おしらせ






 フナクリの20年を振り返って


船戸 崇史

  早いもので今年の2月4日で開業して満20周年を迎えました。まずもって、この世あの世を問わず育てて頂いた皆様(御霊)に深く感謝いたします。  
 ありがとうございました。この機会に一度当院の20年の歴史を簡単に振り返ってみたいと思います。



【 私の理想的医師像? 】

  まず、私が抱いていた医師像についてお話ししましょう。私の場合、(かく)とした医師になる目的はありませんでした。ただ、「できたら人の命に携わる仕事をしたい」と漠然と思っていた程度でしょうか?それが、大きな動機だったかもしれません。
 しかし、ハードルの高い医学部でしたが私立なら可能性があるとは言われたものの、合格させて頂いたのは愛知医大だけでした。夢をかなえてくれた本当にありがたい母校です。
 私の実家は家業が医療ではないこともあって、私の進路は自由度が高かったです。「あなたが良いようにしんせえよ(・・・・・)」(岐阜弁)と両親から言われましたが、きっとこの言葉は、それからの私の人生のベーストーンになっているように思います。つまり、フナクリの20年も例外ではなく、私と家内(博子先生)のしたいことを結実させていったと言って過言ではありません。そうさせて頂けたすべての皆様に感謝です。
 私自身の進路は、消化器外科を専攻しました。ブラックジャックに(あこが)れていたからです。メスで何でも治す。分かりやすい。消化器外科は水が合う程度のセンスで選びましたが、この選択が私の人生を決定づける選択となろうとは思っていませんでした。つまり、「癌」との出会いです。消化器外科は、胃癌、大腸癌、すい臓癌、食道癌、肝臓癌
等の最終的には消化器癌との出会いとなるのです。これは同時に癌を持つ患者やそのご家族の苦悩との出会いでもあったのです。ブラックジャックのようにメスで治れば問題なかったのですが、私のメスでは癌は切れても癌の原因までは切り取れませんでした。つまり、癌が再発するのです。私は常に敗北者になりました。癌を治すために振るったメスで本当に人を救っているのか?という疑問が湧いてきました。勿論、全てではないです。手術を通して沢山の治癒もあったでしょう。しかし、当たり前かもしれませんが、私には治せなかった人の方が重要でした(この段階では、まだ自分が治していると思っていました)。



【 なぜ外科医を辞めたのか? 】
  本当に治しているのか?それに気が付くまでに10年以上の歳月を必要としました。そして、35歳、消化器外科医になって12年目に私はメスを手離したのです。
 いくつかの気持ちが混在していますが、それを敢えて項立すると3つになります。







外科は手技である。沢山の手術を通して、自分で納得のできる手技まで到達していた。綺麗(きれい)だと思った。芸術だと思った。その時に「これ以上やっても同じだ」「もういいだろう」という外科手技への限界感も同時に感じた。
「癌との出会い」消化器外科を専攻するうえでの必然。しかし、癌は原因あって出てくる。その原因は、私のメスでは取り切れない。確かに癌は切り取れる。しかしそれで治したことになるのか?という疑問を感じ始めた。
社会的立場?このままいても病院の外科部長くらい。外科が好きならそれでもいい。しかし、直していないメスはドスではないか?そんな疑問をもった外科医でいいのか?
 そのうち私は考えるようになりました。じゃあ一体「私に出来る事」とは何か?
 患者さんはだれもが「自宅で死にたい」と申されました。死の覚悟ができているのです。しかし、病院の勤務医は往診はできません。多くはその地域の開業医に退院後の治療をゆだねます。しかし、多くの場合、病状が末期ともなると、点滴や尿の管、モニターの管などでぐるぐる巻きの状態です。こんな状態では帰りたくとも開業医にも、家族にも迷惑だし、本人も不安です。(ほとん)ど患者は、「本当は家へ帰りたい。でもこれ以上迷惑もかけたくない」と思うようになり、「このまま病院にいる」選択をされるのです。つまり、最後の時間は自宅で家族と伴がいい。しかし、大事な家族だからこれ以上迷惑はかけたくない。それなら、時間のない自分が我慢すればよい。と、本当は家に帰りたいのに家に帰らない選択をされるのでした。「それなら、そこへ医療者が出向けばよいのではないか?」そうやって、患者さんが家で死ねるサポートをしたい。自然とそう思うようになったのです。
「自分の生まれた家で、自分らしく生き、自分らしく死んで逝けるサポートをする医療」これが開業時のスローガンとなったのです。
こうして、メスを手放しH6年2月4日、岐阜県養老で開業することになりました。


