コラム

ファリーフがきた

船戸 博子
「おばあちゃん、なんでそんなにごはんをたべんのや」
「まあ、ようつきたでな。肉も、魚もつきた。あんたこそ、たべやあ。たんとたべやあて。あんたらは、まんだこれからやで、大きいならなあかんで。たべんと、体が弱ってしまうで。」
おばあちゃんは、箸で皿をくいっとぼくの方に寄せた。灰色の丸い皿の上には、おばあちゃんの好きな鰆の焼いたのが、おばあちゃんに半分つっつかれて残っていた。
「あんたは、魚の皮好きやで。あんたは小さいころから、魚のはらわたやら皮やら、よろこんでさわっとったわな」
また、同んなじこと言っとる。
自分は食べとらんのに、ごはんだって、半膳やないか。まえは、おかわりしとったのに。
前にぼくが
「よう食べるなあ」
そう言ったら、おかあさんが、
「うちのお年寄りは、働きが違うで、よう仕事してくださるで。」
おじいちゃんとおばあちゃんのごはん茶碗にお茶をトプトプとそそいだ。
 おじいちゃんと、おばあちゃんは百姓をしていた。ずっとしていた。
晴れでも、曇りでも畑へ行った。ぼくも行った。
春は黄色つぶつぶ木いちご。夏は苦っがいきゅうりに、あったかトマト。秋はいちじくで口のまわりがかゆかった。冬には畑のすみっこで白いねぎをトローと焼いた。
畑の一方は、用水が流れていて、ときどきおっと思うような大きな鮒が流れていった。
ぼくは、用水のコンクリートにへばりついて、ザリガニをすくった。
「とれたかねえ」
おばあちゃんがのぞきこんで言った。
おばあちゃんの頭の上には大きな深いけやきの葉がゆれている。チラチラと光がぼくの顔にあたって、おばあちゃんの白い髪の毛がキラキラ透けるようだ。
けやきの木がザワザワささやいて、ひんやりした風を流してくれた。
このけやきの木は、おじいちゃんとおばあちゃんが、昔に山から、ぼくのようなちっぽけなチビけやきを引いてきて、ここに植えた。
「こんな大きなって、りっぱになって。土はえらいもんやなあ。私ら、何にもしとらんのに、ちゃんと大きなって。」
 おばあちゃんは灰色のザラザラした幹をなでながら、つぶやいた。
 おばあちゃんは、なんでん小さくなっていった。いっつもしょんぼりしているように思えた。
お日様が出とるのに、
「今日は畑へゆかん。」
といったので、おかあさんが心配そうにおばあちゃんを見た。
「なに、今日な、そら豆の皮むいて乾そう思うとるがね」
 けれど、なんかだるそうだった。お父さんに怒ったように「医者に行かな」と言われ、おばあちゃんは病院に行った。
 病院から帰ってきたお父さんが、しょぼしょぼした声でおかあさんと話しこんでいた。
おばあちゃんは、胃にできものができとるんやと、胃がんなんやと。
 胃がんってなんや、ぼくはちょとは知っていた。だって、3年生の時に、同じクラスのさとくんのおじいちゃんが、胃がんで死んだんだ。ごはんたべれんようになって、血が下にたんとおりて、死んだんやと。
ぼくは、えっと思った。おばあちゃん死ぬんか、なんやて。
えっえっ、死ぬって、どういうことや。死んだら、もう会えないことやろ。ぼくはいやや。なんで、おばあちゃんが、ぼくのおばあちゃんが、胃がんなんや。どうしてなんや、どうして、死ななあかんのや。これは、まちがいや。病院の先生が、うそついとるんやな。
 ぼくは、いつもと同じに、ごはん台の上でミニ四駆の車を改造していた。お父さんも、おじちゃんも、まるで、ぼくなんかいないみたいに、ううん、家族のだれもが、自分以外のだれもがいないみたいにスルゥリ、スルゥリと、すれちがっていった。
 朝がきた。
おとうさんがしゃがみこんでぼくにいった。
「あのな、今日から、おばあちゃんは病院へゆく。入院するんや。みんないそがしいで、おまえもしっかりせなあかんぞ。」
 ぼくは、わざとおちゃらけた。
