かなり重いタイトルですみません。平素は「がん」をテーマに書いてきましたが、ある意味では、それも「死にたくない」からであり、死と直面して初めて「愛と命」の意味に気が付けるからでもあります。愛する人の死(命)は遺された者の生き方を一変(新)させる場合があります。愛ゆえです。
しかし、その命を愛ゆえに我が手によって奪った場合はどうなのでしょう?
今回はそれを皆さんと一緒に考えてみたく思います。愛と命の境界です。
クリニックでは法令上、医療安全委員会や感染症対策委員会など毎月様々な会議が開催されています。
今回は先日開催されましたクリニックの「虐待防止委員会」での提示された事例が、特に在宅医療に携わる者として、私は「愛は人を殺すことがあるのか?」と思ったからです。
まず、事例を共有させてもらおうと思います。
さて、皆さんはどう思われるでしょうか?
虐待防止委員会事例検討会
(当院のデイケア天音の里の松久施設長からのプレゼンテーション)
事例紹介 *************************
2006年(平成18年)2月1日、京都市伏見区桂川の河川敷で、無職の片桐康晴被告(54)が介護疲れと生活苦から親子心中を図り、認知症患者の86歳の母親を殺害、その後、自殺を図ったが、一命を取り留め、逮捕された事件です。
京都地裁は21日、懲役2年6月、執行猶予3年(求刑懲役3年)の異例の温情判決をしました。
康晴氏は、両親との三人暮らしでしたが、1995年に父親が他界。それからほどなく母親に認知症の症状が出始め、その介護を一人で行っていました。
2005年4月頃から、母親は深夜に徘徊し始めるなど、症状はさらに悪化。徘徊した母親が警察に保護され、深夜迎えに行くことも増えるなど、康晴氏の生活は昼夜逆転していくこととなりました。
介護と仕事を両立させることが困難となり、職場に迷惑をかけたくないという思いも強く、康晴氏は9月に仕事先を退職しました。
生活保護を3回申請しましたが、失業給付金を理由に認められず、12月には、その失業保険の給付も止まり、康晴氏は生活のため借金をするようになりました。
しかし、その借金も限度額まで達し、アパート代すらも払えなくなり、2006年1月31日、心中を決意します。
最後の親孝行に⋯
そう考え、康晴氏はこの日、車椅子の母を連れて、京都市内を観光しました。
2月1日の早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で、康晴氏は母親にこう言いました。
「もう生きられへん⋯。ここで終わりや」
母親は、「そうか、もうあかんのか」
康晴氏が、母親に「すまん…一緒に逝こう」と言うと、母親は涙を流しながら、「わしの子や。わしがやったる」と言いました。
康晴氏はこの言葉を聞き、「自分がやらなければ」と決意し、母親の首を絞めて殺害しました。
その後、自らの首を包丁で切り自殺を図ったが、通行人に発見され一命を取り留めました。
今回の犯行に対して、康晴氏はこう供述をしています。
「僕は母の命を奪ってしまいましたが、もう一度、母の子に生まれたいと思っています」
康晴氏は姿勢を正し、ずっと上を向いて肩を震わせながら、時折眼鏡を外して右腕で涙を拭い、検察官の冒頭陳述を聞いていました。
裁判官も目を赤くし言葉を詰まらせ、刑務官も必死に涙をこらえていました。
京都地方裁判所での判決公判において、裁判官は「尊い命を奪った刑事責任は軽視できない」とした上で、それまでの経緯や献身的に介護をしていたことなどを酌量し、「母親は、恨みなどを抱かず、厳罰も望んでいないと推察される。自力で更生し、母親の冥福を祈らせることが相当」と述べ、懲役2年6月、執行猶予3年を言い渡しました。また、「自分を殺めることはしないようにして、お母さんのためにも幸せに生きてください」と被告人を諭しました。また、同時に裁判長はこの事件が福祉行政の力で防げた可能性を指摘し、次のような付言を行いました。
東尾龍一裁判長、付言
本件で裁かれているのは被告人だけでなく、介護保険や生活保護行政の在り方も問われている。こうして事件に発展した以上は、どう対応すべきだったかを行政の関係者は考え直す余地がある。
付言の中では異例ともいえる行政への批判が込められており、論告では「哀切極まり同情の余地がある」と述べられており、殺人事件の裁判としては異例ずくめの温情判決でした。
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さあ皆さん如何でしょうか?
どこかで、この殺人の流れを阻止できなかったのでしょうか?
この事件の本当の原因はどこにあるのでしょうか?
もしこの片桐さんが皆さんの隣人だったら、皆さんはどうされますか?
まずは、私のチャットGPTでこの事件の何が異例ずくめなのか?とりわけ、本当に温情判決なのか?通常の判決は?さらにこの事件の本当の原因?その対策は?なども聞きました。
すると以下のような回答がきました。
飽くまで一つのAIの意見ですが、私はなるほどと思った次第です。
皆さんはどう思われるでしょうか?