【 なぜ養老で開業したのか? 】
 
 私は洞戸(現関市)の生まれです。開業するなら美濃市付近と決めていました。しかし、結果的に、岐阜県養老町で開業することになりました。
 博子先生の父親(内科医)がこの地に土地を将来病院建設用地として所有しておられ、お貸し頂けたのです。しかし、私にとって西濃地方は縁のある土地ではあるものの(何といっても、博子先生は平田町今尾出身ですから)最終的にこの場所に根着こうと考えた理由は、開業予定地の住所が「船附(ふなつけ)」という地名であったことです。私((ふな)戸)に(つけ)けと言われては着くしかない。と言うより、「()かせて頂く」しかないという感じでした。迷いませんでした。こうして、20年前にこの地に寄せて頂きました。
 


【 平成6年2月4日開院 】
 こうして当院は「自分の家で自分らしく生き自分らしく死んでゆくサポート」つまり、「在宅末期医療」を目指して産声をあげました。開業当初から、私は自宅を病室に、家族に付き添ってもらい、私たち元気な医療者こそが訪問すればよいと考えておりましたので、ベットは持ちませんでした。(診療所も19床まではベットが持てます。有床(ゆうしょう)診療所と言います。一方ベットを持たない診療所は無床診療所として区別されます)その時のクリニックメンバーは、右上の写真で私を含め7名からの出発でした。職員は5名のうち3名は今だにクリニックの顔として働いてくれています。心から感謝です。
 しかし、開業したものの借入金額が大きく当院の損益分岐点は80名。つまり1日80名の患者さんを診察しないと赤字になるのです。開業早々80名もの患者さんに来ていただく計画自体に無理があったのかもしれません。来て下さるのは小児科の患者さんばかり。それはそれで有難いのですが、私はそもそも小児科が専門ではありません。子供は大好きですが、小児の診療となると別で、専門外の診療ほど辛いものはありません。しかし返済のためにはそんなことは言っていられませんでした。加えて本当にしたかった在宅末期医療はと言えば、依頼は1件もありません。最初は意気込んで「頑張ろう」の勢いで我慢しましたが、掛け声だけでは何ともならなくなってきました。「一体何のために開業したのか?」「こんなことなら開業しなきゃ良かった・・」「しかし今はどうか?数字の計算ばかり、一番軽蔑する医者をしているじゃないのか?」「いっそのこと医者を辞めた方が楽だ」とまで思いました。しかし多額の返済を医業以外に返済できる方法はなく、スタッフもいます。一体どうしたらいいのか?この思いは日々募り、私は徐々にうつ状態となったのです。
 

 

【 これで順調な人生? 】
 こうした悩みを、当時尊敬する先生にお伺いしてみたのです。この先生は、「人生に無意味なものは何もない、全ては上手く行っているのだ」と日頃から説かれていました。私は聞いたのです。「こんな私の人生でも、先生は順調だと言われるのですか?」その返事は、簡潔明瞭でした。先生:「はい、極めて順調です。ただ、あなたの思い通りではないだけです。しかしまったく予定通りです。これでいいのです」  私「ええ・・・・・・・・・・・・・・!」
 何かが落ちました。「そうなんだ・・そうだったんだ・・」不思議とそう思えました。心の中から「そうか、それじゃ、やるしかないじゃん・・」という思いになりました。
 すると、何と在宅診療の依頼が入り始めたのです。不思議なシンクロニティー(共時性)でした。


 
【 健康な死をめざして 】

 それ以後はスライドのごとく、在宅医療が徐々に増え、在宅体制も強化されてゆきました。そして、満足度の高い在宅医療を実施できるために4つの条件が重要である事が分かりました。



















