コラム

確かめるべき事(6)

春原啓一

事故から一カ月、離床を許された僕は日ごとに回復し、トイレも食事も移動も全て自分の意のままに出来るようになった。付き添ってくれていた母も自宅に帰り、僕は日中のほとんどを屋上で、一人で過ごした。ぼうっとベンチで風に吹かれていると、言いようのない寂しさがこみ上げてくる。「今頃学校ではみな何を勉強しているんだろう。どうしてこうなっちゃったのかなあ」。寝たきりの時には充たされていた心の透き間が、身体の回復とともに充たされないものになっていくのはとても不思議だった。「いったい僕は何をやっているんだ」。
いらいらして焦っていた。

そんなある日、かつて同室だった不良高校生が僕を訪ねてきた。
「おう、ボク。こんなところにいたのか。何シケこんでるだ。」
屋上でぼんやりしている僕を見つけて、彼は何かを察したかのようにいった。
「なあ、ボク。俺達もいつまでもここでこうしてシケこんでいるわけには行かないわけよ。いつかは家をでて、一人で生きてかなくちゃいかん。そりゃ、ずっと一人って訳じゃないかもしれん。好きな女もできるかもしれん。でも、その時は自分のからだ張って、女を守る覚悟がいるわな。なあ、ボク。腹をくくらんといかんのよ。腹をくくらんといつまでも子供のままだ」。
そういって彼はポケットからたばこを出して火を付け、深く吸い込んでフウッと煙を吐き出すと、ホレッと僕に差し出した。
初めてのたばこに激しくむせながら僕は「腹をくくらないと大人になれない」という言葉を反芻していた。


次の日、僕は初めて病院の外に出ることにした。学校へ行こうと思いたったのだ。その街は城下町で、病院は町のはずれの山側にあり、通学していた高校は城趾の中にある。ざっと一キロは下らない、慣れたばかりの松葉杖では少々きつい道のりだ。よいしょ、よいしょと自分を励ましながら、一歩一歩、歩みを進めた。一時間近くもかかって、僕は学校にたどり着いた。中庭の通路をたどっていくと、どの教室も授業の真っ最中で、受験を控えて、窓越しにうかがえる学生達の眼差しは真剣だった。もちろん誰も、僕などには気づきもしない。高校生活は日々進んでいて、僕にはもう戻れない、ずっと遠くの出来事のように感じた。

一瞬、僕は訪れたことを、悔いた。

僕は足早に、中庭を通り抜けて、クラブの部室に入り込んだ。

ああこの場所だ。6~7人も入ればいっぱいになる狭い部室に、僕たちはいつもぎゅうぎゅうになって、笑い転げていたのだ。確かにこの場所。なのに今は落ち着かない。このまま誰にも会わずに帰ろうか。まだしばらくは授業が続く。今なら、誰にも会わないですむ。

と、そのうち、周囲ががやがやとざわめいてくる。授業が終わったのだ。部室の前にも人の通りの気配もでてきた。僕は急にどきどきし始めた。みんなに会いたいような、合いたくないような。

その瞬間、扉が開いて、かつての同僚がとびこんできた。彼は、部室に自分より先に人がいることに先ず驚いて、そしてそれが僕だと知って、「お?ッ」と叫んだ。そしてその場で「スノハラが帰ってきた」といったあと、部室の外に向かって、あとからくる部員達に「スノハラが帰ってきたぞー」と叫んだ。それにつられるように、たくさんの足音がバタバタと集まってきて、部室に飛び込んだ。

「スノハラが帰ってきた!」「スノハラ!」「スノハラ!」
喧騒が僕を一瞬に取り囲んだ。僕は、迷子の子供がやっと親に会えたときのような気持ちになって、今まで抑えていたものを吐き出すように、泣いた。ホント激しく、ひとしきり泣いた。みんな、僕が泣き続けるそばで、じっと待っていてくれた。みんな優しかった。
一人が、僕の肩を抱いて、校庭へ行こうか、と声をかけた。ひとたび静まっていた部室が、その言葉に反応して、また、にぎやかになった。そうだ、行こう行こう、校庭へ行こう。
まるでお祭りのおみこしのように皆に囲まれ、松葉杖の僕は泣き笑いで校庭へでた。西に傾きかけたお日様に校庭が照らされて、金色に輝いていた。ああこの場所。確かにこの場所。ここで走り回った。

友人達はそのまま、フットボールに興じた。
アメリカに留学していた先輩が帰ってきて、我々のクラスに編入され、向こうで覚えてきたアメリカンフットボールを皆に伝授していた。夕焼けが反射して真っ赤な地面を、声をかけながら走り回ったり、ぴたりと型を決めて止まったりする動きが、美しかった。すると、傍らに付いていてくれた友人が、突然、「なあ、俺達にとっての桃源郷っていったいどこにあるんだろう」と僕に尋ねた。もう数ヶ月もすれば、授業も終わる。そして受験が始まって、それぞれに旅立っていく。みんな、希望と同じくらいの不安を抱いていた。

でも、僕はその日、はっきりと確かめた。

「桃源郷はここだよ」

友達は不満げに「ここ?」と問い返す。「そうだよここが桃源郷」。友達は周りを見回した。真っ赤な夕焼けにみんなが溶けていた。そして僕の顔のぞきこんだ。「そうか、ここか…。そうかあ、今いる場所が桃源郷なんだ。」僕たちはうなずき会った。そうだよ、今この時、この場所が桃源郷なんだよ。