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プロンプト(AIへの指示文、以下P)
「本事件は異例ずくめの温情判決と言われるが、何が異例ずくめなのか?通常の判例との違いは?本当に『温情判決』なのか?さらに、この事件の本当の原因は何か?これを予防するためにどうしたらよいのか?」の文章を私のチャットGPTに質問(P)しました。
チャットGPT(以下C)による回答⇒斜体で記載
この事件は、日本の刑事裁判でも「介護殺人」の象徴的な事件の一つとして語られることがあります。
まず、この事件で片桐康晴被告は、母親が殺害を受け入れていたと認定されたため、通常の殺人罪ではなく承諾殺人罪で起訴されました。この罪は殺人罪より法定刑が軽く、当時は「6月以上7年以下の懲役(現在は7年以下の拘禁刑相当)」でした。検察の求刑は懲役3年、判決は懲役2年6月・執行猶予3年でした。裁判所は「介護の苦しみや絶望感は言葉で言い尽くせない」「社会で生活しながら母の冥福を祈ることが相当」と述べ、さらに行政の支援体制にも言及する異例の判決として注目されました。
P1「通常ならどのくらいの量刑か?」
C⇒この事件と同じような条件(介護疲れ・心中目的・前科なし・深い反省)であっても、
* 実刑3~5年前後
* 重い事案では5~7年程度
となるケースが決して珍しくありません。特に執行猶予が付くかどうかは大きな分かれ目です。この事件では、
* 長年ほぼ一人で認知症の母を介護していた
* 介護のため退職し生活苦に陥った
* 行政支援を求めたが十分な援助を受けられなかった
* 金銭目的や虐待ではなく、心中を図った事件だった
* 自殺を図っていた
* 深い反省が認められた
* 検察までもが被告に有利な事情を詳細に説明するという異例の立証をした
という事情が重なっています。
P2「温情判決」と言われる理由
C⇒かなり温情的だったと言えます。理由は3つあります。
1. 執行猶予が付いたこと
人が死亡した事件では、執行猶予は一般には多くありません。
2. 検察の姿勢
検察は本来、有罪立証を行う立場ですが、この事件では被告がどれほど献身的に介護していたかを積極的に説明しました。これも非常に珍しい対応でした。
3. 裁判官の付言
判決で行政の介護・生活保護制度の問題にまで踏み込んで言及したことは、当時大きな反響を呼びました。
P3これは「まれなことですか?」
C⇒はい、かなりまれです。介護殺人事件では事情が酌量されることはありますが、
* 殺人で執行猶予
* 検察・裁判所双方がこれほど被告に理解を示す
* 判決が社会保障制度への問題提起になる
という3点がそろった例は多くありません。
そのため、この事件は現在でも介護問題や「介護離職」「介護と生活保護」の議論でたびたび取り上げられています。近年も、高齢の配偶者や親を介護した末の事件で執行猶予付き判決が出る例はありますが、それらも「例外的な事情が重なったケース」として扱われています。
P4「この事件の本当の原因は何ですか?」
C⇒この事件については、原因を一つに絞ることは難しいですが、多くの研究者や福祉関係者、裁判所の見解を総合すると、「介護そのもの」ではなく介護を一人で抱え込まざるを得ない状況が最大の原因だったと考えられています。
主な原因としては、次のようなものが重なったと考えられます。
*介護の孤立
認知症の介護は24時間に及ぶことがあり、家族が一人で担うと心身ともに限界に達しやすくなります。
*経済的困窮
介護のために仕事を辞める。収入が減る。将来への希望を失いやすい。
* 「自分がやらなければならない」という責任感
特に親子関係では、「施設に入れるのはかわいそう」「他人に任せられない」と考え、助けを求めにくい人が少なくありません。
* 社会とのつながりの喪失
仕事や友人との交流がなくなり、相談相手もいなくなると、視野が狭くなり「もう死ぬしかない」という極端な結論に至りやすくなります。
P5「対策として重要だと考えられること」
C⇒個人だけでは限界があるため、本人・家族・社会の三つのレベルで支えることが重要。
1. 介護を一人で抱え込まない仕組み
デイサービス、ショートステイ、訪問介護などを積極的に利用し、家族が休める時間を確保することです。
2. 早い段階で相談する文化
「限界になる前に助けを求めることは恥ではない」という考え方を社会全体で広げることが重要です。
3. 経済的支援
介護離職を防ぐための職場制度や、生活困窮者への支援が利用しやすいことも重要。
4. 地域の見守り
民生委員やケアマネジャー、地域包括支援センターなどが、介護者の疲弊にも目を向けることが大切です。
*私(C)が特に重要だと思う点
この事件を読むと、「もっと早く誰かが『あなた一人で抱えなくていい』と言えなかったのか」という思いを抱く人は少なくありません。
ただ、制度があっても、本人が「迷惑をかけたくない」「自分が我慢すればいい」と考えてしまうと、支援につながらないことがあります。つまり、制度を充実させるだけでなく、助けを求めやすい社会的な雰囲気を作ることも同じくらい重要です。
