「あの世」の価値 ~死に逝く人との接し方~ 

船戸 崇史
 
 前回号で「人は癌が治らなかったら死にます。しかし、癌が治ってもいずれ死ぬのです」という、思えば当然の人の宿命を書きました。
 そこで今回は、「死と直面した時の接し方」について、考えてみたいと思います。ちょっと厳しいテーマですが、いずれ来る自分の為にも一緒に観て行きましょう。
 人とは、全人的存在です。よって全人的(多面性を持つ)存在を、肉体的存在、精神的存在、社会的存在、魂的存在と因数分解して、それぞれを肉体編、精神編、社会編、魂編の4つに分けて考えてみることにしました。
 総論に次いで、医療者からの視点、介護者からの視点で簡単に紹介しました。
 特に魂編はかなり偏った内容かもしれませんが、この文章は私の臨床経験と価値観で書いておりますので、ぜひ楽しんでお読みくださいね。



人の死に逝く過程(肉体編)
  
 最期、人は必ず「生」のラインから「死」へ向かって右肩下がりに生命力は落ちて行かれます。肉体的には食欲が落ち不眠となり時に昼夜の逆転が起こります。移動能力も低下し、結果的に大小便の介助が始まります。これは精神的にかなり辛く、人間の尊厳を損ない生きる意欲を無くす出来事でもあります。栄養が低下し同一体位が多いと、床ずれ(褥瘡)が出来ることもあります。こうして、徐々に衰弱し意識状態も低下し呼びかけに反応が低下し、最終的に心拍数が低下し呼吸回数も減って心肺が停止します。医師により死の3大兆候(瞳孔散大、心拍停止、呼吸停止)が確認され死亡と診断されます。この過程は、心臓発作や脳血管疾患では、一気に進む場合もありますが、途中で病状が安定し、麻痺を残して小康する場合もあります。癌は消耗性疾患であり、時間経過とともにADLは右肩下がりに低下する場合が多いです。ADLが低下するにつれて介護量も増えます。今後多死時代に向けて、増える死亡者をケアする介護者が不足するため国は西暦2000年より介護保険制度を導入し、介護()を介護()に置き換え対応しています。


【 医療者編 】

 こうした状況を医療者は良く知って、事前にご家族に説明すると家族は安心されます。食欲が低下された場合は、かつてはPEG(胃瘻)が良く実施されましたが、現在は少なくなりました。点滴は今でも行ってほしいと言う要望はあります。ただし、「食べないと死ぬ」のではなく「死ぬ時期が来ているから食べない」という認識は重要です。この点は医療者ははっきりと伝えるべきです。家族は時に点滴を要請しますが、その点滴は誰のためか(・・・・・)を確認する事も重要です。自分ならしてほしくない点滴を家族には大切であるが故に要請するのです。しかし、誰のために大切か?確かに、どうするかを家族に選ばせるのは酷な場合もありますので、そうした場合は、「点滴の有無は医療者に任せてください」とお話しする場合もあります。
 重要な事は少しでも安楽に最期(そのとき)を過ごしていただく事だと思います。最終的に患者の安楽が最も家族をも安楽にしてくれるからです。
 時には内服薬が奏功しますので、肉体編は西洋医学が特に有効です。


