JunJun先生の第31回 Jun環器講座

   -心臓の記憶(Cardiac memory)―

船戸クリニック 循環器内科 中川 順市

「Cardiac memory」= (直訳すると)“心臓の記憶”と聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょう。

比較的若い方ですと、ひょっとしたら、しばしば“臓器移植”と絡めて語られ、小説や漫画、テレビの特集番組でも題材としても用いられることの多い、「記憶転移」現象のことを思う方も多いのではないのでしょうか。

 (実は、私も循環器の医師になるまではその一人でした)

 「記憶転移」とは臓器移植によって、ドナー(臓器提供者)の記憶や性格、趣味、嗜好、習慣の一部が臓器受給者(レシピエント)に移ってしまうという現象のことを言います。

ドナーとなった故人の記憶などが、まったくの別人であるレシピエントに現れるというエピソードは、現実、空想を問わず、非常に興味深いテーマであり、私が見聞きした範囲でもいくつかの逸話、漫画・小説があります。私の印象に残っているものを挙げますと、私が小学生の頃に読んだ手塚治虫先生の有名な漫画、「ブラックジャック」に、「春一番」1)というお話があるのですが、これは、『主人公で医師であるブラックジャックにより角膜移植を受けた女子高生が、移植後、見知らぬ男性の幻を見るようになり、最初は悩みつつもとうとうその幻に恋をするようになってしまう。気になったブラックジャックがドナーのことを調べると、ドナーは殺人事件の被害者で、首を絞められ殺される際に犯人の顔がしっかり目に焼き付いた。レシピエントである女子高生の見ていた幻影はドナーを殺した犯人の顔だった』というものです。

また、最近、実写化され、アニメ、漫画でも人気のある北条 司氏原作の「シティーハンター」の続編「エンジェルハート」2)では、『幼少の頃からある組織に冷徹な殺し屋として育てられた少女が自分の仕事に疑問を持つようになり自殺、しかし組織によりある女性の心臓を移植され復活するが、その後、夢や鏡の向こうにドナーの女性の幻が現れるようになり混乱の中組織を抜ける。そのような中少女は「シティーハンター」と呼ばれる正義の男に出会い、幻の女性のサポートのもと人間らしい心を取り戻す。少女はやがてその男の養女となるが、少女に移植された心臓は、事故で亡くなったその男の婚約者のものであった』という物語が展開されます。

実話として知られる物には、クレア・シルビアの事例3)があります。『ユダヤ人の中年女性クレアは重篤な「原発性肺高血圧症」という病気を患い、1988年に、米国、コネティカット州の大学病院で心肺同時移植手術を受けた。クレアには、ドナーはバイク事故で死亡したメイン州の18歳の青年ということだけが伝えられたが、その数日後から、彼女は自分の嗜好・性格が手術前と違っていることに気がついた。例えば,苦手だったピーマンが好物になり、またファストフードは嫌いだったのにケンタッキーフライドチキンのチキンナゲットを好むようになった。歩き方が男性のようになり、以前は静かな性格だったが非常に活動的な性格に変わった。そしてある時、夢の中に出てきた青年をドナーと確信するがクレアは夢の中で青年の名前がティムであることを知った。ドナーの家族と接触することは禁止されていたが、クレアはメイン州の新聞の中から、移植手術日と同じ日の死亡事故記事を手がかりに、青年の家族と連絡を取り対面が実現した。家族によると、青年の名はティムでクレアが夢で見たものと同じであり、ティムはピーマンとチキンナゲットを好み、活発な性格だった』というものです。

「記憶転移」にはこのような実話としてのエピソードが少なからず存在するため、しばしばその真偽について、肯定派と否定派に分かれ、論議されることも多いようです。

ある肯定派の科学者は、「記憶転移」の仕組みについて、『臓器の神経線維にも脳とは別に記憶のサーバーの一部があり、そこにドナーの記憶や情報の一部が残っている。特に心臓は、持ち主である人間の意思とは関係なく一生涯動き続けるために、“自動能”や“刺激伝導系”という他の臓器にはない特殊な細胞と線維を持っており、その独自性から記憶サーバーとして強く働く傾向がある』と言います。また、『臓器というより細胞そのものに記憶を蓄える能力があり、脳だけでなく全身の細胞一つ一つのDNAにその働きがあるのではないか』という説もあります。また、精神世界の研究者の中には『人間の肉体の外側にエーテル体というエネルギー体があり、人間の魂の記憶や情報は臓器や細胞ではなくこのエーテル体に蓄積しており、臓器移植によりこのエーテル体も一部移動することで「記憶転移」が生じる』という人もいます。