条件1、 患者さん本人が「家にいたい」と願う事。
条件2、 家族に人的・精神的サポート体制がある事(=介護者の介護力と許容力)。
条件3、 在宅医療をサポートする医療体制(訪問診察、訪問看護など)の充実。
条件4、 経済的問題。
 そして、在宅医療では、新しい発見もありました。死亡診断書の死因(=病名)です。在宅医療では、死因が老化現象としか思えない時があるという事。勤務医だった時の世界観は病院のみでした。よって、病気で来院される以上、死因は全て病死だったのです。しかし、在宅では違いました。老化が原因での老衰という死に方もあるのです。これは新鮮でした。生きて生きて死んで行く様は、あたかも、老木朽ち果てて静かに倒れるが如くだったのです。これを大往生と言わずして何が大往生なのか?と思いました。健康な死があるという事。
 私の在宅医療の目的も、だれでも必ず訪れる敢えて「死」をフォーカスして「健康な死を迎えるため」に定まりました。健康な死を迎える条件は、ただ一つ、その人らしくピンピン生きる事に他なりません。つまり、あなたらしく生き切る事。そのサポートをしたい。その生き様が端的に表れる瞬間があります。それが「死に様」なのです。「終わりよければ全て良し」(シェークスピア、戯曲)なのです。
 その為の体制が形として、スライドのごとく進展してゆきました。形としては、在宅体制強化(介護保険サービス導入等)でした。当初は、その患者さんの「自宅」が病室という設定でしたので、入所施設は作りませんでした。
通所系サービス(デイケア等)と訪問系サービス(訪問看護等)で、自宅療養をサポートする事が目的だったのです。しかし、その後、徐々に介護環境(介護力)が低下してきたのです。介護者不足、介護者の高齢化は想定されていましたが、2000年導入された介護保険は介護力不足の強力な助人(すけっと)である一方、介護力あるご家族からは介護意欲を低下させているケースが散見されたのです。  何であれ、自宅療養の(かなめ)はご家族です。そのご家族が介護困難となる事例がある以
上、入所系の施設整備も必要となりました。
 その為、H17にグループホームを海津市
平田(天の花)と関市洞戸(天津風)に開所しました。当院では初めての入所系の施設です。こうした歴史は、いうなれば目的に向かった在宅体制の強化であり、見方を変えると
「われわれの夢の実現」でもありました。






【 当院の医師陣 】

こうした在宅体制強化、夢の実現は当院の職員によって推進されています。H26,8月現在職員は150名。本来は全員を紹介できるといいのですが、その中核をなす医師陣をご紹介しましょう。まず博子先生。西洋医学的には眼科出身ですが、現在は漢方専門に診療しております。邱先生という中医の大家を理論的な師匠として、今では博子先生オリジナルの診療スタイルで多くの患者さんの診療に当たります。金親先生は、専門は泌尿器科ですが、広く一般内科、外科外来から訪問診療までマルチにこなされるスーパードクターです。患者さんとしっかり向き合うために、自分自身の体調をしっかりコントロールされ、一期一会の出会いに入魂した診療をされます。森先生は精神科の医師で、なんと私や博子先生の大学の恩師でもあります。超ご多忙な診療なのに、いつも笑顔でお一人おひとりの患者さんと出会われます。精神科医師らしく深い洞察のうえでの言葉がけは流石です。中川先生は、循環器内科が専門ですが、当院の内科全般も診療して頂けます。学術的で常に新しい知識と情報を持たれているので、我々の助けの神様みたいな存在です。粥川先生は、精神科医師ですが、そんな男衆の中で若い美人エネルギーを炸裂させています。スピリチュアルな医師で現在は訪問診療を中心に診療してくれています。仕事も趣味(お茶)もとても博子先生と馬があい、姉妹のようでもあります。二人絡むと、糸の切れた凧状態。どこへ行くかわかりません。守屋先生は、家庭医の資格を持たれた在宅医療の専門医です。漢方の医師でもあり、当院の在宅患者をキメ細かく診療いただける美人女医さんです。伊藤先生はイケメンの循環器内科医です。とても優しく真面目な医者で現在は癌のターミナル医療にも関心を持たれ、私と一緒に癌診療を学んでおられます。写真はないのですが、もう一人麻酔科でホスピス医をしていた医師も見えます。癌性疼痛管理の師匠でもあり、現在も癌にかかわらず難治性疼痛に関してはこの先生の存在が欠かせません。当院の医師陣に共通点があります。とても誠実でどなたも努力家です。そしてなにより、笑顔が素敵。これからも宜しくお願いします。