一方で、この事件から「介護が大変だから殺害も仕方なかった」と結論づけることはできません。多くの人は非常に厳しい介護環境の中でも、周囲の支援や制度を利用しながら介護を続けています。この事件が示しているのは、介護負担、孤立、経済的困窮などが重なり、支援につながれなかったときに悲劇のリスクが高まるということだと考えられます。
この事件が今でも語り継がれるのは、被告人だけを責める、あるいは制度だけを責めるという話ではなく、「家族だけに介護を背負わせる社会でよいのか」という問いを社会全体に投げかけた事件だったからでしょう。
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さあ如何でしょうか?チャッピーって凄いですね。実にこの問いに対して、現在ネット上にあるおびただしい情報の中から最も適切と思われる文字分節から文章を作成してくれます。時代のトレンドをあまりエビデンスなくても流行していれば取り上げてしまうという危うさはありますし、会話するうちに私(船戸)の好みや傾向も学習するので、私に寄り添って、必ずこちらの意見を「否定しない=寄り添う」という傾向が強いので、この点注意が必要ですが、時代のトレンドも今がその時代なので、悪いとも言い切れません。
ですから、一つのサンプルとして参考にすればよいと思いますが、その返信内容が私(船戸)の個人的思考や能力を遥かの超えていると感じて、今では毎日自分のチャッピーに名前を付けて相談しています。でも時々ミスもあるので鵜呑みは注意が必要です(多くはプロンプトが不正確)。
愛と命の境界
さて本論へ戻ります。
実はわれわれ在宅医療を手掛けている医療者にはこの事件は実に切実な問題です。私(船戸)が感じたことは今回の東尾裁判長の付言と同じものでした。
「・・被告人だけでなく、介護保険や生活保護行政の在り方も問われている。~どう対応すべきだったかを行政の関係者は考え直す余地がある。」
行政(福祉課、保健センター、地域包括、社協、民生委員)だけではなく、末端で働く医療介護現場のスタッフこそが最もこの傾向を機微に受信し、手を差し出すことが重要ではないか?と思った次第です。なぜなら第一発見者は現場だからです。
支援の在り方には自助・互助・共助・公助があると言われています。片桐さんの事例もそもそも支援のレベルを超えていた・・「もう終わりや・・」「死ぬしかない」と。しかし実際にはこうした現実の中で生きている人は思いのほか多いのかもしれません。
本事件の場合はその後に、母親を殺し自死(自分への殺人行為)をするという行為は許されるのか?結果として温情があるにせよ有罪判決になりました。どんな状況でも殺人はダメだという事です。しかし、ここまで突き詰められた状況で、「死」以外に選択の余地があったのか?あるとすれば何か?あなたが手を差し伸べて、その先をどこまでケアできますか?
どう思われますか?
私はその先の選択として、なかったから「死」を選んだのではないか?大好きな母親を大好きだからこそ楽にしてあげたい・・と願うのは間違いなく私は「愛」だと思います。その手段が有罪だったのです。ではどういう手段でこの愛を実行できるのでしょうか?
今回の事例は「まず母親を楽にして(愛)、その手段を使った自分を罰する(自死)」という考えは一つの手段だった。私もそうするかもしれないと思いました。
裁判官は「・・自力で更生し、母親の冥福を祈らせることが相当。~自分を殺めることはしないようにして、お母さんのためにも幸せに生きてください。」と被告人を諭したというが、法的にはそうでも、既に自らの手で母の首を絞め殺した自分、他に方法がないから取った手段・・母がいなければ生きられたのか?とやはり自責の念に駆られるのではないか?その上で「幸せに生きる」とは何か?一体どう生きろと言うのか?
片桐康晴さんは、結局この8年後に自ら命を絶たれました。
もし死後の世界があり、閻魔様に接見したときにきっと「あなたの人生は如何でしたか?」と優しく問うに違いありません。
きっと片桐さんはこう応えるでしょう。「僕は母の命を奪ってしまいましたが、もう一度、母の子に生まれたいと思っています」
すると閻魔様はさらにこう問われるでしょう。「それから、どうするのですか?」と。
皆さんが片桐さんなら何と応えるでしょうか?
私は「愛を動機とした殺人」はあるのではないか?苦しみを終わらせたいと願うのは愛ではないかと思います。しかし決して殺人や自死(自分を殺す)を容認するつもりはありません。実際、本判決も温情とは言え、有罪です。
愛と命の境界があるという事ではないでしょうか。
この委員会で、私は当院のスタッフ(部署トップ)にあなたならどうする?と聞きました。どのトップからもクリニックでの日常業務に照らして実に細かな配慮をすでにしている事が縷々述べられました。業務外でもです。何と心強い事でしょう!
手前みそですが、この地域は大丈夫だと思った次第です。
さあ皆さん如何でしょうか?
片桐事件は過去の事例ではなく、今まさに皆さんの周りで起こりかけている、既に起こっているかもしれません。
今を生きる同じ人間として、こういう温かな目と手を職種に関係なく人間として持ちたいものだと改めて感じた次第です。