孫子はその禍根を修復出来ず呑み込まれ、ただ引きずられて生きるしかない事が多い。禍根はまず作らない。しかし、出来た禍根は、修復する。これこそ遣り残した仕事です。その為には、思いやりの優しい心の上に、厳しい覚悟と決意と勇気が必要です。多くの場合、それは「ごめんね、皆私が悪かった」です・・・・言えますか? 最期を自覚すれば出来ます。
3) 「癌」にも役割がある。
癌とは忌み嫌い見つけ次第切除することだけが存在意味なのでしょうか?Sさんの場合、確かに癌にならないに越したことはなかったでしょう。しかし今から振り返れば、「癌」から始まった一連のドミノの先に何と「家族の融和」があった様に私には見えます。つまり癌とはただ単に忌むべき敵という存在だけではなく、貴方の生き方(癌生活)にストップを掛け、今一度貴方の人生を見直し、本来に生き直せと変革を訴えている勇気ある細胞集団なのかもしれないのです。
なぜなら、癌細胞と言えでも、もとは貴方自身の細胞なのだから。
今では桜は散り果てました。
「散る桜、残る桜も散る桜」とは良寛の有名な句です。いずれは同じ運命をたどる儚さを
謳ったとも言われますが、この運命は皆平等です。しかし、散ってお終いではありません。
散らなければ出ない芽があります。やがて、新緑は深緑となり盛夏へとなる物語が始まり
ます。実は貴方オリジナルの人生は、散る桜がスタートラインなのです。
どうか皆さん、Sさんの願いが成就し、S家の未来が幸多からん事を応援して下さいね。