しかし、これらはあくまでも一部の科学者や研究者による仮説であり、科学的に広く認められていることではありません。否定派の意見として『「記憶転移」と呼ばれる現象は、あくまで臓器移植という大手術に伴う麻酔や薬の副作用や精神的負担によるもの。移植により今まで日常生活もままならなかった者が健常者に生まれ変わるという劇的変化は人生観そのものを変える為、それに伴って物事の捉え方や考え方、嗜好などが変わっても何ら不思議ではない、また、ドナーへの感謝の気持ちや思いが“故人のようにありたい”“意思を引き継ぎたい”という気持ちに変化し、それが行動に現れているだけということで説明可能である』というものもあります。

いずれにしろ、移植医療ではレシピエントとドナー側との接触が基本的には禁止されているため、これらの研究において、細胞レベルの仕組みの追及はおろか、現象の真偽の検証すら充分に出来ないのが現状のようです。

ただ、私の場合、「記憶転移」の真偽は別にして、それがあるかもしれないとして語られたり、描かれたりする世界観はドキュメンタリーでも小説・漫画にしても非常にファンタジックで興味深いと感じています。

さて、本題の「Cardiac memory」は残念ながら、「記憶転移」のように、小説や漫画、テレビ番組の題材として取り上げられ、且つ一般の方の興味をもそそるようなものではありません。

心臓が通常の脈の打ち方をしている状態を“洞調律”といいますが、例えばこれが一時的な不整脈(脈が乱れる疾患)によって通常とは違う“頻拍(脈が非常に速く打つ)”という状態に変化した時、あるいは“徐脈(脈が非常に遅くなる)”という状態を救うため人工ペースメーカーによる人工的な電気刺激で脈を補助せざるを得ない状態になった時、これらは心臓にしてみれば、通常とは違う脈の打ち方で無理矢理打たされている状態となるわけですが、このような時、しばしば心電図のT波という部分が陰転する(ひっくり返る)ことがあります。そして、このような変化(T波の陰転)は、通常、不整脈が治まったり、ペースメーカーの刺激が解除され“洞調律”に戻れば、もとに戻ることが多いのですが、時には、脈が“洞調律”に戻ってもT波の陰転はもとに戻らず一定期間残ってしまうことがあります。(打たされている最中ははっきりしなかったが、治まった後、初めてT波の陰転がはっきりする場合もあります)。そしてその回復には「“洞調律”でなかった時間」即ち“無理矢理脈を打たされていた時間”と同じだけ時間がかかるとされます。このような、『“洞調律”でない異常な心臓の興奮(不整脈やペースメーカー)がしばらく続いた場合、“洞調律”に戻って心臓の興奮が正常化した後も、心臓の筋肉細胞には当時の異常な興奮パターンが記憶(memory)の如く残存し、それが、心臓の電気信号を表す心電図においては、“T波の陰転”として表現される』状態を循環器の専門用語で「Cardiac memory」というのです。ただし、“T波の陰転”は心内膜下梗塞という心筋梗塞でも見られる所見ですので、そうでないことをしっかり確認せねばなりませんが、「Cardiac memory」の場合は、精密検査をしても見かけ上の異常は見つかりません(下図参照)。

以上から、循環器学でいう「Cardiac memory」は、決して前半で書いた「記憶転移」のようなファンタジックなものではなく、実は全く別の、学術的(心臓電気生理学)且つ専門的に認められた現象のことだったのです。

ただ…“心臓”にとって、無理矢理打たされていた原因が去った後、たとえ表面上は問題なくても、その電気的な情報だけが記憶の如く後を引いて残る様相は、人間に置き換えれば、例えば、長期間、虐待やいじめなど負のストレスを受け続けた人にとって、その原因となる状況が立ち去った後、たとえ身体の傷は癒えても、“心”=こころに受けた傷はトラウマとして残り、回復に同等あるいはそれ以上の時間を要するのに似ていると感じるのは私だけでしょうか。

1)手塚治虫 「ブラックジャック」 167話 1977年 週刊少年チャンピオン掲載
2)北条 司  「エンジェルハート」 2001年~2010年 週刊コミックパンチ掲載
3)クレア シルビア、ウイリアム ノヴァック 「記憶する心臓-ある心臓移植患者の手記」(A Change of Heart) 1998年角川書店