だれでもわかるね 認知症 第1回

   -認知症雑感―

船戸クリニック 精神科 深尾 かずえ

以前は痴ほう症と呼ばれていた疾患。呼称が変わって何となく医学的学術的になったように感じます。
半面、以前のようなちょっと日常的一般的な感覚が薄れてしまって残念な気もするのです。
昨年末、和歌山の医師の集まりで認知症勉強会がありました。
そこで東大のドクターが話されたことが頭から離れないのです。
「認知症、とくにアルツハイマー型は老化である」と。

何に対してもそうですが、あらゆるたくさんの視点があると思います。
その中でもこの日常的な自分から目線の部分はいつも失ってはいけない部分ではないかと思うのです。
今までの日本社会は、元気に働き社会を動かす労働力としての人で構成された社会が基本で、この社会を動かしていけるかどうかで、正常か異常か、健康か病気かを言葉の上で分類していたような気がします。
でも実際、
私も病んでいるし、なんだか変人だし、ちょっと呆けているし。
多かれ少なかれすべての人は呆けているのです。
ひとは等しく老いていきます。
それはとても自然で、自我を手放し死へと準備をしていく過程だと思うのです。
この過程を医学的なものとしてしまうことで、日常的感覚から切り離され
恐怖が生み出されるような気がします。
(もちろん医学的視点も重要なのですが)

親が子を育てることは本当に大変で命がけで、でも本当に幸せでありがたい体験だと誰もが知っています。
同じように、人生の最終章で子や身近なものが老いた親を介護することが自然で本当に感謝にあふれ幸せで素晴らしい時間であると誰もが感じることができるといいなあ、と思います。
何もできなくてもいい。ただその存在自体がかけがえなく美しくありがたい。
季節がうつり替わり、春には春の冬には冬の厳しさ美しさ素晴らしさがあるように、
人生のそれぞれの季節もそれぞれに厳しく美しい、
生きるってやっぱり素晴らしいって思うのです。