【 病気とフナクリフォーラムの目的は同じ 】

 
 病気はあなたの人生の中の(いろどり)にすぎません。病気そのものは、実は良いも悪いもないのです。きついことを言いますが、病気はあなたの生き方への当然の結果なのです。つまり、あなたの生き方への注意、警告だともいえますね。大事なことは、その病気の経験を通して生き方の間違いに気付き、生き方を修正することです。私の20年の臨床経験から、すべからく全ての病気がそうだと教えてもらいました。病気はあなたの生き方を転換するきっかけにすぎなかったのです。しかし、生き方の転換は、実は病気以外でも起きます。
 人生の先駆者やファッシリテーターと言われる方々の生き様に接することです。ですから、私はこの20年で、60回以上に亘り講演会(フナクリフォーラム)や音楽会を開催してきました。講師や演奏者は、その時代を代表する、とても生き方が素敵だと私が感じた方々で、新しい感動、気付き、安らぎ、満足、ひらめき、意欲、希望を与えてくださいました。スライドに上げさせて頂きました方はそのほんの一部の講師の方ですが、これら多くの講師の方々とはいまだに交流を持たせて頂いています。この紙面をお借りして、深く感謝申し上げます。
(昇先生は、笑いと健康。越智先生は、人生すべては上手く行っているというカニ踊り。五日市先生は「ありがとう」の効用。帯津先生は、責めの養生。野口さんは、座禅断食指導。山下さんは断捨離。上田さんは、暖かい眼差し。サイモントン博士は、イメージの力。本道さんは料理の持つ力。天外さんは、フロー経営など教えて頂きました。感謝です。)



【 在宅医療からのメッセージ 】

 そして、開業して20年、在宅診療にて当院で1か月以上診療をした患者さんの総数はH26年2月までに1105名。そのうち在宅死総数763名でした。平成6年に開業してから、データを取り始めたのが平成8年ですが、スライドのごとく毎年徐々に看取り件数が増えてゆきました。多くの場合、
この看取り件数の概ね6割が癌死で4割が非癌死です。癌の場合、約9割は在宅で看取りが出来ますが、非癌の場合は、4割程度で、どうしても急変時に救急外来受診され、帰ってこられませんでした。末期癌の方は、それだけ本人もご家族も(在宅死の)覚悟をもって退院していると言えます。
 当院の場合、退院後の在宅療養期間は癌末期では平均1,5月で、非癌(脳卒中、心不全など)の場合は2年です。最期寝たきり期間は短い方が良いと言いますが、最期を選ぶなら癌と非癌、あなたはどちら?本当に沢山の魂と、その最後の時間を診療という形ですが、寄り添わせて頂きました。そこでは、医療を超えた対話がされました。こうした命を懸けた対話から、われわれ医療スタッフもスピリチュアルな成長をさせて頂けたと思います。
 それは、現段階で5つの在宅医療からのメッセージとしてまとめることができます。
 在宅医療からのメッセージは、どの魂からも大小あれど等しく感じさせて頂きました。
 このメッセージをとおして私たちが一体何者か?が炙り出されてきました。

1) 生き様は死に様。人は生きてきたように死んで逝く
 死に様だけを生き様から切り離すことはできません。もし、潔く死にたいなら潔く生きるしかありません。これをPPKといいます。ピンピン
コロリですね。PPKとは、ピンピン生きてコロッと死にたいという願いだけではなく、コロッと死ぬためにはピンピン生きろというメッセージも込められていたのです。私は、この「生きる死ぬ」を俯瞰(ふかん)した時、「人生有限だからこそ価値がある」と思います。我々は有限を生きる存在なのです。

2) 自分の命は自分の命のみにあらず。自分の生き方こそが本当の遺産。
 あなたという生命体は、心臓の鼓動の終焉(しゅうえん)とともに終わります。しかし、あなたが大切にしたもの、ことのすべては、あなたを愛する人々によって間違いなく引き継がれてゆくものです。そこに実は「あなた」は生きているのです。2500年前のブッダや2000年前のイエスも、その意味では現代も生きていると言えます。私たち全員は、間違いなくお互いに影響しあって生きて行きます。間違いなくあなたという存在はあなたをはみ出して、縁ある人々とつながっているんですね。われわれは、つながっている存在である。

