返信春原敬一
お手紙ありがとうございました。お父様が亡くなられてしばらく時が時が流れましたが、寂しいお気持ちはなかなか癒えないのではと心配しております。先日、お母様にお会いする機会がございましたけれど、お母様もご自身の中で、一つの納得を探そうとしておられるように思いました。 医療の目的の一つに病気を治すことがあります。特に病院の場合は、効率よく病気を治すためのシステムが中心かと思います。しかし、治らない病気の場合、このシステムでは患者さんやご家族との関係を築いていくことが難しいことがあります。 病気は治らないけれども、あるいは治せないけれども、患者さんとご家族と我々医療者みんなが、それでも何とか納得できる所を探していくという、答えのない作業を続ける。ということが、病院のシステムにうまく合わないことがあるからです。 その作業を続ける時に鍵になるのは患者さんの言葉です。特に医療者は、患者さんの言葉にしっかりと耳を傾けることが必要です。 例えばお父様は、ある時痛み止めは飲みたくないと言われました。私は飲んだ方がいいと思いましたが、話し合った結果お父様の意見に従うことにしました。またある時、お父様は点滴をやめてほしいと言われました。もうお食事ができなくなってからの頃だったと思いますが、これもお父様に従いました。 これは患者さんの訴えにただ従っていた、ということではなく、お父様が病気と向き合いつつ、一生懸命自分の納得を探されていることが分かったからです。 また、ご家族と医療者の関係も、お互いのコミュニケーションが一方通行にならないようにしなければなりませんし、患者さんとご家族も、厳しい病状が続くと少なからず緊張関係が生ずることがありますので、お互いが何を求めているのかということをよく考え、時には改めて話し合うことも必要と思います。 そして、どの関係のどの場面も優しい気持ちで包まれていなければいけないと思っています。 優しい気持ちは何も解決しないかもしれませんけれど、それがなければ何も始まらないと思うのです。 お手紙にあったようなつらい医療者との関係は医療のシステムの中で、優しい気持ちがないままに、治る病気のケアと治らない病気のケアが同じ手法で行われたことが原因なのかなと思いました。 さて、亡くなってしまったお父様の中に果たしてどんな納得があったのだろうかということについては、知る由もないことのように思えます。 しかし、お手紙の中にありましたように、お父様が向こうの世界からメッセージを送ってきて下さった、そしてそれが正直に優しく、お父様の気持ちを訴えたものであったというお話を伺って、思うところがあります。 亡くなることで、確実に身体は無くなります。でも、その時に「さあ、そろそろ身体から離れましょうか、」という意味が、身体とは別にあるのではないでしょうか。そしてその意志は身体が無くなった後も、何らかの役割のために存在しているのではないでしょうか。 だから私は、お父様も旅立たれる時をご自身の納得の中で選ばれたのではないか、そして、それを改めてメッセージとして、娘であるあなたに送ってきて下さったのではないでしょうか。 最期の時、お父様は「僕はもう深く眠るから起こさないでね、約束したよ」といって、お母様の手を握ったと、先日お母様から伺いました。お父様は十分その時を理解して、ご自身で足を踏み出されたのではないかと信じております。 死は、生きている我々の感性では計り知れないことですので、死が全ての終わりだとも、そうでないともいうことはできません。ただいえるのは、我々には誰にも確実に死が訪れるということと、それまでの道のりは決して安楽なのもではないということです。この事実は、きっと我々それぞれが為すべき課題を持って誕生してきたように思わせます。 生まれてくること、生きていること、そして死んでゆくことに何か大切な理由があるのではないでしょうか。 患者さんといろいろなお話をする中で、自分がついつい忘れてしまう「大切な何か」を、患者さんが思い出させてくれることがあります。 お父様にも教えていただきました。そういう形でお父様が我々の中に生き続けているということも、また然りです。 考えてはみても、いろいろ分からないことが多いですね。でも考え続けて参りましょう。またお会いしましょうね。それではさようなら。 |