おしらせ






 「死に方上手」は「生き方上手」のコツ


船戸 崇史

  一番重要なことは、「死に方上手」な人は、間違いなく「生き方上手」でもあるという事でしょう。
なぜなら生き方=死に方ですから。
 しかし「生き方」にはあまりに沢山のバリエーションがありますが、「死に方」にはなぜか同じような収束感を感じます。「死」は、個人的能力や個性を超えた何か人間の共通の地下茎に繋がってゆくベクトルなのかもしれません。「死に方」の決まった形をしっかり抑える事は、きっと「生き方上手」のコツだと思うのです。


【敢えて死を見つめる】

  誰でも必ず訪れる「死」は、心情的にあまり考えたくないためか、比較的曖昧にして生きている傾向があるのではないでしょうか?
 年間、60名以上の在宅死を間近に経験している私でさえ、家族や自分の「死」についてはあまり考えたことはありません。いや、考えないようにしいてるのかもしれません。押して言うなら「その時にならないと分からない」という頭の中のブラックボックスへ入れている(ファイリングしている)かもしれませんね。
 しかし、何が起こるかわからない現代、一度でも良いので、「死」から今の自分を見てみることは決して無駄ではない・・どころか、思いのほか深い発見をされると思いますよ。
 そうすれば、私も沢山の在宅診療をさせて頂く中で、よく聞く「なぜこんな事になった?・・」「なぜもう少し早く気付けなかった?・・」という、反省とも後悔ともとれる言葉が少なくなるだろうと思うからです。「まさか・・!」はいつもあるという事。「その時にならないとわからない」では、追いつかない時もあります。
 さて、「死」を想定した時に、上手に逝くための3つのコツがあります。


【 死に方上手の3つのコツ 】

 
1) 時代背景を理解する
 2) 死にゆく過程を理解する
 3) 死から今を見て準備する



 1)時代背景を理解する

 
 図1を見てください。
 日本人口の推移です。江戸時代の300年間は鎖国でした。
 よって、日本という国土の中だけで生存可能な人口は約3,000万人だということがわかります。                 
 しかし、明治維新後100年で日本の人口は12,000万人になりました。(100年で人口が4倍以上になることを人口爆発といいます)文字通り日本は人口爆発したのです。しかし一転、図のとおり2004年を人口のピークとして、それ以後は急速に人口減少(収束)の時代(=多死時代=超高齢社会)に入ります。そうです、私たちは、人口収束の時代に生きているのです。周囲は老人で溢れ、老化が原因の病気も当然増えるでしょう。
 日本人の3大死因である癌、脳血管疾患、心臓病は、いずれも老化が大きな原因です。また、現在急速に増え社会問題化している認知症や整形疾患(変形性関節症、脊柱管狭窄症、骨粗鬆症など)、白内障から難聴まで原因は老化によるところが大きいと言えます。そして、最後「死」を迎えるのです。このように想像すると、これからの日本は、近未来、周囲は病気や老化による不自由なご老人で溢れかえる時代となるでしょう。
 こうした、人口構成への変転の勢いは、これから100年は続きます。


【平均寿命と健康寿命?】
 
 しかも、図2を見てください。これは、現代日本人の健康寿命と平均寿命のグラフです。平均寿命は男性79才、女性89才。健康寿命は男性71才、女性76才。つまり、男性は78―71=7年間。女性は89-76=13年間は「要介護状態」であるとデータは示しています。現代日本人の平均として最後10年間ほどは、他人(ひと)様(さま)のお世話にならないと(=要介護状態)「死」ねないという事です。 
 つまり、これからの日本では、急速に老齢人口が増え、その結果多死時代に突入し、これから100年程度後には、明治維新当時の人口(3,000~4,000万人程度)まで減る可能性が濃厚なのですね。しかも人口構成員は老齢者ばかりという事です。