【 介護者編 】

 多くの場合は、家族は初めての経験です。大切な人が亡くなって逝かれるのを看取るのは心情的にも肉体的にも不安で辛いものです。「どうなるか分からない」と言う気持ちは最も不安を(あお)ります。ですから、どんなことでも分からない事は医療者に聞きましょう。「こんなことを聞いては悪い」と思うときは、「こんな事を聞くのは悪いと思いますが・・」と言って聞けば大丈夫です。ただし、わたしの経験では、自宅で大事な人を見送るのは、介護者が一人ではかなりストレスが大きいです。出来たら、介護を替わってもらえる人が必要で多いほど安心です。子供さんが自立されている場合、「所帯を持っているから迷惑をかけたくない」と介護を手伝ってもらおうとされない人もおられます。気持ちは分かりますが、その判断は子供がすることですので、まずは話してみる事をお勧めします。支援の仕方も、情報収集、手足として動く、経済的な援助など色々あります。「出来る事を出来る範囲で行う事」が重要です。事が終わった後では、ご家族はどうしようもない後悔を残しかねません。辛い状況はいつまでも続きません。それは当人もご家族もです。ですから、遺された時間を思い遺しがないように有効に過ごすことが重要です。高齢者から死ぬのが順番なのですから。



人の死に逝く過程(精神編)

 初めて体験する死への恐怖や不安は辛い出来事で最初は「拒否、否定」からはじまります。しかし、避けられない事実だと分かると今度はどうしてそんな目にあうのかと、「怒り」が出てくると言われます。しかし怒っていても始まらないので、何か良い方法はないかと周囲へ心を開きます。「交渉、取引」と言われる段階です。この段階は治すことに関心があるので、未来への希望をつなぐためです。しかし、病状は悪化し、所詮何をやっても同じだったと「抑うつ」になります。しかし、最終的には過去に亡くなられた方々と等しく自分も同じ存在だと死をも「受容」するようになります。この精神的反応は実は本人だけではなく、そのご家族も同様の経過を辿ると言います。この順番は行ったり来たりしながら進むと言われます。



【 医療者編 】

患者、ご家族のこの精神的振幅は大きく、心の状況を十分斟酌(しんしゃく)して対応します。最初の拒否や怒りの段階で「大変だね」と言っても上から目線と思われ「うるさい」とも言われかねません。会話は交渉の段階で初めて可能になりますが、「治る」「未来への希望」にだけ関心があるため、「人はいつか死ぬ」のような悟す発言は禁物です。抑うつは見守る時です。傍にいて傾聴に心がけ、突発的な行動に注意します。「いつでも傍にいる」という姿勢と「おせっかいではない態度」が重要です。そして受容の段階に入ると、また心を開き会話が再開されますが、ここは「過去への感謝」が述べられます。医療者は患者家族双方に思い遺しがないように上手に気持ちを引き出す必要があります。最期に会っておきたい人、感謝する人、陳謝する人など具体的な思いの仲介者になる時もあります。対応は全ては「大丈夫ですよ」と共感的態度が重要です。本人が一番辛いのは最期の道行は、一人ぽっちの初めての体験だと言う事です。孤独で不安なのです。この道は、決して一人きりではないのです。全員同じ道を歩むのです。「皆同じ」という気持ちは勇気をくれます。
 

【 介護者編 】

 先にも書きました通り、家族は患者とほぼ同じ精神的経過を辿る事が多いため、同じような不安に苛まれていると思って会話する事が重要です。往々にして、患者は「これ以上家族に迷惑を掛けたくない」と思っている事が多く、我慢する傾向があるので注意が必要です。また、進行癌の70%は癌性疼痛があると言われます。痛みがあると一気に患者本人は辛くなります。しかし、同時にこの痛みから逃れるために死を受容するようにもなるとも言えます。痛い姿を看ている家族も辛く、時には余りに痛みが強い時には安楽死すら希望されることもあります。しかし、現在モルヒネなどの種類や投与形態の多様化で余程の癌性疼痛でも治療できない事はありません。これは在宅医療でも可能です。ですから、痛みが出たら病院と言う考えは古く最期まで好きな自宅を選択できるのです。
 そして、最後の時に注意してほしい事があります。初めての経験でご家族も本人も不安でしょう。この不安を助長するものがあります。それは痛みと暗さと静かさです。まず痛みはしっかり取ります。静かさと暗さとは、つまりは夜であり、夜に患者は眠ってもらう工夫、そして夜を一人にしない事が重要です。好きな音楽や香りマッサージもリラクゼーションを図る重要なスキルですが、傍で聞く家族(特に孫)の笑い声ほど癒されるものはないと言えます。



