コラム

心の治療と故郷

精神科医 森 省二
故郷で精神科医として働くようになって、どれくらいになるのだろうか。不惑の年を過ぎて、「郷里へ向かう六分の気の弱り」という山頭火の句が頭にこびりつくようになってからのことである。

最初は竹馬の友や恩師からの相談、親戚のまた親戚の治療だったりした。不登校や心身症・・・そういえば放火事件を起こした少年の相談も幼なじみの弁護士と一緒に引き受けた。
役場や母校の依頼で講演をすれば、相談の患者さんも増えた。時間のやり繰りがしんどくても、情けは人のためにならず、少しは恩返しになるという気概もあった。そして今は定期的に、船戸クリニックで診察をさせてもらっている。

心の治療には「地縁血縁の人を診ない方がよい。」という原則がある。親しい間柄ゆえ好意的に受け止めて診断を誤ったり、期待に応えねばと頑張りすぎて、心をうまく育てることができなくなったりする、などの理由からである。

ところが、故郷というところは、地縁血縁の人が多くて、その原則が守れない。
ときにはサービスが過剰になったり、少し無理をしたり、妙に説法的になったりする。
むろん邪気があるわけではない。早く治そうとする無意識の意気込みからの行為だが、そういう患者さんに限って治りが悪い。故郷のもっている”ゆったり感`をそれゆえに失ってしまうからだろうか。 皮肉なものである。

こんなことは、故郷で診療すると決心した最初から分かっていたことだった。いったん始めたらよほどのことがない限り止められないと責任を感じると同様に。 しかし、それでも故郷でそうすると覚悟したのは、眼前に広がる養老の山並みと、揖斐川の流れが私を育ててくれた”心のより所`だったからだろう。

人の苦しみや痛みに応じ、悩みに耳を傾ける医者は、何を支えに暮らし、どこで憂さを晴らしているのだろうか。
患者さんの中には、そんな私に同情してか、それとも私のまねをしようと考えてか、「あんたは、どうやってストレスを発散してりゃうすの?」と、尋ねてくる人もある。
方言はこの地に心を引き寄せる。

そんなとき、「そりゃあ、趣味、道楽や。野球を観るのも、ジャズを聴くのも、文学も旅行も、いや、こうやって故郷で働くことも・・・・」と、忘れていた方言をまねて答え、診察を終えてからの心地よい疲労感を思い起こす。そこには郷里ならではの墓参や、夜更けて旧友と逢う楽しみも含まれている。

中学時代には野球のバットを握っていた、とても似合いとは思えない大きな手で握る寿司屋では本屋や電気屋や鰹節屋のおじさんたちに出会えるし、輪中堤のごとく小さな部落を仕切る町会議員はダンプから高級乗用車に乗り換えて颯爽とやってくる。
「おお、大統領!」と声を掛けるところを、「ポンポコ狸!」と言い違えると、いつの間にか私も婦人科医どころか風狂の変人にされてしまうし、役場の小柄な「ひょうたん」官吏が同席すれば、どうしたって漱石の坊ちゃんか山嵐の心境になる。

心の治療者なんて、こんな程度である。
患者さんに「医者はその症状と経過を認めることができるし、生命力の強い個体には、多少の努力をすることができる。だが、それだけのことだ。医術にはそれ以上の能力はありゃあしない。」と、赤ひげの言葉(山本周五郎『赤ひげ診療譚』)を口にしながら「また2週間後来てください」と言って明日につなぐ。
つないでいる間に情念は整合されて落ち着き、何とか”分かる`ものである。