【希望する看取りの場所】

 次に看取りの場所を見てみましょう。少し古いデータですが、図3は、2006年に国の示した死亡場所の見込みです。2030年、年間の死亡者は160万人を超えると想定され、そのうち47万人もの「その他」が生じうると推定されました。問題は「その他」ってどこ?
 勿論、不明です。厚労省の局長は、その時の講演では、「死に場所のない人」と表現されました。              
 その時に、フロアから「その死に場所のない人への国の施策はなんですか?」という質問がでました。局長の回答は「明瞭(・・)な解決策は、ありません」という明瞭(・・)なものでした。あと16年後ですね。
 そして、もう一つ大事なことは現在約120万人の年間死亡者がありますが、その人たちの死亡場所です。約8割が病院で、残りの2割のうち約1割が在宅、1割が施設となっています。もし、「自分の最後は自宅の畳の上で、子供たちに看守られ死んでゆく」なんていう理想を抱くとしたら、それは非常に困難だという事です。それどころか、16年後は、「死に場所」すらない47万人に入らないという保証はないということ。
 如何でしょうか?重要なことは、私たちは、今、その日本に生きていて、近い未来にその日本で死んでゆくという認識です。
 今後、病弱な超高齢者を誰がどこで診て最後を看取るか、伴って増えるであろう疾病対策、増加する医療費や保険などをどうするか?は行政(国や自治体)の課題ですが、近い将来、老い死ぬのは自分自身です。どうやら、自分の人生の最期を看取る国の力は貧弱であるという認識を持つことは重要ですね。
 しかし、超高齢時代、多死時代を乗り切る明瞭な方策はないと言っていた国は、近時、明らかな方針を出しました。「施策を総動員して在宅医療推進」を掲げたのです。図3で明らかなように現在自宅で亡くなられる方(これが在宅医療)は12%程度です。
 個人的に私は大賛成です。理由は簡単で、最後に人は「家で死にたい」と申されるからです。日本医師会のアンケートでも6割の方が自宅での療養を希望しています。
 私は多死時代の環境にあって、「家族に見守られ畳の上で死ねる」事は夢であったとしても、最低限、人を独りで死なせてはいけないと思っています。せめて、屋根の下で、家族でなくとも暖かな人の中で最期を看取ってあげることはできないか?それがせめてもの、最後の人間の尊厳でしょうから。それを模索してゆきたいと思っています。
 今後、皆様お住まいの自治体や医師会は、「在宅医療」をキーワードにした講演会、セミナーをどんどん開催されると思いますが、どうぞ受講頂き、皆様の地域の現状をよく知ってくださいね。それが、貴方が在宅で死ぬための「コツ」なのですから。

 
 2)死にゆく過程を理解する

 さあ、如何でしょうか?私たちの死にゆく近未来の環境はお分かり頂けたかと思います。繰り返しになりますが、これからの時代は「社会保障(医療)に期待しないようが良い」という事です。求められている力は他力(公助)ではなく自力(自助、共助)なのです。
 そこで、次に重要なることは、では一体私たちが一番恐れている「死」とは何だろう?という事です。これが、「死に方上手」の2つ目のコツです。


【死にゆく過程】

 在宅末期医療を行っていると、しばしばこうした言葉を聞くことがあります。「先生、私は死ぬことは仕方ないと諦めています。(時に「怖くありません」という人もいます)でも、どうやって死んでゆくのかが怖いのです」私も死んだ経験はありませんが、沢山の看取りの中で死にゆく過程に「形」があることが分かってきました。それを、大胆に図式化すると図4となります。この図の中で大切なことは、生活ラインである上のライン(ADL)から下のライン(死)へ向かって、人は必ず右下へと下がるということです。角度や時間はまちまちですが、低下した分必ず何らかの介護を必要とします。ですから、全身状態が低下すればするほど介護量は増えることになります。
 重要なことは、必ず人は角度や時間の差はあれこのグラフの様に右下へと下がってゆくという事実です。大事なことは、このグラフの介護量の増加は、即ち迷惑量の増加であり、迷惑を掛けずに死ぬことはできないという事です。ですから、もし貴方が本当に家で死にたいのなら、「最期迷惑をかけるけどごめんね。だから、家で死なせてね」と宣言するのです。
 あとは、家人が考えます。思いやりある患者さんほど、「これ以上迷惑をかけたくない」と思い、死への覚悟も出来ている故に「家から出る」ことを選択される場合があります。本当は家が良いのに。その気持ちは家族は知っています。事が終わったあとに、「なぜ家で死ねなかった」と遺族の後悔にもなりかねない。最期くらいは、本当のあなたの希望を言われていいと思います。遠慮はいらない。終わるから。それが、人間の尊厳ですよ。


