コラム

彼女の入院

春原啓一
日曜日の外来の朝に、一番で彼女から電話があった。
「受診しようと思ってたんだけど、やっぱりだめ。もうだめだから、入院しようと思って、」

3月の中旬から2週間以上、高い熱が続いていた。がんはもう、おなかの中に広がっていた。でも、彼女はそれを認めようとしなかった。症状がきついと、我々の対応を責めたり、夫や母親に当たり散らかすこともあった。

だから、彼女の電話の言葉は、敗北宣言のようにも伺えたのだ。
外来を終えて、お宅を訪ねた。もう入院の準備は整っていた。
「僕の車で行こう」というと、さっぱりと「ありがとう」といった。

シートを整えて、つたい歩きの彼女を滑り込ませた。
彼女はふ~っと、息を吐いて、膨らんだお腹を伸ばすように背中を伸ばした。

「出発しますよ。」
彼女がうなずくのを確かめて、静かにクルマを走らせた。

春の景色が流れ出した。

「うわ~、知らないうちに春になってる!信じられない~!ずっと、おうちにいたもんなぁ~」
道沿いに並んだ、白木蓮の大きな白い花が風に揺られてきらきらしていた。

「私、道知っているから、ナビやるね。なんだ先生のクルマ、ナビ付いてるの!」
「案内開始します。」
「あ、ここの珈琲屋、来たことある!珈琲屋なのにケーキがおいしいの。」
「くすくす」
「私ピアノが好き、特にショパン。ショパンじゃなきゃだめ!」
「ははは。」
「私、習いたかったのに、習わせてもらえなくて。え、先生もそうなの?それで、すねたの?先生が?先生でもすねるんだ?あ、その先、左。」
「はい、はい」
「あ、ナビ付いてたね。」
「その先、左方向です。」
「同じ事言ってる!」
「すごいすごい。」
「コンサート?行ったよ。また行きたいなぁ、行けるかなぁ~。」
「うんうん。」

バイパスから田園地帯に入ると、遠くに白い建物が見えた。

「あぁ、見えた。あそこだよ、ほら。」
「ほんとだ。」

玄関にぴったりクルマをつけて、助手席のドアを開けた。

「車椅子?いらない。」

彼女は普通に、普通に降りようとした。

救急外来に着くと、ナースが彼女の顔を見るなり「あら、まぁ」と言ってすぐに処置台に寝かしつけた。僕は当直医に会い、これまでの彼女の病気や家での様子を伝え、新しく主治医になるであろうポスピス医に、くれぐれもよろしく伝えてくれるように頼んだ。

一通りの手続きを終えて、彼女のところに戻った。
さっきまで上気していた表情はもうなかった。言葉が出ない。

「じゃあ・・・」
言葉に詰まった。

彼女の瞳が、僕を見ていた。

「先生、ありがとう。」
「いいえ、こちらこそ。」

「じゃあ、」
またくるね、とも約束できなかった。
また逢おうね、とも約束できなかった。

「じゃあ、」僕は思わず、彼女の手を握った。冷たい手だった。

「じゃあね。」彼女は、うなずいた。