コラム

アベ・マリア

春原啓一
その日の夕刻、我々のホスピス病棟では、ある最終末の患者さんについてカンファレンスが行われていた。
いかにその人らしく、悔いを残さない最後を迎えていただくか。そのために我々は何をすればいいのか。というテーマだった。

カンファレンスは白熱した。でもたいてい、白熱しているのはスタッフだけで、患者さんの姿が見えなかったり、個人のケア論に終始することが多かった。

少し白け気味の僕の表情に気がついた師長が、
「先生は、どう思われます?」
と僕にふってきた。
半分心がそこになかった僕は、頬杖でうろたえを隠しながらこたえた。
「うーん。まぁ、我々の思うようにはなかなかならないね。でも、なるようになりますよ。」

スタッフの失笑ともとれるため息を感じて、
「あ、ごめん。今日はもう失礼します。約束があるから。」
と言い残して病棟を出た。
背中に、
「先生、プチ鬱だわ」
というナースの声が聞こえた。



もう5年も病棟医を続けて400人近くを看取って、僕は「その人らしい死」とか、「よい死」という言葉に違和感を持つようになっていた。ケアと称する患者さんへの関わりも、何か不自然なものを感じ始めていた。一生懸命努めれば努めるほど、閉塞感が広がって、苦しくもなる感じだった。

「本当に鬱かもしれない」そんなことを考えながら、僕は地下鉄を、一つ手前の駅で降りた。

「そうだ、ハルちゃんに寄っていこう」
「ハルちゃん」は、三丁目市場の中にある古いバーだ。
夕方、市場が閉まる頃に開店して、市場の仕入れが始まる明け方までやっている。ひなびて飾らないのが好きで、時々寄る。



ハルちゃんというのはママの名前。
和服が普段のスタイルだが、それに似合わずざっくばらんの気質で、それも好きだ。

「あ~ら、スーちゃん。久しぶり。」
カウンターを整えながら彼女がまくし立てる。
「最近どう、まだ、自分探しとかやってるの?」

そうか、この前来たとき、カウンセリングの講座に通い始めた頃だった。
「熱し易く、醒め易い」僕は、きっと酔っぱらって、聞いてきてばかりの知識をここでひけらかしたに違いない。

「いい加減にしたら?自分なんてさ、自分でそう思っているからあるだけで。本当の自分とか、自分を見つめるとか、いうけど、そんなのないんじゃないの?あるとしても、自分の中にはないわ。ないと思ったら気が楽よ。今のままで良いのよ。自分がなければ、他人もないわよ。
私たち一緒なのよ。私なんか水商売で、あなた、医者でえらそうにしてるけど、ちっとも変わらないの。分かる?分かんないでしょう。分かりたくないか?
はっはっ。お年寄り診てるんでしょう?どこに、その人らしさがあるのよ。ホスピスとかで、『その人らしい最期』というのも笑っちゃうわ。分からない?その人らしいとか、自分とかを少なくしていって、最後に自分がなくなるのよ。それが出来たら人生卒業よ。みんなそれをやってるのよねぇ。」

何となく癇に障って、
「ややこしい話しやめてよ。いつものロック。ダブルで。」
と、話の腰を折ってみたけど、彼女はやめない。この前の復讐に違いない。

「どっちがややこしいのよ。アベちゃ~ん。どう思う、この人。」

カウンターの一番奥の電話の陰にアベちゃんがいた。
アベちゃんは風俗系のお店に勤めている女の子で、源氏名はマリア。少し酔うと、「性は聖なるかな」などと口走る。
水晶占いもやるらしくて、店に出ないときは時々ハルちゃんのお客さんを占っている。

アベちゃんは、意味深な表情でカウンターの下から水晶を取り出した。
「覗いてみてあげる。」
「いいよ、いらないよ。」
と僕は飲みだした。
いつも、速いペースで飲んでいろいろ早く忘れてしまう。というのが僕の飲み方だ。この日も、立て続けにお代わりをオーダーした。

すっかりアベちゃんのことなど忘れかけていたら、彼女が語りだした。
「天使が見えるわ。天使が話してる」
アベちゃんは、水晶玉を見つめながら、子供言葉で語った。

「私も前に、あなたの場所にいたけれど、そこでどんなに豊かな暮らしをしていても、今の私の場所から見たら、いかにも貧乏暮らし。何もかもが便利になって、何でも出来るようになっているから忘れちゃっているでしょう。
科学とか、お金とか、健康とか、あれば便利だけど、大切なものは目に見えないものよ。いのちの姿は目には見えないわ。
でも、あなたの周りにいっぱいあるの。気づいてないでしょう。
おひさま、風、空、お月さま、星、森、水。
しっかり感じてる?
いのちがきらきらしてるの気づかないかな?分からないかぁ。
でも、大丈夫。あなたがなくなる時に、はっきり分かるから。
今のあなたって、ベッドでうとうとしているのと同じ。あなたがなくなるときにはっきりと目が覚めるの。これまでにお別れしたたくさんの人とも、会えるよ。そしてみんな、一つになってひかるの。本当は、今もそばにいるんだけど。」

なんかすごい酔ってきた。僕には、悪酔いのパターンがある。今日はダメそう。ひどい目に遭わないうちに「帰るわ」とママに告げて、店を出た。

動悸が激しくなってきた。思った通り。今日は疲れている。何とか家に帰り着かなきゃ。電信柱がしなって絡み合う。歩道のタイルがめくれて、靴にまとわりつく。それでもやっと家の玄関までたどり着いて、そのままそこに倒れ込んで、気を失った。



「引導を渡せ。引導を渡せ」

突然、闇の中で声が響いた。誰の声か分からない。野太い声だった。だれかが僕に命令口調で話している。僧侶の説法のようだ。

耳を傾けた。野太い声はいった。

「死にゆく人に、もしお前ができることがあるとすれば、それは引導を渡すことだ。人は最後に、自分の来し方を振り返り、生く末を語るものだ。その時にはっきりと引導を渡すことが、医師の役目と心得よ。すべからく死への過程は成長の過程であり、もはや、お前の考えを遥かに超えたところに人は至る。
考えられるべきはお前の方で、お前が救おうと考えるのは不遜である。
ゆめゆめ、引き留めてはならぬ。ましては、気休めをしてはならぬ。

死を受け入れよ。
点滴の代わりに、患者のくちびるを水で濡らせ。酸素の変わりに、窓を開けて風を通せ。薬の代わりに、さすってやれ。語る代わりに、手を握れ。

死後についても、お前の思考の及ばぬことである。そもそも何の心配も要らないことだ。自信を持って、引導を渡せばよい。」

明け方、飼い犬が散歩をねだってくんくん鳴く声で目を覚ました。
頭ががんがんしていた。記憶も定かでなかった。けれど、店を出る時マリアがいった。

「分からなくていいのよ。そのままでいいのよ。」

という言葉が耳に残っていた。同時にホスピス病棟のケアへの熱意は完全に冷めているのが分かった。


その日から一年後、僕は病院を退職した。