【点滴の罪】

 「生きる」と「食べる」は「イコール」です。「食べたい」=「生きたい」のです。しかし、「食べない」と「食べられない」は違います。病状が進むと、「食べられなく」なるのです。すると周囲は、「食べなきゃダメ」と言います。その通りですが、出来ないのです。この段階で「点滴」という選択肢が登場しますが、これには注意が必要です。
 魂が「抜けよう」としている段階(末期)で、点滴をするとは、強制的な栄養補給です。すると、体の側は「留まろう(=生きよう)」とします。抜けようとしているのに、点滴を行う(留まろう)とすればそのギャップは苦しみです。勿論、現代医学で治せる状況なら、どのような手段も講ずるべきですが、所謂末期で「食べられなくなった時」の話です。体に浮腫がでた段階で、点滴は余分だという証拠です。私は本人の状態を見ながらですが、点滴を絞る、もしくは中止します。
 え?しかし、点滴しないと辛いでしょ?って思うかもしれませんが、それは間違いです。私の経験では、たった3日間の座禅断食から実感できます。実は断食(=点滴しない)をすると、必要なエネルギーは心臓、肺、腎臓など重要臓器(おもに内蔵)に回され、直接「生きる」ことに関与しない臓器(筋肉や脳)は極力最小限度に抑えられます。そのため、断食中は実によく寝られます。寝ても寝ても寝れるという感じですね。  
 死を直後に控えて、煽(あお)られる不安は脳が創造した想像の産物(幻想)です。その脳機能が強制終了されますから、「不安を感じない」=「楽である」と言えるのです。つまり、人間は、最後は栄養(点滴含め)は入れないほうが楽だと言えるのです。「ああ、だから最期人間は食べられなく(・・・・)なるんだ~」と私は思いました。嘘だと思ったら、どうぞ当院で行っている座禅断食会に参加してみてください。実感できますよ。


【引導とは?】

 そして、最後が来ます。これは必ず来ます。しかし、死ぬ間際にご家族にお願いしたい重要な役割があります。それが「引導」です。家族や友人にはぜひその引導をお渡し願いたい。私の経験では、その引導をお渡しすると、多くの場合、患者さんは静かに息を引き取られることが多いです。
 「引導」とは、「よく頑張ったね。もう逝っていいよ。ありがとうね」という死への許可です。一方ギリギリの段階で、一番辛い言葉がけは「死なないで。もっと生きて」です。心情としてはわかりますが、大事なことはこの言葉は誰のためかをはっきり認識する必要があります。引導とは死への許可であり、本当はご家族や親友が渡すものでしょう。およそ医療者や宗教者はそのお膳立てをする準備係と言ったとことろではないでしょうか?


 3)死から今を見て準備する

最後のコツは、「死」を自分の事として引き寄せてみる、という事です。つまり、死から今を見て準備するという事です。では、どんな「準備」があるのでしょうか?
 


【準備1:どんな病気で死ぬか?(死因)】

 
   
<自分の死因想定の3つの切り口>
i 、現在の内服薬で考える
 現在服用中の薬があるなら、その薬の効用から想定します。高血圧、動脈硬化、脂質異常症などは、血管のダメージを減らすための薬です。血管の破綻(=出血)や、血管閉塞(=梗塞)が脳の血管で起これば脳卒中、心臓で起これば心筋梗塞ですね。つまり、こうした薬をお飲みの方は、同時に脳血管障害や心蔵病が死因になる可能性が高いとも言えます。
ii
、日本人の死因から考える
現代の日本人の3大死因は、癌>心臓病>脳血管障害となっており、約6割の人がこれらの死因で亡くなられます。(ただし死因の順番では、一昨年より第3位に肺炎が入っています)つまり、あなたも好き嫌いに拘らずこれらの病名が死因である可能性が高いと言えます。
iii 、家系から考える
癌や糖尿病、高血圧まで家系としての遺伝的な要素は大きいです。病気の結果の死で考えれば、家族親族の死因は、同時にあなたの死因かもしれません。


【準備2:どこで死ぬか?】

 実は死に場所とは先にも書きましたように、それほど多くはありません。病院、ホスピス、自宅(在宅)、介護保険施設くらいでしょうか。(図5参照)
 実は現代日本において多くを占める「病死」は概ね以下のような流れで最期を迎えられておられます。


