コラム

確かめるべき事

春原啓一
母親を突き倒したことがある。17才の頃だ。理由は忘れた。
「もう一回やって見ろ」とすごまれてひるんだ。
今、高校生の子供を持つ親になって、あのときどんなに母親が悲しんだろうかと思うと、胸が痛む。

いらいらしていた。自立したいと思いながら、その自信がなかった。自由に生きたいと思いながら、その勇気もなかった。
自分の人生について、自分で受け持つ自覚がなかったのだ。問題は自分自身にあると気づきながら、周囲の自分に対する期待や配慮が疎ましく、当たり散らした。
傷は深くなっていった。

一度みんな壊してしまって、まっさらな所からやり直したいと思っていた。潜在意識は恐らく実現する。
それから一年もしないうちに僕は、命に関わるような大きい交通事故を起こす。ほとんど赤の信号にバイクで突っ込んだのだ。

救急手術のあと病室で、意識が行ったり来たりするたび痛みでうなされた。
母が傍らにいた。痛みの中で思わず母に抱きついた。母が背中をさすってくれた。
その間、痛みが和らいだ。母が手を休めると、高波のように痛みがおそってきた。また、母に抱きついた。
母はどうしていいか分からない様子でいたけれど、意を決したように僕を抱き締め、僕の背中をさすった。さすり続けた。
母の腕の中で、高校生の僕は眠った。

結局一晩中、母は僕をさすり続け、僕は母の腕に抱かれた。そうして気が付いた。
僕はこの人から生まれた。この人に抱かれた。この人に育てられた。愛された。
そういうことがはっきりと分かった。

この事故で高校三年生の一年間を棒に振った。でも、忘れていたことを思い出した。
どうしても17才で確かめなければならなかった、自分自身だったと思う。