3) 自分らしく生き切ることの条件は「覚悟」である。
 私たちは繋がっているが、一人一人には侵しがたい確固たるその人、個性がある。個性は、その人にしかできない、その人だからこそできた光、輝きであり何人(なんびと)も代わり得ない。掛買のない存在である。だからこそ、あなたらしさを輝かすことが重要であり、どうすべきかではなくどうしたいかを追求することが重要その為に必要な気概は「覚悟」である。
 私たちは、私でなければならない絶対的な個性を持つ存在。

4) 人生最後の言葉がある。
 多様な人生があるのに、その最後となると思いのほか遺される言葉は少ない。しかし、その少ない言葉の中で人生の全てを万感こめて伝える。「ごめんね、ありがとう、また逢おう、愛してるよ」最後の最期に「さようなら」この5つの言葉に、その人の人生を集約させうる。(ゴーギャンは、「我々はどこから来てどこへ行くのか?我々は何ものか?」という名作に「言葉の無力さ」と書いている。私は「言葉では表しきれないもどかしさ」だと解釈するし、()いては人生の重厚、深遠さを表現したのではないかと思う)人生とは「意味がある」ものであり、私たちが生きる目的は、すべからくこの、「人生の意味」を味わうためである。

5) 人はただある(存在する)だけでも「命の輝き」を醸し出す存在である。
 Kちゃんとの出会い。彼は障害をもって産まれた。話すことも動くことも泣くことすらできなかった。脳がないからだった。しかし、彼は計り知れない愛と絆をかかわったすべての人々から引き出して、そして死んで逝った。人は、何かをしなくては価値がない存在ではない。ただあるだけでも命は輝いている。我々の意味は、「存在」しているだけでもある。



【 われわれは何者か?(考察) 】
在宅医療からのメッセージから、私が考察する「我々は何者か?」について書かせて頂きます。あくまで現段階での考察です。

1)
人生は「生と死」を体験するからこそ、有限だからこそ、精一杯生きようとするのではないか?ひょっとしたら、私たちは本当は無限に生きる存在かもしれない。 無限の意味を深め、味わうには、敢えて有限を設定して生きるという計画したのではないか?或いはまた、本来は無限も有限もない存在かもしれない。時間や空間なんてない。時間と空間は仮想現実かもしれない。

2) 間違いなく、あなたの肉体と私の肉体は別々です。しかし、間違いなく私たちは相互に影響し、影響され繋がりあって生きています。 本当は私とあなたとは繋がった存在であるからこそ、それを深く味わうために、敢えて別々の肉体を持つのではないか? 左手を見てください。親指と人差し指は別々です。しかし、手のひらで繋がっているのです。ただ、親指は自分だけしか見えない、しかしだからこそ、繋がりを実感した時に深く理解し納得するのではないでしょうか?

3) しかし、全てが親指では手の機能が制限されます。手が手として十全に機能するためには、親指は親指で人差し指は人差し指である必然があるのです。決して他の人には担えない代え難き
働き、あなたにしか出来ない働きがあるのです。

4) 人生とは「人生の意味①感謝する、愛する事を学ぶため②意味のないものは何一つない」事を学ぶためにある。







【 結語 】
  現時点での私の在宅医療からのメッセージ、スピリチュアル編では、この結語に
収斂(しゅうれん)されます。
























【 これから私は何がしたいのか? 】
 
 それは、言葉にすればこのフナクリ理念にまとめられます。
 ゴーギャンではないですが、あまりに言葉は無力に感じますが、思いの深さや真剣さはここで書くことではなく、皆様に感じて頂くことだと思っています。どこまで行ってもきっと真善美の真理の如く、終わりのない追及になると思います。しかし、笑顔をもって愚直に実践してゆきたいと思います。
 人生終わって、彼方(あちら)に還った時に、きっと会える両親に胸を張って「ただいま」って言って会いたいから。私はただ、それだけがしたいのかもしれません。