人の死に逝く過程(社会編)

 人は社会性の有る存在です。家族や所属する会社、グループ、団体など人はコミュニティーの中で生きる存在という事です。死とはこのコミュニティーを喪失することでもあります。つまり、死とは家族や、会社、団体の中での立場、役割を放棄することでもあります。(例えば、家族の中で父親、夫、会社で部長、団体で委員など)特に男性は、この役割に自分の存在価値を持っている人が居ます。時には自分しかその役割が担えないと強い責任感から立場を手放せない人もいます。しかし、死とはこれら全てを手放していかねばなりません。後継者問題は想像以上に大きなストレスである場合があるのです。役割の明確化が重要です。
 

【 医療者編 】
 
 こうした組織団体の中の立場は、後継者があれば問題はありません。埋め合わせがどうしても困難なものが家族内での立場の喪失です。替われる人が居ません。況や捻じれた家族関係があるなら、その修復のために医療者が係る事は時に必要です。なぜなら家族関係の捻じれが最期の時を安楽にできない大きな原因である場合があるからです。「嫁と舅との確執」とか「家族との不和」などです。この関係性の捻じれは当事者でないと修復が困難な場合があります。私はこれを「遣り残した仕事」と表現します。何故なら、双方に大きな思い遺しになりかねないからです。この思い遺しは時に癌性疼痛を増強する場合があります。
 私は、この関係性の修復が、最期のお別れの言葉に集約されることを学びました。今までの人生、色々一杯あった。それでも、だから、最期に言う言葉が重みを増します。それはたった5つの言葉です。「ごめんね」「ありがとう」「また逢おう」「愛してるよ」「さようなら」です。最後の最期、この一言が人生の全ての確執を一掃するかの如き力を持つことがあります。

 患者本人から話せれば一番良いですが時に最後は声がでません。ご家族が最期の言葉を言っても通じます。私はこれが本当の「引導」だと思っています。
 この様に医療者は特に在宅で家族親族に係る中で、その家族の形が、患者が居なくなった後にどうなるかを想定しながら係る必要があるのです。


【 介護者編 】

 状態の低下により、徐々に患者自身の覚悟は定まってゆきます。人生の総括や捻じれた家族や人間関係への素直な思いの発露がある場合があります。一度も感謝しなかった人が「ありがとう」と言う場合もあります。そうした言葉を否定せず、受け止めてあげてください。繰り返しになりますが、最期の最期には言葉があります。「ごめんね、ありがとう、また逢おう、愛してるよ、さようなら」の5つ。これは、患者本人から家族へ、または家族から本人への言葉でもあります。本人からは「死の許可を求めた言葉」。家族からは、「死を受諾した言葉」でもあるのです。私は「引導を渡す」と話します。患者本人が引導を求め、ご家族が引導を渡す。私の経験上、ご家族から引導が渡ると、ほどなく患者本人は旅立ちます。その潔さは本当に不思議で綺麗です。
 逆に「死なないで」「逝かないで」は、引導を渡さない事です。しかし、患者本人は時が来ている事を実は知っています。「もういいでしょ」と引導を渡して欲しいのです。大事な人が逝こうとしている時、大事な人であるほど「死んでほしくない」心情は分かります。しかし、厳しい事を言いますが「逝かないで」という言葉が誰のためか(・・・・・)を良く知る必要があります。やり遂げた死に際の美しさは、それ故、遺された人の喪失感を軽減してくれる最期の患者のパフォーマンスなのです。本当は、42.195km以上の走り続けた人生と言うマラソンの最期を「ご苦労さん、良くやった、素敵だった」と言って皆さんで称える時が最期の時の過ごし方なのです。
 加えて、最期の最期、本人へ申して欲しいのです。「ありがとうね。私が逝く時迎えに来てね」と。



