コラム

子供の心象素描 (メンタルスケッチ)~借りをつくり、借りを返す~

森 省二
宇和島から松山へと伊予路を上ると、内子に古い芝居小屋があった。まだ、6.7歳だったころ、母に連れられて、何度かこんなかんじの芝居小屋に来たことがある。たいがいはドタバタの剣劇か、お涙ちょうだいの人情芝居。おさな心に観たいとは思わなかったけれども、その時間を母と一緒に過ごせることが何よりも嬉しかった。 その頃は買い物だって、欲しいオモチャなんて買ってもらえるわけがなかったのだから、仲間と遊んでいた方がよほど楽しかった。ただ、母の後について行くことが良かったのである。

内子劇場の朽ちた花道を、役者になった気分でゆっくり歩いてみると、『瞼の母』とか、『一本刀土俵入り』 などという、当時”新国劇”と呼ばれていた芝居が思い出された。 いにしえの芝居小屋で観たのかどうか、定かではない。母子の別離や再会のシーンが、早逝した母の顔と重なって妙に記憶に残っている。どの芝居もパターンはよく似ていた。 主人公が親を慕っているのに親からは疎まれるネグレクトの世界。たとえ親に事情があったり、子どもに良かれと考えても、別れは辛い。委託先で、ねぐらや食べ物は与えられるが、やはり親から拒まれ、見捨てられたと思い込んでしまうのだろう。

愛されていない(見捨てられた)という感覚が膨れ上ると気分は沈むし、むなしさが目標を失わせる。ひるがえれば反抗、周囲からは嫌われる行動に出る。それを叱られることで気を引きたいと思う無邪気な子どもの無意識からと解することは容易だけれども、逆らえればまだ親のネガティブな側面を刺激し、さらに冷たくされる虐待の悪循環に陥る。 理由は黙して言わず、「家に帰りたくない」と、一言だけ呟いた幼稚園児のことを思い出す。もちろん、愛されていないという意識が、それをバネにして立ち上がるパワ-を生むこともあるけれども、そんな頑張りはどこか卑屈で、危うさを含んでいる。
周囲の理解とサポートが必要だろう。

ある少年は、高校に入るころまで、兄よりも親に愛されていないと思っていた。 愛されたいために、兄よりは少しは良い子のふりをした。良い子じゃなくても、良い子のふりをしたくなる年頃があるし、悪い子じゃなくても悪い子のふりをしたくなる年頃もある。カインとアベルの同胞葛藤。理由に気づいたときには、"ふり"が "変身"になって、取り返しがつかなくなってしまうのだろう。病院でそんな僻みから非行に走ったり少年を診たとき、変身がもう一度変身するには、親の愛情に勝るものはないと思った。

親子が運命共同体として一緒に暮らすことが当たり前という社会が、いけないのだろうか。
「母親は、その息子をもったことで償い、息子はその母親の子であることで償う」と、昨日の訪問地、高知で見つけた安岡章太郎の一文を口にしてみた。

親に痛めつけられても "親子" という呪縛から抜け出せない子。 宿命がコンプレックスとなって劣等に出るか、優越に出るか。
シンデレラは魔法によって変身できても、ガラスの靴の脆さを誰が指摘するだろうか。ヘンゼルとグレーテル兄弟が虐待から開放されるヒントで、助け合いが大切ということか。──そんなことを思い浮かべながら、劇場内を一回りして、ふっと軒先を見上げると、「生きるということは誰かに借りをつくること、生きていくということは誰かに借りを返してゆくこと」 と記された永六輔の色紙を見つけた。
彼もここを訪れたことがあるのだ。 共感して、うさん臭いと思っていた田舎芝居が、何か深い親子の縁を語るものに見えた。

借りをつくれる相手がいる幸せ、借りを返すことのできる幸せ。春の日差しの中で、何匹かの猫がたむろしていた。
たぶん親子だろう。