コラム

聴くことの力

春原敬一
もう10年になりますか、動けなくなって。
突然の事故だったんです。今では寝返りも打てないんですよ。毎日ずっと天井をながめているわけですから、それは眠れない日もありますよ。朝までまんじりともせず、なんて。考えてしまうとだめですね。なんで私なの?
私の何がいけなかったのって?考えてもしょうがないでしょう、だから考えないようにしているんです。

でも、時々そういう夜がありますね。もう慣れていますから、そのまま、眠れないままで過ごします。
気晴らしといえば、音楽と映画やテレビでしょうか、でも、だめなときはそういうのもだめですね。うるさいばかりで。
これも、もう慣れていますから。何も考えないようにするだけです。

どんな人生にも意味があるなんて、お話して下さる方もいますけれど、私単純だから、いわれるとあぁ、そうかなぁなんて、思ったりもするんですけれど、すぐ現実がどさっとかぶさってきてしまって、とてもそうは思えませんよね。

そもそも、私の気持ちは私にしか分からないと思いますよ。これはみんなそうでしょ?
入院してるとき、私の向かいにがんのおばあちゃんが入院していて、私によく「あんたはいいわね、痛くないから」なんていってたわ。
私は、まだ治ると思っていた頃だったけれど、もうその頃から全然動けなかったわけでしょう。
おばあちゃんは、点滴ひきながら、痛いとかいいながら「運動しなきゃ動けなくなるといかん」なんていって歩いてた。
正直、うらやましいと思ったわ。でも、結局、おばあちゃん痛い痛いっていいながら死んでしまった。
おばあちゃんは、私の気持ち分からんかったと思うけれど、私もおばあちゃんの気持ち、分からないから。
まして、元気な人に私の気持ちなんか分かるわけないと思うし、分かったようなこと言われてもね。誰もみんなその人しか分からない事があるのよ。

手も動かないでしょう、お茶一つとれないのだから。
例えばここに札束があっても、私には何の意味もないわ。先生、人生の意味って考えたことあります?
先生にとって、何が意味があることなのかっていうこと・・・・・・

でもね、意味を考えること自体がね、私にとってみたら贅沢というか、私にはそれすらもできないというか、そんな感じなんですよ。
ほら、食べるのに精一杯の生活していたら、文化とかそんなのないじゃないですか。それとおんなじで・・・。
だから、何も考えないようにしているんです。わたし。

そういえば、一度、皆さんに手伝っていただいて桜を見に行ったことがあったわ。もう2年前になるかしら。すごく楽しかった。
外の世界に触れることが全然ないでしょ?風とか、光とかものすごく感じることができて、ごく普通の景色が、本当にすばらしいと思えたわ。
子供が公園で遊んでいて、それをそばで親が見守っていて。なんでかわからないけど、涙がばっとあふれてきたの。

すごく普通の風景がすごく輝いて見えて。
でも、同時にね、そこにはかつて私がいた世界。そこには私はもういない。もう帰ることができないんだということも、すごく切実に感じられて。
すごく嬉しかったし、出かけて良かったと思うんだけれど、たくさんの人が手間をかけてくれたり、今までとは違う、もう戻れない自分をまた意識してしまってね。
あれから、外には出ていないわ。

でも、こうしていても、自分が生きているっていうことを感じることがあるんですよ。
この間、お腹がすいて、でも誰もいなくて。
何とか手の届くところに、賞味期限の切れた食べかけのパンがあったの。元気な頃だったら捨ててしまっているようなやつ。やっとこ手を届ばしてみたら、届いたの。
そうしたら、ちょうどテレビで、親からご飯ももらえないで死んじゃった子供のニュースがやっていて、そのパンを口に含みながら、泣けてしょうがなかったわ。あぁ、その子もこのパンがあったら生きられたのに・・・

泣きながら食べてたら、パンの味が少し塩辛くなって、パッと口に広がったの。でもわたし、あぁ生きてるとその時思ったの。
不思議よね。動けなくなって、初めて感じること。たくさんあるわ。元気でいたときのほうが、生きてるっていうこと、感じなかったりして・・・・
先生もお大事にしてね。

あら、診察まだでした?もういいわ、診察。

こうしてお話を聞いていただくことが何よりの治療なの。
聞いていただくだけでいいんです。聴くことの力ってあるんですよ。
先生もその力をもっと信じるべきと思いますよ。