 図5のごとく、死に場所は病院、在宅、介護施設、ホスピスですが、そこへ至る途中にほぼ必ず「病院」を経由することが分かります。つまり、病院から次の場所として、在宅も介護施設もホスピスもあるという事です。診療所では、在宅や介護施設での「死」に関わることが多いですが、それでも多くの場合、途中で病院をくぐります。
 (上記の「診療所」は、基本的に「無床診療所」を言います)
 実は、「途中、病院で治療する」のですが、病院医療は今後ますます急性期医療に特化する方針です。つまり、ずーと病院入院は有り得ません。現在も概ね3ヶ月で退院を迫られます。次なる療養場所は「在宅」か「介護施設」か「ホスピス」となりますが、場所によって特徴(制限)があります。
 ホスピスは現在、癌末期AIDSしか入れません。しかも、救急車での乗り付けもできません。事前予約、エントリーという手間がかかります。入所に概ね1~2ヶ月待ち。(しかし、非常にレベルの高い緩和ケアを実施されています)
 介護施設は、老健(老人保健施設)特養(特別養護老人ホーム)グループホーム、ショートステイやその他、サ高住(サービス付き高齢者住宅)なども整備されてきておりますが、医療者の配置も少なく、終(つい)の住まいとなると、特に医療依存度の高い方(気管切開、胃チューブ、中心静脈栄養、人工呼吸器など)は施設側が拒否されるケースも多いです。
 在宅ですが、こうした中で現在注目されています。在宅医療の適応は、原則「歩いて通院できない全ての人」が対象です。今後増えるであろう認知症や老年症候群も老化が大きな原因のため、治癒が望めません。つまり治す事が目的の医療の対象ではないのです。在宅医療では、医療者(医師、看護師、歯科医師、薬剤師など)が訪問し、自宅を病室として、家族を看護・介護師としてケアしてもらいます。しかし、家族の負担は大きいです。
 実は、最後の死に場所は、途中必ず経由する病院を出る時に、次に行く3つの場所(介護施設、ホスピス、在宅)のどこを選ぶかという選択時に決まったと言えるのです。
 

【本当に自宅で死にたいならば・・コツ】

 先にも書きましたとおり、通常は最期は「自宅」が良いと言われる方が多いです。しかし、重要なことは誰が介護(食事、大小便、更衣、入浴などの世話)をしてくれるかなんですね。
 その介護担当者(想像して見てください)と、ご自分の人間関係は良いか否かが最も大切ですね。自分の世話をしてくれるであろうその人との関係が悪いとなかなか自宅へは帰れません。帰っても十分なケアは望めませんね。よって、もし、最後自宅へ帰りたいのであれば、今からケア担当のその人との人間関係改善(修復)を進めておく必要がありますね。介護する人がいなかったり関係改善困難な場合は介護施設とかサ高住という選択肢になりますね。
 経験上、関係改善の糸口は「現金」ですね。「毎日笑顔付きで渡す」有効です。


【準備3:いつ死ぬか?(死ぬ時期)】

 皆さんはどういう時に「もう死んでもいい!」って思えますか?実は人間、幸せの絶頂時は「死んでもいい」とか「死ぬほど幸せ」と表現します。そうですね、実は死への許可は、苦しい時ではないのです。苦しい時には「死んでも良い」のではなく「死んだほうが良い」と表現しますね。ですから、「いつ死ぬか?」と問われて「今でしょ!」と言えるように、いつ死んでも良いような「幸せな状態」に日頃から「居(あ)る」ことが重要です。
 ではどういう状態が「幸せ」なのでしょうか?それは、人まちまちでしょう。しかし、私はその人たちに共通項があることに気がつきました。幸せな人は間違いなく皆さん「笑顔」なんです。これは重要な指標です。笑顔の良い人に悪人はいません。笑顔の人は、今を生きています。笑顔のある人は余裕と信頼と愛と力があります。そして幸せな人はいつも微笑んでいるのです。そして、もう一つ笑顔の持つ力、それは「笑顔は伝染する」のです。笑顔は周囲を照らし励まし希望を与えます。そうです、「笑顔が幸せを運んでくれる」のです。
 「いつ死ぬの?」「今でしょ!」と言うためには、宮澤賢治のように「イツモシヅカ二ワラッテヰル*」状態なのです。(*:「雨ニモ負ケズ~」より)
 

【準備4:財産分与(遺産相続)の予定?】

 これは重要ですが、基本的に残す遺産は少ない方が良いのではないかと思っています。多いと、取り分の争奪戦(相続争い)になりかねないからです。少なくては争いようがない。しかし、そもそも遺産とは本当は現金や不動産ではなく、あなた自身の生き様ではないでしょうか?残るものはお金でも、本当に遺したものは、その財産の貯め方だったりするものですね。人間としての生き方を大切にした遺産ならば、どれだけ財産が遺ろうが遺らまいが争いにはならないでしょう。しかし初めから無ければ争い様がないということです。自分で貯めたお金はどうか、自分のために使おうではありませんか。親が思うほど子供は残したお金を喜ぶとは限りません。寧ろ自立した子供は親の財産などを宛にはしないでしょうから。


