コラム

確かめるべき事(5)

春原啓一
臥床の生活が続いた一ヶ月の間、僕は不思議と満たされていた。
目に入る景色は天井のボードの模様、カーテンの隙間から覗くほんの少しだけの空。
自分が街のどのあたりの病院にいて、その病院のどのあたりに横たわっているかも知らなかった。
食べることも排泄も全てベッドの上で、さらに人の手を患わせた。臥床の視線からは健常人はスーパーマンに見えた。でも、僕は皆を絶対的に信頼して全てを委ねた。
安心したゆっくりとした気持ちだった。そして、その充実感を同室者やその家族と共に感じながら過ごした。

一ヶ月が過ぎ、ついに離床を許された。
先ず床に足をおろす。下腿に血液がざあっという音を立てながら流れていく。下腿は痛いくらいに充血して拍動する。
一ヶ月前、ただの物質になってしまった僕の下腿が、僕の身体の一部として戻ってきた瞬間だ。思い切って立ち上がる。
松葉杖に体重をかけると、僕の視野は一気に広がり、驚いて絶句する。
「ああそうだった、僕はこういう高さで景色を見ていたんだ」。立ち上がるといきなり治ってしまったかの様な気がした。と、そのとたん、すっと腰から力が抜けて、ベッドにしりもちをついた。今日はここまで。

次の日、僕は松葉杖で歩いた。一歩、一歩。同室者が手をたたいてはやす。
「おっ、ボク!よかったね、歩けて!」部屋のドアを抜けて廊下に出た。左手に一階からの階段があった。
そうだこの階段を担架にのせられて入院したのだ。正面には6人部屋。覗くと、当然知らない顔ばかり。階段に沿って廊下が左に折れ、左手にさらに3つ病室があってその先に屋上に上る階段があった。翌日、僕はその階段に挑戦した。もう起立していても血の気が引くこともなく、松葉杖の扱いも上手になっていた。一段一段、松葉杖を進ませ勢いを付けながら上っていく。一段もう一段。そうしてついに僕は空の下に躍り出た。

風、光、空、緑。360度立体に広がる景色に思わず歓声を上げる。普通の景色が輝いていた。
そうか病院は街の山側にあるんだ。街の方を見下ろすと通学していた高校のある森が見えた。「あそこにいるはずだったのになあ」と、思わず笑える。
階下を見下ろすと、いろいろ世話をしてくれた看護学生がお掃除をしていた。
「おーい」と、手を振る。「あ、ボク!屋上登れたの?」。
僕は、年下の学生からもボクと呼ばれていた。まるで赤ん坊だったものな、と、一気に大人になった気分で、鼻を高くした。

ボクは17才にして改めて、食べる、排泄する、立ち上がる、歩くといった、かつて身につけた機能をもう一度おさらいした。そしてこれらの機能が、類まれな奇跡によって、自分に備わっていることを学んだ。そして、もう一つ、自分を大切に思ってくれる人がいること。
さらに、もう一つ、無条件に委ねることを学んだ。
事故は、これらの学びのために起こるべくして起こった。全て必然だと思った。