「おばあちゃんしわとりかあ。しわしわばばあがなおるとええなあ」
「うっ」
いきなり、おとうさんのげんこつが飛んだ。ぼくは、思いっきり泣いた。
泣いて、泣いて、泣きながら家を飛び出した。
 気がつくと、ぼくは、畑のあのけやきの下にいた。幹は、5月の光でほんわかあったかかった。
今日も昨日とかわらず若葉がサーワサーワとおどっていた。アリが幹をトットトットと一列になってのぼっていた。
 ばくはけやきの木にいった。
「おねがいだから、ぼくのおばあちゃんをたすけてね、ほんとに、ほんとにおねがいだから。ぼくの命の一年分をおばあちゃんの命のろうそくに足してよ。えんまさまにおねがいしてよ。」
けや木はキラキラした5月の日の光をぼくになげかけた。
死ぬ 死ぬ 死ぬ 死ぬ、ぼくが死ぬ。
死ぬということはぼくがいなくなることだ。ぼく自身がなくなってしまう。テレビの中で毎日、たくさんの人が殺されたりしてるけれど、あれは、うそものの世界だ、また生き返る。
もう、二度、動けない、しゃべれない、たべれない、おかあさんにも会えない。
ぼくは、今ここにいるぼくはどこへいってしまうんだろう。そう思うと、ぼくは、こわくてこわくて、しかたがなくなった。
腕がむずかゆい。みると、けやきの幹をのぼってきたアリンコが、まちがえてぼくの左腕でまよい道をしている、ばくは、ひょいとつまんで地面になすりつけた。アリンコは動かなくなった。
あっと、ぼくは思った。今、ぼくはアリを殺した。アリはぼくのせいで、命をなくした。死んだんだ。もう動かなくなったアリ、死んだアリ。
今、こんなにも、死ぬのがこわいと思っているぼくが、ぼく以外の命を、ひょいとつぶした。おそるおそるアリの死体をつまんで、手のひらにのせた。
 アリは首をよこにむけて、まっ黒の目ですきとおる様にぼくをみていた。腹から、黄茶色の液がにじみでていた。
 おばあちゃんは手術した。
お腹を切った。袋のついた点滴をした。それでごはんがたべれん。ぺったんこだった。病院の白いふとんの方がぶ厚い。
「なにがたべたいの?」おじいちゃんも、おとうさんも、おかあさんも、ぼくも、みんながおばあちゃんに聞いた。
 おばあちゃんは「なんにもない、もうつきたで」
とんがった鼻を、少し上に向かせていった。
「早う、家へかえりたいなあ。家は、ええもんなあ。」
水ようかんを二箱買って、ぼくとおとうさんは、おばあちゃんの病院へ行った。おとうさんが、先生と話をしてくるといって、病室から出ていった。
 ぼくは、寝ているおばあちゃんをみた。
大きく口をあんぐりあけて、目が、こっぽりと落ち込んでいた。まゆ毛も外が半分なかった。
おばあちゃん死んでるみたいな顔やなあ、こんな顔にいつなったんやろ。
 おばあちゃん、おばあちゃん、ぼくはなんども心の中でつぶやいた。おばあちゃん、おばあちゃん、おばあちゃん、呪文みたいに、何回も。言っているとうれしくなってきた。空気のようにスカスカだけど、これは、ぼくのおばあちゃんだ。
 と、ぼくはおどろいた。
 僕の目の前、寝ているおばあちゃんのお腹の上辺りに、丸いほんわかした、りんかくがあってないような茶色の玉があらわれた。玉の回りは、光がガラスにあったように、キラキラかがやいていながらゆがんでいた。
ぼくは、もう一回まばたきした。けれど消えない。目をくるりと動かした。けれどやっぱりあった。
手をそうとのばすと、玉は、シャランキランと音がたつように光をキラキラつれながら、ぼくの手の上にころがった。
「あたしはファリーフ。けやきの木の精。いのちの流れよ。」
茶色の玉が空気をまきこんでねじれたかと思うと、小さな女の子が、ぼくの人指し指にこしかけていた。
 ぼくはやっぱりと思った。だってこのりんごの甘くトロリンとしたにおいのする病室に突然あのけや木の畑のサワーとした風がにおってきたから。