人の死に逝く過程(魂編)

 そもそも「魂」があるか否かという命題の解釈が2つあります。科学的命題なら「ある」「ない」の究明が必要です。しかしこの命題を魂があると「信じるか?」「信じないか?」とすれば、これは本人の価値観の問題であり、信教の自由が憲法でも保障されている以上、他人がとやかくは言えません。ですから、魂編とは正確には「魂があると信じる人」に限定された内容と言えます。「ない」と思っている人は「あの世」という概念を持たない(持とうとしない)からです。しかし、問題は魂があると信じようが信じまいが次のような疑問は末期となると誰もが抱きます。「自分の人生何だったのか?」「なぜこんな病気になったのか?」「死んだらどうなる?」「あの世はあるか?」などです。科学的に正解は不明ですが、どう信じるかは各自の自由だと言いました。そして、この自由な所がまた医療者にとっての問題でもあります。特に終末期に寄り添う医療者は患者に寄り添う事が重要です。つまり、あの世の否定派にも肯定派にも傾聴するという態度が必要です。誰もが幸せを願って生きており、満足な死を迎えたいと願っている事は重々承知の上ですが、患者さん、ご家族の幸せや満足自体が価値観の上に成り立っています。実は私たちは、価値観で生きているのです。その一つに「あの世」があるに過ぎないと言う事です。


【 医療者編 】

 上にも書きましたが、医療者は両刀使いである必要があります。あの世があると信じるならその様に、無いと信じるならその様に対応出来る事です。あの世がないと信じる人には、そもそも「死後の世界?」という考えを持っても否定するでしょう。私の経験では、否定派の中には「あの世と言う逃げ場所」「現実逃避」と表現されました。「あの世があっても今は楽にならない」と。きっと医療者としては「なるほど、そう思って見えるのですね」と言えばよいと思います。しかし、むしろ問題は、あの世の肯定派でしょう。これは余りに多彩であり、そもそも医学は科学であり宗教は対局だと考え要注意と感じている医療者も多いと思います。ですから、相手の言葉にただただ頷き、オウム返しをするという技法も生まれたのでしょう。それはそれで一つの方法でしょうが、現場にいて感じる事はやはり心のこもったコミュニケーションは相手の気持ちに深く響きシンクロすることで患者家族が安心され満足ある最期を迎える事が出来ると感じてきました。その意味では、医療者自身が一つの死生観を持つことはそれが何であれ「信じる気持ち」がシンクロするものと思われます。あの世が在ろうがなかろうがです。


【 介護者編 】

 多くは、喧嘩の多寡、好き嫌いにかかわらず全てのご夫婦、ご家族は魂として深い関係にあります。しかし、だからと言って、一人で無理して我慢して闘病や介護が強要されるものではありません。上にも書きましたが、どのように対話するかはあの世の世界観で見方がかなり違うものと思われます。あの世がないとする価値観は「ない」以上、それ以上想定されません。問題はあの世があるとした価値観です。



あの世の研究

 ところが、最近の「あの世」を以下の3つの切り口で研究する科学者が多数登場されています。以下に簡単に紹介いたしましょう。

1)過去生を記憶する子供たちの研究:子供の中には胎内記憶(母親の子宮内記憶)を持つだけではなく、子宮に入る前の記憶、その前に他の国で他の人生を歩んだと言う記憶がある子供がいます。横浜の池川先生は現在もそのデータをとっており、そこから我々は、前世を終わってから、中間生(あの世)に行き、再度この世を訪問する存在らしい事が明らかにされつつあると言います。

2)臨死体験者の研究:雷に打たれる、溺水、出産時出血多量などで一時心停止、呼吸停止後再度蘇生された人がいます。その人たちの中には、この間に何らかの記憶や不思議な体験をされている人があります。しかも、よく似た体験をしていると言います。美しい光に満たされ、綺麗な川や門などあり、既に他界した懐かしい魂との邂逅も経験したと証言します。その人が、あの世を信じようが信じまいがです。

