JunJun先生の第29回 Jun環器講座 心臓と抗転移薬船戸クリニック 循環器内科 中川 順市
皆さんは“抗がん剤”という言葉は聞いたことはあると思いますが、“抗転移薬”という言葉を聞かれたことがあるでしょうか。 がん治療で厄介なものの一つに、がんが身体のあちこちに散らばって病巣を作る“転移”があります。そして「“がんによる死亡”は“転移による死亡”といっても過言ではない」とさえ言われます。 今まで、そして現在もなお西洋医学におけるがん治療の基本は、がんがあれば転移が起こる前に、あるいは転移の範囲が小さいうちに何とか取ってしまおう、取り残したものや散らばったかもしれないものは“抗がん剤”や“放射線”でやっつけてしまおうというものです。しかし、それらにも限界があります。そこで、視点を変えて、たとえがんがそこに存在しても、そこから広がらずにいてくれれば…、そして、たとえ散らばったとしても、他の場所に居つくことがなければ…、良い結果が得られることになります。そういう発想の中、最近、転移のメカニズムの解明とともに、がんそのものをやっつける「抗がん」とはまた違った、転移を予防する「抗転移」という考えに基づいた、しかも循環器病(心臓病)の研究が発端となった、ある「抗転移薬」が注目されています。 心臓に“がんの転移”が少ないことは昔から知られていました。ただその理由に対する様々な仮説はあったものの、数年前まで確固たるものはありませんでした。 心臓は自分に負荷がかかると心房利尿ペプチド(ANP)というホルモンを分泌し、尿を出すことで循環する血液量を減らすことで自らの負担を軽くしようとします。 国立循環器病センターという、日本における循環器病研究・治療のメッカといわれる施設があるのですが、ANPはそこの現研究所長である寒川・松尾先生らによって1984年に発見されました。このANPの働きを利用し、1995年から心不全の患者さんに対し、合成したANPを薬として投与するという治療が行われるようになり、多くの心不全患者さんが救われてきました。そしてその後、同センターの研究グループは、肺がん手術の合併症として生じる心不全に対して、ANPを3日間投与したところ、心不全や不整脈などの心臓の病気のみならず、肺炎など術後の様々な合併症を予防できたという結果を得たのですが、なんとその後の調査でさらに、偶然、肺がんの再発率が有意に少なくなることがわかったのです。この結果をうけて、同センターは、最初はANPに「抗がん」作用があるのではないかと考え、大阪大学と共同し動物実験などを行いました。 まず、2種の人間の肺がん細胞をマウスに移植し、ANPを投与した群とそうでない群にわけて比較したところ、ANP群で肺転移が著明に少なくなることがわかりました。そして悪性黒色腫という皮膚がんの細胞でも同様の結果が得られましたが、そのがん細胞にはANPが直接作用すれば生じるはずの抗体が発現しておらず、ANPの転移予防効果は、がんへの直接作用ではなく、別に存在することがわかり、ANPそのものに「抗がん」作用があるという推測は間違っていることになりました。 そこで、さらに、生まれつきANPを受け付けない血管内皮(血液と接する血管の内側の壁)を持ったマウスで上記と同様の実験をしたところ、どちらの群でも転移が著明に増加し、同時に通常では起こり得ない“心臓への転移”も認められました。 そして逆にANPが血管内皮で高度に受け入れられるようにしたマウスでは転移が著明に減少したという結果も得られました。 以上からANPはがん細胞に働くのではなく、何らかの形で血管内皮に作用して、がんの転移を予防することがわかったと同時に、通常でANPの豊富である“心臓には転移が起こりにくい”ということの証明になったのです。 その後の研究の中で、“血管の炎症”が、がんの転移のメカニズムの一つとして関係していることがわかってきました。“血管の炎症”は、手術やストレス、食生活の偏り、喫煙などで惹起されます。 がん細胞は元のがんから遊離しても血管内に漂っていれば1~2日のうちに免疫細胞に淘汰されます。しかし、“血管の炎症”があるとE-セレクチンという接着因子が発生し、これが、遊離したがん細胞を血管壁に吸着させ、組織・臓器へのがん細胞の浸潤を許してしまうことがわかりました。 そしてさらにANPが血管内皮に作用するとE-セレクチンが減少し、がん細胞は血管内皮にくっつきにくくなり、転移が予防されるということがわかったのです。この結果は2012年に発表され、これを受けて2015年9月、なんと、がんセンターではなく、国立循環器病センターの主導で 実際の肺癌手術後の患者さんにANPを投与するという実用に向けた大規模臨床試験がスタートしました。 ANPは長年、心不全の治療薬として用いられ、“抗がん剤”とは違って副作用が殆んどないことが知られており、安全性も確立されています。従って、この臨床試験が順調に経過すれば、おそらく数年の間に、実用性、有効性ともに認められ、保険適応も通り、最終的には、肺がんだけでなく、すべてのがんの転移予防に用いられるのではないかと期待しています。そして、このANPによる「抗転移」治療が確立されれば、“取りきれなかった”あるいは“取らなかった”がんは存在したままで、転移だけをうまくコントロールするということも、より高率で可能となるかもしれません。 がん治療の方向性の一つとして、「がんとともに生きる」という考え方がありますが、このANPによる「抗転移」治療の後押しがあれば、考え方による恩恵は決して限られた人のものではなくなり、さらに、“考え方”から、より実践的・現実的なものへシフトできるのではないかと考えるのです。 |
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