【準備5:やり遺した仕事(関係性の修復)はないか?】

 この場合、仕事というのは貴方にしかできない関係性の修復を言います。私の経験では、人は最後を自覚すると今までの人生を振り返り俯瞰(ふかん)するようです。
 捻れてしまった人間関係は「死」を前にしたら、なんと小さく詰まらないことに拘(こだわ)った結果だったのか・・・と感じられて後悔される場合もあります。この時に、本当に訪れる「済まなかった」という思いは、本人から声の出るうちに陳謝、感謝されるのがベストです。しかし覚悟が決まった時には皮肉にも声が出ないものです。そういう時は、家族からお話頂くのが一番いいと思います。ですから、往診時、余命があと数日と感じた時には、私はいつもお伝えします。「あまり時間はありません。お礼を申される時期になりました。どうぞ、今までの人生を振り返られて、思い出を話しそして陳謝と感謝を述べてください。ご本人は耳は聞こえていますから・・」と。これが関係性の修復となる時もあります。なぜなら、決して家族、親族とは言え、良好な関係ばかりではないからです。いや、むしろ近いからこそ関係が捻じれてしまうことも多いようです。しっかりと陳謝と感謝が述べられることが、最後の引導にも繋がるものです。
 貴方との人間関係の修復は、ぜひ生きている間に行ってきれいにして還ることが重要です。
なぜなら、貴方との捻れた人間関係の修復は貴方しかできないからです。
 

【準備6:死に方宣言したか(延命措置への考え方)?】

 そうは言っても、時として急変は救急搬送となり、その結果予期せぬ(希望しない)医療措置がされてしまう場合があります。現在の日本の法律では、いかなる方法も「命を短くしようとする意図的行為」は違法(有罪)です。現状では治る可能性がないのに、既に胃瘻(いろう)が入っている、中心静脈栄養されている、気管切開(や挿管)がなされ人工呼吸器がついてしまっている状態では、心臓が止まるのを待つしかない・・という事です。点滴、胃瘻、呼吸器いずれも装着されているのに中止する行為は、継続すればまだ続くはずの命を短くする行為(違法行為)だからです。この医療行為を延命処置といいます。延命処置にしても「当然でしょ」という方と、「自分なら嫌だ」という方もおられると思います。大事なことは、その表明を元気な今だからこそ行っておく必要があるということです。
  いつ何が起こるか分からないからです。


【尊厳死宣言書】

 そこでお勧めなのが「尊厳死宣言書」です。この宣言書は、日本尊厳死協会が後ろ盾となっている格式ある書面です。特に決まったフォーマットがあるわけではないのですが、基本的に延命措置はお断り、しかし苦しみを取る措置は最大限行うなどの内容が記載されています。これを書いて頂くにあたって3つの注意があります。
 
1) 間違っても「安楽死」と書かない。実は、安楽死と尊厳死は厳然と別物です。安楽死とは「命を短くする行為の結果としての死」を言うのです。よって、現在の日本では有罪です。よって、間違っても「安楽死」とは言わない。「尊厳死」と申してください。
2) 一人で書いて、こそっとタンスにしまわない。そもそもこれは「宣言書」です。書く時には、ぜひご家族で一度この話題をだし、「私は書くので、宜しくね」と身近な人に宣言してから書いて下さい。出来れば、他の家族も書かれることをお勧めしたいですね。
3) ただし、これさえ書いて周囲に宣言すれば大丈夫!ではありません。決して全ての医師が尊厳死を受け入れているわけではありません。しかし、徐々に増えていることは間違いありません。ただ、救急救命医は「理由の如何を問わず救う」が至上命題です。時には、救急搬送=救急救命医との出会いなので、そもそも救急車に乗った段階で既に運命は始まると言えます。しかし、助かる可能性もある以上、やはり救急車は避けられないので、やはり、救急救命医に「尊厳死宣言書を提示」するしかないかもしれません。
 死に方上手のコツとは、いつ死んでも良いように今を生きること。いつも笑顔で楽しく生きる。そんな事できないよ~というかた、まず「笑顔」でいる練習をしましょう。すると間違いなく「幸せ」がむこうからやってきます。そしてきっと、こんなに幸せなら「死んでもいい」と言えたとき、最高の生き方上手であり死に方上手なのだと思うのです。
 

【準備7:いつ死んでもいいように、平素から笑顔と感謝で生きる(実践)】
    (尊厳死宣言書に臓器提供意思カードを加えて作成してみました↑)