3)退行催眠による研究:催眠療法で年齢退行し、子供時代から胎内へそして過去生へと誘導します。高所恐怖症、水恐怖症など原因がはっきりしない恐怖症の治療手段としてこの退行催眠療法を行い、恐怖症の原因となる出来事を追体験し、過去の出来事として深く認識できれば、催眠を解いた時に、この恐怖症が無くなっていると言う事が治療への応用となります。しかし、この方法により、前世を終えて死を通り超えあの世へ還り、再度この世へ訪問を希望したと言う事が分かってきたと言います。



あの世の仕組み

 こうした研究から分かってきたあの世の仕組みを簡単に紹介しましょう。私たちは死を体験しますが、この死後への移行は非常にスムースで、恰も夜寝るが如くであるようです。皆さんは寝る瞬間は分かりますか?それほどスムースであるために死を自覚できないくらいだと言います。死後はしばらくこの世の思い出の場所を自由に移動し最期のお別れをするようです。この期間は長くても49日。その後、細いドームをくぐり三途の川、天国の門へ到達するようです。そこには門番が居るようですが、順番の来ている人は通過できる様です。その向こうは光の世界で、一際明るい光を閻魔様と言う様です。その光(魂)は訪問した貴方に静かに問う様です。「貴方の人生は如何でしたか?」と。そこでは、大きなスクリーンが登場し、そこに今回の自分の人生を全て第3者の目で見せられると言います。喧嘩をすれば、相手の立場で全てを体験し、もし人を殺めれば、殺められた人の気持ち、その人の家族の気持ちまで全てを体験させられると言います。殆どの人はその人生を正視できないと同時に、深い後悔と懺悔の気持ちに苛まれると言います。そこで静かに閻魔様は皆さんに問います。「さあ、あなたはこれからどうしますか?」ほとんどの魂は、この懺悔に鑑み、もう一度生まれたい、そしてもう一度この人に会い、今度こそ本当の願いを
成就したいと願い再度この世に生まれたいと願う様です。そして、その人生計画を自ら立て、その計画が成就するために最も相応しい両親や環境、時代、地域などを選び、この世へ再訪すると言います。そして、生と死の壁は忘却の壁とも言われ、この世に生を受けると同時にあの世で自分が立てた予定は忘れるようになっています。しかし、予定した事態(問題)は起こるようになっています。人生に設定する問題の多くは、失敗、挫折、病気、死別など、またつながりの深い魂ほど嫌われ役で人生の途上で登場するように依頼している場合もあると言います。苦しい時に、「しかたないわ」とつれない反応も、実は貴方が依頼した予定通りの返事である可能性があると言う事です。
 つまりこうした研究結果から見えてきたあの世の仕組みから下の3項が導き出されます。


 1、死後生仮説 
 












  つまり人は死んでも生き続ける存在であるという事です。つまり、死後の世界=あの世はあると言う事になります。その意味するところは、「死が最大の恐怖である人にとっては死んでも終わらない」と言う事になります。つまり、死はもはや恐怖ではなく「楽しみ」にすらなると言います。
 この「死を楽しみを持って迎える」という事は、実は上智大学名誉教授のアルフォンスデーケン教授も申されています。死を受け入れるプロセスの6段階目として「死後の永遠の生命を信じる人」という条件はありますが、「死後に愛する人と再会する事への期待と永遠の未来に対する希望を抱きながら明るく能動的に死を待ち望む人が多い」と言います。
 あの世を信じないと言う人の中に「あの世に逃げたくない、逃げても今は楽にならない」と申される人が居ますが、何とあの世を信じる人は今を明るく能動的になれる可能性があると言う事になります。死を目前に不安に苛まれる人が多いですが、あの世を信じればこそ楽になられる可能性があると言う事になります。これが「信ずるものは救われる」と言う事なのでしょうか?