「ファリーフ」ぼくはつぶやいた。
もう、ぼくは、おどろいていなかった。不思議ともおもわない。
ただ、ファリーフが、ぼくと、ぼくの大好きなおばあちゃんのところへきてくれたのがうれしかった。だって、きっと、ファリーフは、おばあちゃんを助けてくれる、生き返らせてくれる。
 ファリーフは、ぼくをじっとみた。ぼくもファリーフをじっとみた。
「あたしとあなたはつながっている。」
 えっ、ぼくは、自分の手や足にひもがついていないかみた。ファリーフはなにをいっているんだろう。
「家に帰る。一緒に帰る」
病室のドアが開いて、またあのトローンとした病院のにおいと一緒に、おとうさんが入ってきた。おとうさんはねているおばあちゃんをさみしげにながめて、ぼくにいった。ゆっくりといった。
「家へ帰ることにしたからな、いいか。前みたいにな、みんなでなかよくくらそうな。」
もう、ファリーフはどこにもいなかった。
「ただいまあ。」
学校から帰ると、ぼくはまっすぐなろう下のつきあたりを、右にひょいとおれた部屋にとびこむ
「おばあちゃん」
いた、ぼくのおばあちゃん。
「おかえり、えらかったなあ」
おばあちゃんはぼくをまっててくれた。ぼくをうれしそうにみてくれる。ぼくもうれしいよ、おばあちゃん
「おう、ぼうず、元気ええなあ、今日はプールあったんか、水イボ、今年はできとらんか」
そうだ、今日はおひげ先生の往診の日だったんだ。先生はぼくを小っさいころからみててくれる。くすりをのまんと、すぐにひげじょりをされるので、先生のくすりはのむようにしている。けれど、先生はめったにくすりはくれない。鼻水ぐらいではだめだ。たいがい、「まあ、こんなもんやろ。ねぎをたくさん入れたあったかうどんでもたべて、ゆっくりねてなさい」でおしまいだ。
 先生はおばあちゃんの下まぶたをひっぱってしげしげみた。そのあと聴診器でゆっくりと胸のおとを聞く。まるでかすかな虫の音を聞くみたいに首をかしげて。
「傷のあとはいたむかねぇ」
先生はそう言いながら、おばあちゃんの腹をさするように押した。おばあちゃんの体は赤い鉄条網がくっいているみたいで傷あとが痛そうだった。先生の大きな手でおばあちゃんの腹はすっぽりとかくれてしまいそうだ。
 おばあちゃんはじっと目を閉じたまんま
「いいえ、ありがたいことです」
と言った。
 先生はおばあちゃんの寝まきの襟を直しながら
「心配せんでええよ。あんたはまめな人やでね。よう働いとる体はちがうわな」それを聞いて、おばあちゃんはうれしそうに
「おかゆもずい分いただけるようになりましたしな、すこしずつですが、口もおいしくなってきましたです。」
と答えた。
 先生の手洗いの洗面器とタオルを持ってきたお母さんも
「さっきも、くず湯をおいしいおいしいって言って飲んでもらいましたわ」
と話した。ぼくはふんふん聞いていた。よくなるにきまってるおばあちゃんは。
 と、先生が「これなんや」と言いながら、おばあちゃんの枕もとを指さした。ぼくは、おばあちゃんが家へ戻ってから毎日1枚ずつけやきの葉っぱをとってきてそれに糸を通してベットの棚にくくりつけているのだ。
 「この子が良くなるおまじないをつくっとるですよ」
お母さんが話した。
「そうか、ぼうずはおばあちゃん子やもんなぁ。ぼうずはいい子やなぁ。ぼうずの気持ちでばあさんよくなるなぁ」
 ぼくは、先生とお母さんの話が気に入らなくて、ぷいと外へ飛び出した。
 ほんとは違うよ。ほんとはファリーフだよ。
 ファリーフとぼくはつながって、ぼくはおばあちゃんと手をつなぐ。
 だから、おばあちゃんはファリーフのシャランキランの命の流れをもらったんだ。
 ぼくはあの畑のけやきの下へ行った。
 夏のおわりだった。あぶらぜみがミャーミャーとにぎやかだった。