 2、次に「生まれ変わる」と言う仮説 

 これは、「死んだらお(しま)い」「二度と会えない」と思う必要は無いと言う事になります。死がおい、二度と会えないと思うからこそ生じる苦しみ、悲しみから解放されます。そして、本当に自分が成したかった目標が達成できなかった時に、「また来生に期待しよう」という選択肢がある事で希望が持てます。また、今生、死別した愛する人とあの世で「また逢えるという楽しみ」「死別時にあの世で待っててねと言える」などあの世があると思うからこそ持てる希望があります。







  3、人生設計の自己計画仮説 

 あの世で自分の人生を反省しそれ故、今度こそはこうしたいと言う願いが立ち上がります。その願いを成就するための人生計画を自分でたてると言います。自分で立てたと言う事は、基本的に自分に乗り越えられないような厳しすぎる人生を予定するはずがないと言う事です。まさに現人生が既に厳しすぎると言う方。つまり、重い病気、離婚、失業、倒産など厳しい試練も、自分はそれすら乗り越えられる魂であると言えます。決して業が深いとか、過去生の報いではなく、そうした試練すらチャレンジするに値する素晴らしい魂と言えると言う事です。そして、最終的な試練とは、きっと生まれながらにして重い障害をもった魂と言えるでしょう。そもそもそうした肉体的な条件である事は、魂は肉体を選ぶ段階で承知していたと言います。もしあなたが肉体を選ぶ魂なら、重い障害を持った肉体を選ぶ勇気がありますか?それを選択した魂は未熟な魂なのでしょうか?社会的弱者といわれる障害者は実は素晴らしく進化した魂と言えるのではないでしょうか。今、もし今生の人生が本当に辛く厳しいと言う皆さまは、まさに素晴らしく進化したチャレンジャーであると言えるのです。
 どうか勇気を持ってどうどうとお進み頂きたく思います。



 
私達はチャレンジャー

 こうして見て行くと、実は家族や友人など、決して仲の良い人だけではなく仲の良くない友人や先輩や上司すら、実は縁深い魂である可能性があると言えます。自分の人生の厳しい時に、辛い一言を言ってくれと、あなた自身が生まれる前に人生計画でその魂にお願いしたのかもしれないのです。そんなお願いができるのは、仲のいい近い魂しかできません。大喧嘩をする人ほど、実は大親友である可能性があると言う事ですね。
 少なくとも、あなたの身内がこの世を去ろうとしています。いずれこの状況は必ず終わります。いつまでも続きません。それすら、きっと予定通りです。ここで重要な事は、この関わり方で思い遺しがないように生き切る事です。それは出来る筈です。貴方自身がその人生のシナリオを描いたのですから。
 どうか、今が苦しくとも辛くとも、自分はそれにチャレンジできるほど素晴らしい魂なんだと思い出して頂き、どうぞ「なかなかやるじゃん私!」と、むしろ褒めてやってください。そして、どうかわくわくしながら最期の「死」を体験して頂きたいのです。ひょっとして、「死を体験する」事も、重要なこの世の仕事なのかもしれないのです。
 難しい??承知の上です。私たちは、それほど素晴らしいチャンレンジャーなのですよ、きっと。

追記)
 
過日、当地で「認知症講演会」がありました。テーマは「認知症予防」でした。私はそれまで「認知症は治らない」だから、早期発見は治療が出来な以上「早期絶望だ」と思っていました。
 しかし、何と鳥取大学浦上教授は「早期の認知症(MCI)は、治ります」と言われたのです。早期発見は有意義だったんです。私は大変衝撃を受けました。情報で重要なことは「まず知る事」なのです。
「あの世」はあるかどうか分かりません。しかし、まず、情報を知ること。それは時に思いのほか自分を救う事もあるのです。